第17話 治療とは呼べない行為
目の前にある犬飼選手の右肩は、筋肉がはっきりと萎縮し、十分に機能していない。
この状態の背景には、防御性収縮と呼ばれる、無意識に起きる反応がある。
簡単な図が載った資料を開き、指で示しながら説明した。
犬飼選手は、真剣な表情で何度も頷きながら聞いている。
「キミの説明は医者より分かりやすいな」
「医者は忙しいからあんまり細かいことを説明できないですしね」
防御性収縮とは、強い痛みや組織の損傷を脳が察知したとき、周囲の筋肉を無意識に緊張させ、動きを制限する現象だ。
筋肉は動力を生み出し、腱はそれを骨格へ伝える。
腱が壊れかけていると、脳は筋肉の出力を落とす。
それが防御性収縮だ。人体としては、実によくできた仕組みだと思う。
「つまり、犬飼選手の体の中では、脳が筋肉にリミッターをかけている状態ですね」
肩は、四つの大きな筋肉と腱によって支えられている。
一つ程度の筋肉が十分に動かなくなったとしても、すぐに機能不全に陥るわけではない。
一般人が日常生活で行う動作の範囲であれば、という条件付きではあるが、それでも最低限の動きは保たれる。
「でも、俺みたいなアスリートにとっては、不十分な可動域ってことやな」
「そうですね……」
理論上、鍼治療によって、その筋肉の出力制限を一時的に解除することはできる。
だが、そうすればどうなるかは明白だ。
腱には過剰な負荷がかかり、完全に切れてしまう可能性が高い。
説明を聞き終えた犬飼選手は、少し視線を落としたまま黙り込んだ。
言葉を頭の中で反芻しているようにも見える。
「つまり、腱は治せんけど、動きだけは戻せるんやな?」
「はい。でも、それは基本的にはおすすめできない行為です」
こんなものは、治療とは言えない。
しかも、このリミッターは解除しても長くは続かない。
早ければ数日で、脳が再び異常を検知し、元通り制限をかけてしまう。
そこまで説明したうえで、俺は犬飼選手に視線を戻した。
「……それでも、やりますか?」
「頼むわ」
即答だった。
本当にこの人は、今シーズンだけでもプレーできればいいと思っているのだろう。
いや、もしかしたら、来月まででもいいのかもしれない。
「少しだけ、考えさせてください」
そう言って、頭の中で可能性を組み立て直す。
本音を言えば、患者の肩を壊すような施術はやりたくない。
だが、毎回腱の状態を確認し、定期的にMRIを撮りながら管理できるのであれば……。
簡単なことではないが、条件次第では『治療』として成立する余地はある。
そして、俺は決意を固めた。
「分かりました。試してみましょう」
◇◇◇◇◇◇◇◇
まずは、見たことがないほど重症な棘上筋に、鍼でアクセスする。
だが、刺してもほとんど反応がない。
周囲の筋肉はわずかに反応するのに、肝心の部分だけが沈黙したままだ。
鍼でここまで反応しないとは相当な重症だ。
一方で、周囲の他の筋肉は、それほど頑固ではないようで、いわゆるトリガーポイントに鍼を刺すだけで、防御性収縮はある程度解除できた。
問題は、この棘上筋だ。
ここまで状態が悪ければ、普通なら再建手術の後にリハビリが必要になる。
本来であれば、理学療法士の領域だ。
一応、ストレッチについても勉強はしている。
犬飼選手の右腕を支え、棘上筋を伸ばすように動かしてみる。
もちろん、腱に過剰な負担がかからないよう、細心の注意を払う。
……だが、ほとんど反応がない。
同じ筋肉に何度も鍼を刺すのは避けたいが、背に腹は代えられない。
少し位置を変え、鍼をかなり太いものに変える。
そして、再度刺入する。
鍼を上下させると、わずかだが反応が返ってきた。
何度も刺激を加える。少し手応えはあった。可動域を増やすことくらいはできただろうか。
「大部分の防御性収縮は解除できました。もう一度、スイングを試してもらえますか?」
犬飼選手はバットを持ち、ゆっくりとスイングする。
外見上の変化は小さい。
だが、本人の表情はいきなり明るくなった。
「おお……全然ちゃうな。これなら、打てそうな気がするわ」
「効果は、早ければ二日ほどで消えるかもしれません。それ以上は保証できません」
「鍼って、こんなことまでできるんやな……」
犬飼選手は嬉しそうに右肩を触っている。
守備もできるかと聞かれたので、首を横に振った。
「ボールを投げるのはやめてください。断裂する可能性があります」
かつては強肩で知られた選手だ。
だが、投球時に最も負荷のかかる棘上筋腱は、すでに限界に近い。
打撃ならまだしも、送球などすれば、試合中に完全断裂してもおかしくない。
本当に、こんな施術をしてよかったのだろうか。
犬飼選手は満足そうだし、次の予約も取ってくれた。
だが、経過観察は必須だ。
だが、個人的には満足できない治療だ。
まだ完全には緩んでいない棘上筋。使っていくうちに改善するんだろうか。
そんなことを考えていると、犬飼選手が口を開いた。
「灸もやってくれんか?」
「はい、大丈夫ですよ」
どうやら灸が好きらしく、お気に入りのツボまで指定された。
言われた通り、そこに灸を据える。
「おー、兄ちゃん。灸もなかなかやるな」
「ありがとうございます」
褒められたが、そこまで嬉しくはない。
正直、指定された場所に灸を置くだけなら、特別な技術はいらない。
モグサと呼ばれる薬草があらかじめ付いた灸を、シールでツボに貼るだけだ。
俺自身は、治療目的で灸を使うことはほとんどない。
医学的なエビデンスが限定的だからだ。
犬飼選手が言う「効く」という感覚も、心理的要因が大きいだろう。
それでも、灸は皮膚への刺激としては比較的安全だし、何より本人が気持ちいいなら、それでいいと思う。
モグサが燃える独特の匂いが、部屋に広がる。
その中で、俺はただ、犬飼選手が少しでも長くグラウンドに立てることを祈っていた。




