第12話 ヒノ vs 先輩 vs 広島県民
先輩の軽自動車に乗ると、ふわりと女の子のいい匂いがした。
懐かしい、というほど大げさなものじゃない。
ただ胸の奥が少しだけざわついて、遅れて記憶が引っ張り出される。
ああ、そうだ。
高校時代、午前の授業が終わった後、俺の教室の外でいつも待ってくれていた先輩と、一緒に学食へ行っていた。
定食か、カレーかで毎回迷って、結局同じものを頼んで。
そんな、どうでもいいけど、大切だった時間。
その記憶の延長線上に、今の俺がいる。
能力のせいで悲惨なことになった中学時代。
逃げるように地元を離れた高校で、馴染めずに心を閉じていた俺を、結果的に現実へ引き戻してくれたのが綾辻先輩だった。
彼女は、間違いなく俺の恩人だ。
後から聞いた話では、中学時代に全国大会へ出た俺の実績を知った剣道部の顧問が、先輩に声をかけたらしい。
それでも、先輩がいなければ、俺は剣道を再開していなかったと思う。
そして、この呪いを他人のために使おう、なんて考えもしなかったはずだ。
「でも、ヒノくんが医学生になったの、意外かも。
『神の手』を生かして、マッサージ師になるって聞いてたから」
高校時代、俺はマッサージの達人として知られていた。
あまりに人気が出すぎて、無節操に依頼を受けていると、剣道の練習時間が削られるほどだった。
俺と先輩は仲が良かったので、異性にも関わらず、何度もマッサージを頼まれていた。
「はい。専門学校に三年通って、鍼灸師にはなったんですよ。でも、思うところがあって、医師になることを決めました」
「鍼灸師から医学部かぁ。あんまり聞かないルートだね……
でも医学生なら、お揃いだね」
どうやら綾辻先輩は、俺が医学生になったことが素直に嬉しいらしい。
「ってことは、今一年生か。
一番、医学生が楽しい時期だね」
先輩は俺の一つ上で、一浪して医学部に入っているから、今は四年生だ。
四年生は座学が本格化して、かなり忙しい時期になる。
医師免許の国家試験は合格率こそ高いが、そこに至るまでのハードルは多い。
医学部医学科ほど、「入って終わり」から遠い学科はない。
鍼灸師としても開業しているんですよ、と胸を張る。
もっとも、アパートの一室で、本当に最低限の形でやっているだけだ。
大家さんの腰痛をケアする条件で、バカみたいに安い家賃にしてもらっている。
二部屋借りて七万円。大阪市内としては、正直イカれている。
だから閑古鳥が鳴いていても、そこまで負担ではなかった。
「え! 後で行きたい!
最近ちょっと腰が痛くて。ヒノくんのマッサージ、効くから」
マッサージじゃなくて鍼なんですけど……。
まあ、医学生でもこの業界を正確に理解している人は少ない。
車は府道二号、通称中環(中央環状線)を南へ下っていく。
先輩が前から気になっていたらしい、ロードサイドのお好み焼き屋に入った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
席についてメニューを見る。
あれ、珍しい。この店、広島焼きを売りにしているらしい。
大阪では普通のお好み焼きが主流だから、これはかなり珍しい部類だ。
先輩に目配せすると、迷いなく店員を呼び止めた。
「たっぷりチーズ焼き一つ。ヒノくんは、どうする?」
「マヨキムチお願いします」
注文を終えた先輩が、ジト目で俺の顔を眺めてくる。
正直、かなりやりにくい。
「高校を卒業した後に、全然ラインの返事をくれなかった薄情なヒノくんと、またご飯に来れるなんて嬉しいな」
……どうやら、まだ根に持っているらしい。
俺にとっては、ただの年上の友達だった。
でも、人伝に聞いた話では、先輩にとってはそれだけじゃなかったらしい。
俺は鈍感系主人公じゃない。
綾辻先輩に好意を持たれていることくらい、分かっていた。
ある意味、俺にとって高校時代が青春だったのかもしれない。
高校卒業後も、先輩は何度も遊びに誘ってきた。
最初のうちは応じていたが、結局は全部断るようにした。
人を筋肉の塊としてしか見られなかった俺に、誰かを好きになる資格なんてないと思っていたからだ。
人を好きになるには、表情を見なきゃいけない。
でも当時の俺に見えていたのは、顔じゃなく筋肉だった。
それは、相手を傷つけないための、俺なりの選択だった。
「だって、予備校に通ってる人の勉強の邪魔しちゃいけないでしょ。
ちゃんとその旨、電話して伝えたじゃないですか」
そんな建前を並べる。
綾辻先輩は、ジト目のまま俺を見ている。どうやら納得はしていない。
久しぶりに食べる広島焼きをつつきながら、先輩と話し込む。個人的には普通のお好み焼きが好きだが、変わり種としてこういうのもいいかもな。
食事をしているうちに高校時代の話題から自然と話が逸れたので、正直助かった。
もしかしたら、わざと変えてくれたのかもしれない。
先輩は心臓血管外科志望らしい。
なかなかハードな選択だ。
女医の方はワークライフバランスが保ちやすい診療科を目指す傾向がある。
例えば皮膚科とかだな。皮膚科は基本的には緊急の診療とかはしなくてもいい。
ワークライフバランスという言葉の対極にあるのが外科、特に心臓血管外科だろう。
心臓の疾患は致命的なものが多いし、夜でも一刻を争う事態になることが多い。
「先輩はすごいっすね」
この人は、悪戯好きのゆるふわガールに見える。
でも実際は、芯の一本通った女性だ。
「ヒノくんは何を目指してるの? やっぱり整形外科?」
「はい。その中でも、スポーツを専門にしたいです」
この呪いのような能力。
なぜ身についたのかは分からない。
だが、見えてしまうのに、できないことがある。
パッと病変が分かる。原因も分かる。
それでも、俺には止められない。
その現実が、何度も俺を立ち止まらせた。
鍼という治療を、俺は心から素晴らしいと思っている。
続けたいとも思っている。
だが、鍼だけでは救えない場面があることも、分かってきた。
足りなかったのは、知識でも技術でもない。
手を伸ばす資格――権限だった。
見えてしまった以上、知らなかったことにはできない。
それが、この能力の最大の呪いだ。
だったら、最後まで責任を取れる場所へ行くしかない。
それが、俺が医師を目指した理由だ。




