第七話「無敵のブレインウォッシュでなんとかする」
「卒業しても続くからな」
校庭裏のコンクリート壁に押し付けられ、いつものように殴られながら、その言葉を聞いた。
午後の陽射しが校舎の影に遮られ、この場所だけが妙に冷たい。誰も来ない、誰も見ていない——紫門たちが俺をいじめるのに最適な場所だった。
「そ、それはどういう……」
かすれた声で問い返す。頬が腫れて、口の中に血の味が広がる。
「言葉通りの意味だ。最近ヘラヘラしているようだから、宣告しておく。卒業しても続くからな」
紫門の声が、いつになく冷たい。
卒業しても続く?
血の気が引いた。耳の奥で何かが崩れる音がした。
卒業すれば、もう俺との接点はないはずだ。いじめは終わる。そして俺は、この小金沢グループの御曹司とその取り巻きどもの存在を忘れて、心機一転大学でキャンパスライフを謳歌するんだ。
小説を書くことで少しずつ回復していた心が、一瞬で崩れ去った。
「へっへ、紫門さん、こいつまだ分かってないようですよ」
宮本がにやにやしながら俺を指差す。
紫門が俺の胸倉を掴み、耳元でささやいた。
「まったく馬鹿は相変わらずだな。お前がどこにいようと関係ない。この制裁は卒業しても続くって言ってんだ」
「な、なんで!?」
なぜそこまでする必要がある? 俺が何をしたというんだ?
「なぜじゃねえよ。絶対に許さねえ。お前は、俺のサクセスストーリーを壊そうとした。下民が上級国民様に逆らってのうのうと生きていけると思ったか!」
紫門の顔が歪んだ。目が据わっている。こんな目をした紫門は初めて見た。
胸倉から手を離すや、俺を殴り飛ばす。拳が頬骨を直撃し、視界に火花が散った。地面に倒れる。
ふらふらと立ち上がる俺に、紫門が言った。
「終わりだよ、お前」
死刑宣告だ。膝から力が抜けた。
「うっ、うああああああ!」
声が勝手に出た。地面にうずくまり、嗚咽する。もう体裁なんてどうでもよかった。
「……というか、紫門さん、白石が俺たちと同じ年に卒業って生意気じゃありません?」
佐々木がにやにや笑いながら言った。
「くっく、佐々木、お前面白いこと考えるな。よし、白石、お前は留年だ」
はぁ? 留年?
「それとな白石、俺たちが卒業してもヘラヘラしてられないぞ。俺の息のかかった後輩にきっちり言い含めておいてやる」
「あ、それなら俺の弟が適任ですよ。剣道部なんで腕っぷしもあります」
佐々木の弟——確か一年生だ。兄に似た意地悪そうな顔を思い出す。
「おお、それはいいな!」
紫門と佐々木がげらげらと笑う。
宮本の蹴りが腹に入った。再び地面に倒れる。胃の中身がせり上がる。
げほっ、げほっ!
咳き込みながらうずくまる。ようやく顔を上げると、紫門たちはいなかった。
「卒業しても続く」
「留年だ」
「後輩がきっちり遊んでくれる」
言葉が頭の中で反響する。
ちくしょおおおお!
あいつら留年させるだと? ふざけるな!
そんな権限お前にあるわけ——あるんだよな。
天下の小金沢グループの跡取り息子に不可能はない。校長だって、教師だって、金の力の前には無力だ。
嫌だ。留年なんて親に顔向けできない。何より、もう一年この地獄が続く。そして紫門たちが卒業しても、後輩が俺をいじめる。
また地獄が続く。永遠に終わらない地獄が。
ふらふらと校内を歩いた。どこをどう歩いたか分からない。
いつの間にか図書室の前にいた。
思えば、ここが始まりだった。麗良への告発。
麗良——かつて憧れていた人。でも今は違う。紫門を信じ、俺を見捨てた女だ。
それでも、縋るしかない。小金沢グループに対抗できるのは、同じ財閥の令嬢だけだ。草乃月財閥の一人娘である麗良に縋るしかないんだ。
図書室に入り、奥の資料室に向かう。
いた。麗良が難しそうな本を読んでいる。
「草乃月さん!」
叫びながら駆け寄る。
頼む、信じてくれ!
「な、何? 今度は何の用?」
麗良が顔を上げた。俺を見て目を見開き、慌てて立ち上がる。
「分かるだろ! 紫門だよ。全部、本当の話なんだ」
麗良の肩を掴み、揺さぶる。
「紫門が俺を留年させるって言ったんだ! 卒業しても続けるって。お願いだから、信じて!」
「は、離して」
麗良の声が震えている。
「嫌だ」
逃げようとする麗良の髪をとっさに掴んだ。金色の髪。でも今は、最後の希望だ。
なりふり構っていられない。
「お願いだ。お願いします。俺の話を聞いて。信じてくだ——」
「やめてええええ!」
絶叫が資料室に響いた。
強引に振りほどかれ、髪の毛を数本掴んだまま後ろによろめく。尻もちをつく。
「女性の髪を掴むなんて……あなた、頭おかしいの!」
麗良の顔が真っ赤だ。目が吊り上がっている。
「だ、だって」
言葉が出てこない。
「ふん、自業自得よ。紫門君を貶める真似をするから、いじめられるのよ」
自業自得? 俺が何をしたというんだ?
「だから違うって言ってんだろ! どうして分かってくれないんだ」
「わめかないで。そんなことより私に暴力を振るったわね!」
暴力? 確かに髪を掴んだが、暴力のつもりはなかった。
「ち、違う、暴力じゃない。君が話を聞いてくれないから、つい」
「もう沢山。あなたにはきっちりと償ってもらうから」
麗良の目が細くなった。冷たい光が宿っている。
「えっ、償うって?」
「慰謝料よ。庶民のあなたにはびっくりする額かもしれないけどね!」
麗良が口元を歪めた。そう言って、資料室を出ていく。
「草乃月さん!」
追いかけて叫ぶが、振り向きもしない。速足で廊下を歩いていく。
聞こえているくせに……無視かよ。
俺と紫門では信頼度が違う。何を言っても無駄なのだ。
麗良の姿が廊下の角に消えた。
「無敵の財閥パワーで何とかしてくれよおお!」
声がむなしく廊下に響いた。
肩が落ちる。
今日俺は、紫門だけでなく麗良にも敵認定されてしまった。
小金沢グループと草乃月財閥——日本の経済界を代表する二大財閥を、同時に敵に回した。
*
帰宅し、部屋に入るなり内から鍵を閉める。
おしまいだ。
紫門よりも巨大な権力を持つ草乃月財閥まで敵に回したのだ。
慰謝料——草乃月財閥の令嬢が本気になれば、天文学的な額になる。父さんと母さんにも迷惑がかかる。
まずい、まずい。紫門より麗良が問題だ。
頭を抱える。指先が震えていた。
打開策を考えろ。何か、何か手はないか?
部屋の中を歩き回る。机の上には『ヴュルテンゲルツ王国物語』のファイル。俺の心の支えだった物語。でも、もう小説なんてどうでもいい。現実の方がよっぽど絶望的だ。
焦りで頭をがりがりかく。爪に何かが引っかかった。
ふと見ると、爪に毛髪が絡みついている。
手に取り、じっと見る。金髪の長い髪。麗良の髪だ。
毛髪……DNA情報を手に入れた。
あっ!?
昔の記憶が蘇る。小学時代の、封印したはずの記憶。
あの時、俺は——
偶然とはいえ、麗良のDNA情報を手に入れたのだ。
悪魔が囁く。
このままだと俺の人生が終わる。いや、俺だけの問題ではない。このままいじめがエスカレートすれば、大事な家族まで犠牲になるかもしれない。
二度と使わないと心に決めていた。だけど、家族に迷惑はかけられない。
でも——
机の前に座り、考え込んだ。
洗脳機械を使うということは、麗良の人格を変えてしまうということだ。それは一種の殺人に等しいのかもしれない。
いや、でも待て。
麗良は俺を救おうとしなかった。紫門を信じて俺を陥れることに加担した。そして今度は慰謝料で俺の家族まで巻き込もうとしている。
俺が今の状況に追い込まれたのも、麗良が紫門に告げ口したのが始まりだった。
許されない行為だと分かっている。でも、もはや他に選択肢はない。
立ち上がり、押し入れの引き戸を開けた。
雑多な小物類をかき分け、奥から(それを)取り出した。
四重にラップで包んだもの。
一枚、一枚、丁寧に剥がす。
現れた。
洗脳機械。
どこにでもあるようで、どこにでもない金属の箱。パカッと開けると、起動ボタンが現れた。
指先がボタンの上で止まった。心臓が喉元で暴れている。
——本当に、いいのか?
麗良の冷たい眼差しが浮かんだ。「自業自得よ」という言葉。慰謝料で俺を追い詰めようとする口元の歪み。
そして何より、家族が巻き込まれるかもしれないという恐怖。
いいだろう。
もう限界だった。
やってやる!
上民が権力を使って攻撃するのなら、俺も持てるすべての力を使って反撃しようじゃないか。降りかかる火の粉は、払わなければならない。
震える指で、起動スイッチを押した。
機械が低い振動音を立てて動き出す。表面に刻まれた謎の文字が淡く光り、液晶画面が青白く点灯した。
無機質なメッセージが表示される。
『起動中……システムチェック完了』
『洗脳対象のDNA情報を入れてください』
震える手で、麗良の髪の毛を取り出した。金髪の艶やかな髪。かつて憧れていた髪。
その髪を、機械の挿入口に入れる。
もう後戻りはできない。
俺の復讐が、今始まった。




