第四話「いじめのストレス解消法」
あの日から、地獄が始まった。
教科書を隠された。
机の中を探ると、代わりに生ゴミが出てきた。魚の骨と、腐った野菜の切れ端。鼻を突く悪臭に顔をしかめる。後ろで、くすくす笑う声がする。
筆箱を開けると、シャーペンが二つに折られていた。去年の誕生日に父さんがくれた、少し高級なやつだ。「勉強頑張れよ」と手渡してくれた時の顔を思い出す。胸の奥がずきんと痛む。
授業中、背中に何かが当たった。振り返ると、紙くずや使い古したティッシュが床に散らばっている。先生は黒板に向いたまま。気づいていないはずがない。
昼食時には、弁当に虫を入れられた。
母さんが作ってくれた弁当を開けると、大きな虫が卵焼きの上にいた。手が震えて、弁当箱を落とす。中身が床に散らばる。
周りから笑い声。
エトセトラ、エトセトラ……。
要するに、俺はいじめを受けている。
小金沢紫門——クラスの中心人物にして、俺の人生を地獄に変えた張本人。
紫門が煽ると、クラスメートが一人、また一人といじめの輪に加わっていく。俺と一言でも話をした奴は、即座にハブにされる。日直の連絡さえも対象だ。
誰だって我が身がかわいい。当然のことだ。
昨日まで普通に話していた奴らが、今日は俺を避ける。それどころか、紫門に媚びていじめに加担する奴も現れた。
つらい。
朝、目が覚めた瞬間から身体が重い。布団から出たくない。学校に行きたくない。
でも、行かないと家族が心配する。息子がいじめられて学校に行けなくなったなんて、言えるはずがない。
だから、学校に行く。いじめられる。歯を食いしばって耐える。なんとか一日が終わる。
この繰り返しだ。
六時間目のチャイムが鳴った瞬間、全身から力が抜けた。
長かった。時計を見るたびに、針が止まっているように見えた。
ぼろぼろの状態で帰宅する。玄関の鍵を開ける手が震えていた。
*
「あ、父さん」
リビングに足を向けると、父さんがいた。いつもなら残業で夜九時を過ぎるのに、まだ六時半だ。
父さんは草乃月財閥の系列会社で課長をしている。毎日残業続きで大変そうだけど、家族のために働いてくれている。かっこいいと思う。
「おかえり、翔太。どうした? 早く上がれ。もうすぐ飯だぞ」
いつもの明るさがない。眉間に皺が寄っている。
「うん……」
力のない返事をしながら、リビングに向かう。
台所からカレーの匂い。いつもなら腹が鳴るのに、今日は胃が締まる。弁当の虫が頭にちらつく。
家に帰ってきた。ここは安全な場所だ。そう思った瞬間、目の奥が熱くなる。ぐっと堪えて、ため息をついた。
「学校で何かあったのか?」
父さんが新聞をテーブルに置いた。じっと俺を見ている。
「べ、別に……」
声が上ずる。目が泳ぐ。自分でもわかる。
「本当か? 翔太、最近元気がないぞ。何かあったら話してくれ」
答えられない。いじめられているとは言えない。かといって、「なんでもないよ」と言えるほど余裕もない。
沈黙。壁の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。
父さんが立ち上がった。ポケットから携帯電話を取り出そうとする。
「先生に父さんから言う」
「い、いや、ちょっと待って」
「息子が悩んでいるのなら、解決するのは父親の役目だ」
父さんの手が携帯に伸びる。
「やめて、そんなことされたら余計にひどくなるよ!」
思わず大声が出た。
紫門の父親、小金沢グループの会長は相当な親バカらしい。南西館高校にも多額の寄付をしている。噂では数千万円。校長が頭を下げるような額だ。
いじめを訴えても、聞き入れてもらえない。逆に名誉毀損で訴えられるかもしれない。
必死に父さんを止める。学校の事情を説明する。
父さんの顔が曇っていく。携帯をポケットに戻し、深いため息をついた。
「そうだな。翔太の言う通りだ」
父さんの肩が落ちた。
「……うん」
「転校するか」
ぽつりと、その言葉が落ちた。父さんの目が俺を見ている。
「別に今の高校が人生のすべてではないんだ。そこで躓いても、他でやり直せばいい」
——転校。
その言葉が、頭の中で反響する。
逃げられる。あの地獄から。紫門から。毎日のいじめから。
一瞬、膝から力が抜けそうになった。目の奥が熱い。
でも——
「他って、この時期じゃ無理だよ。近くの高校は編入の募集をしていなかった」
「なら遠くでもいい。県外まで探せば募集しているだろう」
父さんの目は真剣だった。今の家を売って、家族皆で引っ越してもいいと言っている。
うちは去年買ったばかりだ。三十五年ローンを組んだマイホーム。母さんは「やっと自分の家ができた」と泣いて喜んでいた。妹の美咲も自分の部屋ができてはしゃいでいた。
引っ越しなんて、できるはずがない。
これ以上、親に迷惑をかけてどうする。
——笑え。
何でもないように言え。それが一番いい。
腹に力を入れる。顔の筋肉を動かす。唇が引きつる。頬が震える。
父さんの目が俺を見ている。その目を見ながら、嘘をつく。
「あはは、冗談だよ。転校なんて、父さん深刻になりすぎ。確かにクラスメートと喧嘩して、少しブルーになってたけど、ただそれだけだから」
「本当か?」
父さんの目が細くなる。
「うん、喧嘩しただけだよ。これからは無視する。大丈夫。クラスには俺を心配してくれる友達も大勢いるんだ。俺は一人じゃない、大丈夫だから」
嘘だ。全部嘘だ。友達なんていない。
「本当なんだな?」
「本当だ!」
はっきりと父さんの目を見て断言する。同じ言葉を何度も繰り返した。
十分ほど経って、父さんは頷いた。
「わかった。でも、どうしても我慢できなくなったらすぐに相談しろ。転校していい、逃げるのは恥じゃない。父さんと母さんは、いつでも翔太の味方だから」
目の奥が、また熱くなった。
*
あれから二週間が過ぎた。
父さんとは毎晩のように話をしている。仕事の話、学生時代の話、将来の夢の話。学校は地獄だけど、家での時間が俺の支えになっていた。
そんなある日、父さんが言った。
「翔太、悩んだ時やストレスを溜めた時は、日記を書くのが良いぞ」
「日記は、なんか宿題みたいで億劫だな……」
「それならば、小説を書くことを勧める」
小説?
父さんの趣味は小説を書くことだった。休日にノートパソコンで何か書いているのは知っていたが、内容は教えてくれなかった。
「父さんは、職場のストレスを小説で解消しているんだ」
嫌な上司を悪役にして、正義が勝つ話を書いているらしい。
「悪い奴らを思い切り懲らしめて、いい人たちが報われる話を書くんだ。そうすると、現実のストレスも少し軽くなる」
なるほど。現実では紫門みたいな奴が我が物顔で振る舞っている。でも、小説の中でなら違う。
紫門をコテンパンにする話。想像しただけで、胸の奥がすっと軽くなった。
*
それから数日後。
自分の部屋で、パソコンの前に座った。
真っ白な画面。点滅するカーソル。
何を書けばいいんだろう。指先が冷たい。
でも、書きたいことはある。紫門をぶっ飛ばす話。麗良さんが俺を認めてくれる話。正義が勝つ話。
深呼吸。最初の一文を打ち込む。
——主人公の名前はショウ。どこか遠い国の王国を舞台にした冒険ファンタジーだ。
指が動き始めた。
ショウは王国の騎士。身分は低いが、正義感と勇気で信頼されている。しかし、王国には悪しき王侯貴族シモンがいた。シモンは権力で庶民を苦しめ、王様すらも騙している。
麗良という名前の王女も登場させた。美しく心優しい王女だが、シモンの甘い言葉に騙されている。
キーボードを叩く手が止まらない。
宮本や佐々木も悪役として登場させた。名前も見た目も、思いっきり悪そうにしてやった。
最後は、正義の騎士ショウの活躍で悪臣たちを成敗する。王侯貴族シモンは大罪が明るみに出て極刑だ。
火あぶり? いや、磔もいいかも?
おぉ、いいね、いいね!
紫門たちがざまあみろになる光景を想像したら、胸がスッとした。これはいいストレス解消法だ。
物語の世界では、俺は無敵だ。どんな敵も乗り越えられる。
父さん、ありがとう。俺を思って、自分の趣味を打ち明けてくれた。
よくよく考えれば、いじめが一生続くわけじゃない。高校を卒業すれば、奴らとは縁が切れる。
それまでの辛抱だ。
父さんが教えてくれた新しい武器を手に、俺は明日からも戦い続ける。
——ふと、思った。
この小説、誰かに読んでもらえたら、どうなるんだろう。




