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ドロシーと立ち話をしたエレナは、足取りも軽く総合室へ戻った。
部屋にいたのは、室長のジョンだけだった。他の職員たちはそれぞれ受け持つ仕事のため、出払っているようだ。
書類仕事をしていたジョンに分厚い封筒を手渡す。
「ジョン室長、お疲れさまです! こちら、各部署から集めてきた書類です。どうぞご確認を」
「ああ、お疲れさま。重かっただろう、ありがとう」
封筒の他にも洗濯籠を持つエレナを見て、ジョンが微かに目を見開く。どうやら驚いたらしい。上司の労いに心があたたかくなったエレナは、小柄な体を反らして胸を張る。
「私、こう見えて力持ちなんです。まだまだ持てますよ!」
「そうか。だが無理は禁物だ。遠慮なく俺やルーカスを呼ぶといい。ところで、何かいいことでもあったのか?」
「ええっ、どうしてわかるのですか?! 私、顔に出てます?」
何も話していないのにと驚いたエレナは、思わずジョンに迫る。
ジョンからしてみれば、常日頃から想いを寄せている人の笑顔が、いつもより更にキラキラと輝いて見えたので何気なく問いかけたのだが、もちろんエレナは知らない。
エレナとの距離の近さに内心大慌てのジョンだが、珍しく己の死んだ表情筋のありがたさを強く噛み締めながら、平然を装って答える。
「ただの、勘だが」
「まあ、そうでしたか。大きな声を出してしまい、申し訳ありません。そうそう、その『いいこと』なんですけれども、先程外廊下でドロシーさんと話す機会がありまして、ついにお友達になれたんですっ!」
「それは良かったな」
以前から、エレナがドロシーと親しくなりたいと願っていたことを知っていたジョンが、紫色の瞳を細めて微かに微笑んだ。
その包み込むような柔らかな眼差しに、エレナは急に自分の上司を直視できなくなってしまう。
ローラから「ジョンは周囲の噂を気にして一人で昼食を取っている」と聞いて、ここ一ヶ月ほど数日に一度の頻度で、ジョンと二人で昼食を取るようになった。最初は沈黙が多くぎこちない会話だったが、今ではお互いのことを少しずつ話せるようになり、総合室へ移動してきた最初の頃より親しくなれてきたように思える。
しかし、彼がたまに見せるようになった、この笑顔が少々曲者で。
(いつかの夜勤のときもそうだったけど、いつも笑顔を見せない人の、たまの笑顔の破壊力はすさまじいわね……。恋愛小説に登場する不器用なヒーローたちに多く見られる場面だけど、実際に間近で見るとヒロインみたいにこんなにドキドキしちゃうなんて、知らなかった……って、いやいや、私ヒロインって柄じゃないからっ! 通行人その1がお似合いだからっ!)
「は、はいっ、ありがとうございます! そ、そうですわ、休憩のための準備をしないと!」
自分の恥ずかしい妄想に心の中で突っ込みつつ、荷物を自分の席に置いて、エレナはパタパタと再び総合室から廊下へ出た。
昼後の休憩になり、サム、ローラ、ルーカスが戻ってきた。
先程の通り雨が本降りになったようで、大きな雨粒が窓を激しく叩く。空は灰色の曇天、この時期特有の豪雨だ。
エレナは、総合室の共用テーブルに職員たちと自分用の飲み物、そして濡らした手拭きを用意する。
何故なら、ローラが食堂から持ってきた今日のおやつが、コロンと丸いドーナツだからだ。美味しいのだが油が手につくため、濡らした手拭きが必需品なのだ。
外側はカリッと、中はしっとりギュッと詰まっているので、腹持ちがいい。砂糖をたっぷり使い、時間をかけて揚げているため常温でも数日は日持ちする、ボスポラス海国定番のお菓子である。
準備が終わり、エレナも席についた。雨の勢いが弱まったのを見計らって、ジョンが低く落ち着いた声で話し出す。
「明日の予定だが、一点変更がある。国王陛下の元へ、獣人国バーントシェンナから使者が来るのは以前から話していたが、急遽クロード・ルー・ノワールも来ることとなった。彼が我々総合室の職員に改めて感謝を伝えたいそうなので、時間を取ってほしいとのことだ。俺は明日明後日と休みを取っていたが、責任者として対応するため、明日の昼前まで出勤する。以上だ」
ジョンの報告が終わると、サムがあたたかい紅茶のカップを持ち上げ、ニヤリと笑った。
「ほう、クロがのぅ。自分の国に帰って、真面目にやっているのじゃろうか?」
「サムさん、仮にも隣国の貴族子息ですから、もうその呼び方はまずいんじゃあ……」
「大丈夫よ、ルーカス。さすがにサムだって本人の前では呼ばないわよ。もう亀じゃないんだから。それにしても、あんまりにも急な話じゃない? こちら側の準備だってあるのに。話に聞くと相当軽薄そうな男だから、会ったときに何て言うか楽しみねぇ」
サムの軽口に、ルーカスが苦笑いで、ローラが憮然と答える。
2ヶ月ほど前に起きたカメリーン誘拐事件で、行方不明になったカメリーンと行動していたらしい黒い亀を保護した。ボスポラス海国固有の種ではないため、一時的に総合室で預かっていたのだが……。
「話を理解していそうな賢い亀さんだと思っていましたが、まさかクロさんが獣人国バーントシェンナの狼獣人で、しかも騎士団長のご子息様だったなんて本当に驚きましたわ。ボスポラスの魔女様のお力で元の姿に戻れて、本当に良かったですよね」
「まあねぇ。でもそもそもは美人局に引っかかったのが原因だから、自業自得とも言えるわよねぇ」
「まさしく。日頃の行いが良ければ、防げた事態じゃな」
「事実とはいえ、容赦ないですね……」
ローラとサムの辛辣な意見に、トングで丸いドーナツを自分の紙皿にうつしていたエレナは苦笑するしかなかった。
対立する虎獣人の貴族による美人局に引っかかり、その貴族に騙されたバーントシェンナの魔女の暴走で黒い亀へと変化させられたクロード。海鳥によってボスポラスまで運ばれ、この王宮に迷い込んでいたのだ。
総合室へ預けられたときにこの国の言葉を覚え、獣人の力が増す満月の夜に亀から子供の狼に変化した際に、居合わせたジョンとルーカスに事の経緯を伝えた。
コーヒーを一口飲んだジョンが、大きく溜息をつく。
「ポスポラスの魔女がバーントシェンナの魔女に連絡を取ってくれたおかげで、クロードが元に戻れたのは確かに良かったが、我が国と相手の国との手続きなどが煩雑過ぎた……やっと連休が取れると思ったが、半日潰れてしまった」
「ジョン室長、ここ一ヶ月ほどずっとお忙しそうでしたものね。本当にお疲れさまでした。私も明日と明後日がお休みですけれど、申し訳ない気がしますわ。クロード様がいらっしゃいますし、私も明日は出勤した方が……」
珍しく弱音を吐く上司に、エレナは驚きつつも心配する。同じように休日を減らそうとする部下に、ジョンは毅然と首を横に振った。
「いや、エレナくんの休みは以前から決まっていた正当なものだ。何も気にすることなく、心身を休ませてほしい」
「そうよ、ジョンは責任者として相応の権限とお給料をもらってるんだから、気にすることないわ。急に訪ねてくる相手が悪いのよ。エレナはしっかり休みなさい。あたしたちで、ちゃーんとクロード様をもてなすから。ね?」
「では……お言葉に甘えて、明日と明後日はよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げるエレナに、うんうん、と笑顔で頷くローラとサムとルーカス。
何となくローラの笑みに凄みを感じるが、きっと気のせいだろう。隣に座るジョンを横目でチラリと見ると、力強く頷いてくれた。
エレナは頼りになる同僚たちがいて幸せだと感じた。
エレナたちが食べてるお菓子のイメージは、沖縄のサーターアンダギーです。
南国が舞台なので、今後も沖縄やハワイなどの食文化や風土を取り入れていきますので、お楽しみに。




