【030】Eはここにある ―― 無意味な想像と無価値な崩壊について
リリエンタールの兄である神聖皇帝と首相のゼークトが退室してから、すぐにリトミシュル辺境伯がシガールームに現れ、そこからさほど時を置かずしてアディフィン国王コンラート二世が六名ほどの部下を連れて入室した。
ソファーに腰を下ろしたコンラートは、ソファーの座り心地に感動することもなく ―― リリエンタールとパレは細身の葉巻、フォルクヴァルツはパイプ、そしてリトミシュルは太めの葉巻を薫らせている。
各人の煙草が燃え尽きるまで、じりじりとした時が流れ ―― 最初の火を消したのはリリエンタールだった。
斜め後ろに控えているアイヒベルクが差し出した灰皿に葉巻を捨て、
【朕がルース皇帝であったならば、協力してやれたかもな。残念だったなコンラート……いや望んだことだったからかまわないか】
熱や感情といったものが一切排除された声で話し掛ける。
【アントンがルース皇帝アントン七世になったら、リトミシュルの跡取りは離反すると思われていたとは知りませんでしたよ、陛下】
肘掛けに用意されているクリスタルの灰皿に葉巻を押しつけながら、リトミシュルは二十年以上前の出来事に言及する。
ルース帝国が滅びた理由はさまざまある ―― 実際に滅んだ理由は亡き皇女アナスタシアが滅びを望み、それをリリエンタールが叶えた。それだけなのだが、周囲には周囲の思惑があった。
リリエンタールを次期国王にと望むブリタニアスの補給妨害。そして ――
【そんな気持ちは微塵もなかったのですがねえ】
【……】
アディフィン国王の王位を簒奪されるのではないかという恐怖による、隣国政情不安の放置。
隣国の政情不安は地続き国家にとってはなにがしかの手を打つべき出来事なのだが、コンラートは何ら策を打ち出さなかった。
リトミシュルとリリエンタールは、フォルクヴァルツを含めて幼年学校以来の親友である ―― 各人の認識はともかく、世間的にはそう見られている。
リトミシュルはパレ奪還作戦のさい、リリエンタールの命を受けてノーセロート軍を潰した。
リトミシュルの主君はコンラートで、アディフィン王国は正式に軍の派遣を行ってはいないのでノーセロートの公式文章には「何者かによる襲撃」としか書かれていないが ―― 上層部は誰が指揮を執ったのかしっかりと認識していた。リリエンタールと同い年、十五歳のリトミシュルである。彼は作戦実行途中に片目を失う大怪我をしたが、それでも任務をやり遂げた。
そこにあったものが何なのか? ―― コンラートはリリエンタールに対する崇拝だと考える。
悪いことにリトミシュルが継ぐ領地はルース帝国と大きく隣接しており、ルース帝国の首都までもそう遠くはない。コンラートが知らぬまに、二人が策を練って……と考えてしまったのだ。
【戦わずして国境を守れるよう国家のことを考え、将来のルース皇帝に近づいたのですが、まさかそれに疑念を懐かれるとは思ってもおりませんでした。わたしも若かったということですなあ】
覇気にあふれる少年 ―― コンラートはリトミシュルがいずれアントン七世と共謀し、王の座を奪われるのではないかと曲解した。
その理由だが、アディフィンの前国王は跡取りをもうけぬまま死去したことにある。
跡取りがいない国というものは、各国がすぐさま領土を奪いにくる。事実、神聖帝国・アブスブルゴル帝国・ルース帝国の三国が勝手にアディフィン王国割譲案を話し合い始めた。
そこでアディフィン王国は、領土を奪おうとしていた王国の血を引く娘を王妃として迎え、彼女の配偶者を王に据えるという手段をとった。
この時選ばれたのがバイエラント大公ゲオルグの娘 ―― リリエンタールの異母姉である。
コンラートは王位を目指し画策し、王妃の夫、すなわち王の座に就いたのだが、貴族にとって重要な家格では王妃はもちろんリトミシュルにも劣る。
王妃の夫を王に据える騒ぎが発生したのはリトミシュルの祖父の代。祖父は王位に興味を示さず、王妃の夫レースに乗らなかったのだが、名乗りを上げていたら彼に決まっていただろうという血筋・経歴ともに優れた人物だった。
コンラートはそれを引きずっていた ―― コンラート自身、そこまで引きずっているとは思っていなかったのだが、優秀なリトミシュルと妻の弟にして未来の皇帝を前に、自分がもっとも恐れている想像が、あたかも本当のことのように思えてきてしまい、結果としてリリエンタールがルース皇帝に即位するのを嫌い、ルースの内乱から革命の際、一切の協力をしなかった。
ルースが倒れたとき、コンラートはこれでリトミシュルに疑心暗鬼を懐かずに済むようになるので良かったと考えたほど。
リリエンタールは近くの大帝国の皇帝にはなれなかったが、遠くの大帝国の支配者になれるので、問題はないだろうとも。
むしろブリタニアスには感謝して欲しいとすら思っていた。
なにより二人が一切このことに関して触れてこないので、自分の内心は知られていないと ――
【陛下がそれをお望みならば、臣は叶えて差し上げるまで。というわけで、あなたの地位を消滅させます】
だが二十年以上過ぎて、それは全くの楽観であり、取り返しのつかない状況になっていることに、このシガールームで初めて気付いた。
【コンラート】
【はっ……】
抑揚のない喋り方をするリリエンタールだったが、表情が少しだけ緩んでいる ―― ようにコンラートには見えたものの、その表情に安堵など全く浮かんでこなかった。
【なにを勘違いしているのかは知らぬが、わたしがルース皇帝になろうがなるまいが、関係はなかったぞ。ヴィルヘルムはアディフィン王位くらいならば単独で獲れた】
リリエンタールにとって自分の評価が低いのか、それともリトミシュルの評価が高いのか? コンラートには判断できなかったが、今までの自分の行動を考えれば、評価が低くても仕方ないということは受け入れるしかない。
【ルース帝国はアントンがいるから、アウグストと手を組んでも無理ですが】
【組まないから安心するがいい、ヴィルヘルム。わたしは勝てない戦いはしないクチだ】
【わたしとてそうだ】
二人は軽口を叩き ――
【コンラート陛下は、アントンの性格を理解していないようで。アントンは王位を奪いたいから力を貸して下さいなどという者に、なにかを貸してやるような人間ではない】
フォルクヴァルツは語り終えると再びパイプをくわえる。
【おまえに言い当てられるのは不愉快だが、そういうことだコンラート】
パレは新しい葉巻を手に取り、シガーカッターで端を切り口にくわえると、隣でパイプとそれ以上にこの状況を心から楽しんでいるフォルクヴァルツが葉巻専用の持ち手の長いマッチを擦り ―― パレは顔を寄せて葉巻に火を付ける。
全てのことの発端はシャルル・ド・パレ。彼を助けるさいに、リリエンタールはその才能を見せつけすぎた。各国は脅威を覚え、自分の国の王へと望んだことが、ルース帝国崩壊の発端。
【朕が手を貸さねば、ヴィルヘルムに勝てると踏んだのであろう?】
【……はい】
勝てると踏んだが、現実はそうではなかった ―― コンラートはリトミシュルに切り崩され崩壊してゆく王国に対しどのように手を打っていいのか分からなかった。
すでに大統領は辞任し、リトミシュルの元へと走った。
自分がこんなにも求心力がなかったとは……と、自嘲しているような余裕すらない。
【心配するな、コンラート。朕はヴィルヘルムには手を貸さぬ。だがおまえに手を貸すこともない。朕がルース皇帝であれば、力を貸してやれたかも知れぬが】
完全に自分は見捨てられたのだとコンラートは理解した。
【心配するなコンラート。本来ならば怒るところであろうが、朕は皇帝の座を奪われたことにより、イヴを正妻として迎えることができ、イヴとの間に生まれる子に朕の権限を全て相続させてやることができるようになった。貴様の行動はさほど朕に影響は与えなかったが、義兄ゆえ甘く甘い判断で少しくらいは役立ったとして見逃してやろう……許しはしないが。葉巻を吸ったら帰るがいい、コンラート】
アイヒベルクが葉巻を切ってコンラートに渡してから火を付ける。コンラートは葉巻を一本吸い終えてから、肩を落として退出した。
【……さてと、執事の仕事に戻りますね】
【わたしは秘書官の仕事に】
ベルナルド・デ・フィッツァロッティは立ち上がると灰皿を回収し、フォルクヴァルツはパイプ片手にシガールームを出ていく。
【アウグスト。イヴは煙草類の煙を嫌うから、シガールーム以外では吸うなよ】
【もちろん!】
分かっているのかいないのか、きっと分かっていて無視するだろう男は軽やかに去り、リリエンタールはアイヒベルクにも下がるよう手で指示を出す。
アイヒベルクは頭を下げてから室内の窓を全て開けて退出し ―― シガールームにはリリエンタールとリトミシュルだけが残った。
夕暮れの一歩手前、日が傾き始めている。遠くから途切れ途切れにロスカネフ語が聞こえ、僅かに拾えるクローヴィスの声にリリエンタールは目を閉じる。
【 】
リトミシュルは笑いながら、リリエンタールが触れられたくない部分に触れる。
【フランシスにも同じことを言われた】
リリエンタールは目を閉じたまま頬杖をつき、テサジーク侯爵にも言われたと返す。
【あいつのことだ。きっと”君ほどの男が、そんなことも受け入れられないなんて”とでも言われたか】
【ふん。どこかで聞いていたのか】
一言一句間違わずに言われ ――
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シャール宮殿でフォーム改造などをしていた選手団の一行は、本日はここに泊まり ―― クローヴィスは主寝室でリリエンタールとベッドを共にしていた。
リリエンタールはクローヴィスに意識を手放すほどの快感を与え、寝息を立てているクローヴィスを見つめる。
”十年くらいしたら、愛人用意してあげないとね。なんて顔してるの君。若い嫁をもらった夫の常識でしょう。えーもしかしていやなの? 君がわたしの年齢のとき、お嫁さんはまだ三十代だよ女盛りなんだよ……そんなにいやなんだ。君ほどの男が、そんなことも受け入れられないなんて、お嫁さんも罪作りだねえ”
年若い妻が若い男と性を楽しむ。それは貴族の間では珍しいことではない。女性は幾つになっても女性であることは、リリエンタールも知っているしそれをとやかく言うつもりはないが、
「ん……アントーシャ……」
「おや、起こしてしまったか。済まないな、イヴ。果てたイヴがあまりにも艶めかしくて、目を離せなかったのだ。イヴは視線を感じると目を覚ますのを知っているのに」
自分の妻がそれを選ぶのは ――
「いいえ……起きてるなら、お話を」
先ほどまで熱と涙を浮かべていた緑色の瞳を擦りながら、クローヴィスは体を起こそうとするが、
「いや、横になりながら話をしたい」
もう寝るところだと、肩をそっと押し軽く口づける。
ふんわりと笑ったクローヴィスは、体を再び投げ出して、
「アントーシャ。実は明日の朝、食べて欲しいものがあるんですけど」
リリエンタールも身を横たえる。
「ん? なにか作ってくれたのかな、イヴ」
「はい。明日の朝のお楽しみ……と言うほどでもないのですが」
「イヴが作ってくれたのであろう。楽しみで、楽しみで……夜も寝られないというのは、こういうことか」
リリエンタールは無防備なクローヴィスの素肌を手で撫で ―― 情欲を誘う箇所へと手を伸ばす。
「眠くなるまでもう少し付き合ってくれるか、イヴ」
「…………はぃ……」
クローヴィスは真っ赤になりながら目を固く閉じ、リリエンタールは睫が震えている目蓋に口づけ ――




