【019】代表、準備を整えて向かう
借家の一部を頭突きで壊しかけ ――
「よくあることよね」
「これをしない士官なんて、実家が大金持ちくらいよねえ」
同期女性士官二名に慰められております。
「だよねー」
音と羞恥心がすごかった額の殴打ですが、慣れているので痛いけれど、どうということはない……のですが、閣下がとても心配してくださって。
「ハインリヒを呼べ!」で、シュレーディンガー博士に診察してもらい「大丈夫ですよ」と診断されたのだが、閣下が信じてくださらず。その後医療スタッフの一人で唯一の女医である、エサイアスの姉も診察して、同じ診断を下したことで……納得して下さらなかったのですが、
「あなたは医者じゃないのですから、医者二人の見立てが同じなのだから引き下がりなさい」
執事のベルナルドさん……あの時は間違いなく廃王太子シャルル殿下でしたが、その意見を聞き引き下がってくださった。
そしてベルナルドさんが、
「お仕事を片付けてきてください。妃殿下にはわたしがついていますから」
「お前は弱いだろうが」
「この場には腕力のある士官たちが大勢いますから。足りないのは血筋だけ。それならばわたしで充分補えますから、さっさと行って下さい」
行くように説得してくださった。
「本当に大丈夫なのだな、イヴ」
「はい」
「……」
申し訳なくなるくらい閣下が心配して下さり……自分の注意力の散漫さが、他者にこんなにも心痛を与えてしまうとは……深く反省。
「あのですね、額にキスをしてもらえれば、嬉しいです」
心配をかけた上にキスをして欲しいと強請ったところ閣下は、
「顔中にキスをしたいくらいだ」
結構な真顔でそのように仰った。
「望まれていないことは、しなくていいんですよ。さ、妃殿下のお望み通りに額にキスをして、行ってください」
「……まったく、お前は。イヴ、痛いだけではなく、少しでも体調が悪かったりしたら、すぐにハインリヒに伝えるのだぞ」
「はい。お約束いたします」
そして閣下はわたしの額に、本当に触れるだけのキスを。
「痛くはなかったか?」
本当に触れるだけで、少し擽ったかったくらい ――
「痛くなんてありません。これですぐに治りますので、ご安心ください」
わたしも閣下の額にキスをしてお見送りを。
わたしが額を殴打した事件は、これで終わった……わたしたち下っ端にとっては。
帰国後に知ったのだが、閣下はこのあとすぐにロスカネフのキース大将に「イヴが頭を打ちつけたから、もっと大きな邸を借り上げたい。貴族用の集合住宅か、タウンハウスに全員を移動させたい」と伝えたのだが「資金不足ですので却下いたします」との返事が返ってきて ―― しばしやり取りが続いたそうです。
閣下が「全額持つ」と言えばキース大将は「国家の代表選手と国の仕官に、他国の援助は不要」と。閣下はそれに対して「寄付するだけだ。基金を作ってもよい」などと引かず。
もちろんキース大将は一切折れることなく、わたしたちも「狭いけれど慣れれば平気」で過ごしていたので、結局閣下が諦められたとか。
我が国の儚い詐欺を働く総司令官兼副大統領閣下は、権力者に阿らない不屈の精神をお持ちです。……当人もかなりの権力者ではありますけれど。その権力を自らの力で、一から築き上げた傑物ですが。
下っ端はそんなことがあったなどと知らず、同期とエサイアスの姉と、女性スタッフ一名と食事をしながら会話を楽しみ ―― 翌日、閣下と共に女王陛下さまの夜会へ乗り込む。
「完全に戦場にいく兵士の顔だ」
バックリーン軍曹がわたしたち ―― 視察組とシベリウス少佐を見て、そのように評したが、
「女王の夜会よ! 女王の夜会」
「ブリタニアスの女王の夜会とか、周りは全部敵だらけ」
あながち間違いではない。
「お前たちも参加したいのであれば、連れていってやるぞ!」
フォルクヴァルツ閣下改めアウグスト陛下(独立完了)のありがたいお言葉に、
「いえ、結構でございます」
バックリーン軍曹はきっぱりと断りを入れた。彼ははっきりと断ることができるタイプの男で、そこは好感が持てるというか、嫌いではない。いやまあ、全体的に嫌いではないが。向こうがわたしを嫌っているだけで。
それはともかくシベリウス少佐以外の選手組は、身分と階級が少々……それにブリタニアス語もあまり得意ではないし、異国の宮廷マナーもよく分からないということで、留守を守ってくれるとのこと。
「とりあえずこのわたしがいるので、国家権力が来ても大丈夫ですので」
万が一……なにもないとは思うのだが、貴族の手下が来た場合に対応してくれるのは、シュレーディンガー博士。ほら博士って閣下の庶兄で子爵で有名人なので、貴族界隈に顔が利くとのこと。権力のほうは、閣下のお力で。
何でそんなに警戒しているのか? それはレオニードのヤツがいたからです!
わたしたち士官組もブリタニアスの宮廷語的なものは怪しく、軍階級もそれほど高いものではないが、キース大将に「行け」と命じられたので ―― 軍人たるもの総司令官直々に命じられたら、何処へでも出向かねばならぬのだ!
それが異国の夜会の場であろうとも!
……戦場とは違って簡単には入り込めないので、身分ある招待客のお供という形になりますけれど。
女王陛下主催の夜会は原則として伯爵以上のみ。
夜会ですので、パートナーが必要ということで、その倍の数になる。
社交デビューしている令嬢や子息なども「付属」という形で連れてくることは可能。それ以外の従者などを会場内まで伴うことが出来るが、それは爵位や血筋によって数が異なる。
単純に言えば一般的な伯爵……伯爵というだけで凄いので、一般的ってなんだよ? と言いたくなりますが、閣下も伯爵といえば伯爵なので、閣下とは違う伯爵ということで ―― この場合は会場に伴える使用人は二名で、連れてくることができる家族はパートナー以外では二名。
さらに招待できるのは四名ほどだが、この招待者のなかに、家族のパートナーも入るため、それ以外で伴えるのは二名ということになる。この二名は当たり前だが男女一組でなくてはいけない。
女王陛下さまは無制限で、閣下も無制限……ブリタニアス王太子という立場ですと、女王陛下さまより控えなくてはいけませんが、閣下は「王太子ではない」と意思表示するためにも無制限、もしくは女王陛下さまよりも多めで攻められるのだそうだ。
「狂犬を連れていくとは、まさに争う姿勢を前面に押し出しておりますな」
我が国の士官たちを伴うアウグスト陛下が仰る「シェーヴル」とはクレマンティーヌ総督のこと。
クレマンティーヌ総督の本名は「クレマン・シェーヴル」でクレマンティーヌは渾名……だが実はこれが逆で、本名がクレマンティーヌで、クレマン・シェーヴルは後々付けられた渾名のようなものなのだと。
どういうことなのか? かいつまんで説明すると、クレマンティーヌ総督は生まれた時から孤児で、同じような孤児仲間が育ててくれたんだって。貧民街の孤児たちは名前を付けるということすら知らず「チビ」とか「赤毛」とか「ガリ」とかそういう感じで呼び合っていたそう。
そこから紆余曲折があり、クレマンティーヌ総督は「クレマンティーヌ」と名乗るわけですが、総督と仲間のみんなは「女名」と「男名」があることを知らず ―― 女の名前を名乗っちゃったのだそうです。後に閣下に拾われ、一応男名をもらったのですが、基本みんな「クレマンティーヌ」と呼ぶとのこと。名付けた閣下ですら「アレは書類上のことだ」ということでクレマンティーヌと呼ばれる。
「クレマンティーヌが部下たちに、王族が開く本物の夜会というものを経験させてやりたいと殊勝にも申し出てきたのでな」
「あれを健気と評するのは、アントンだけですぞ」
「お前に比べたら、健気で泣けてくる」
「泣かないでしょうに」
「それはな」
「わたくしめより殊勝というのは、同意でございまするが」
「世の中でお前ほど殊勝さを持たぬものはいないからな」
「いやいや、ヴィルヘルムをお忘れか」
「忘れておった。存在自体な」
「あの存在を忘れられるとは、さすがアントン」
……ということで、夜会会場ではクレマンティーヌ総督とその腹心の部下に会えるようです。
「閣下、クレマンティーヌ総督の部下の皆さまに、紹介していただけるのでしょうか?」
シャール宮殿で着替え、もっとも遅く会場入りする ―― 黒塗りの箱型馬車で移動中、閣下に尋ねると、
「……ふむ、ロックハートとペガノフの部下たちにも会ってくれるか?」
「もちろん! 喜んで」
そのようなお答えが。
そうだったー。三総督は同じように扱わないと、総督同士でつぶし合い兼ねないって、キース大将が言ってた。更に言うと「三人が潰れるのは構わんのだが、潰れるまでにあちらこちらの大陸が焦土と化すから、必ず避けろ」とも。
護衛として一緒に馬車に乗り込んでいるアイヒベルク閣下とディートリヒ大佐も頷く。
「みなさま、閣下のことがお好きなのですね」
向かいに座り頬杖をついていらっしゃった閣下が、くすりと笑う。
「まあ、そのようだ」
「わたしも閣下のことが大好きなので、きっと皆さまと気が合うと思います」
閣下が手を伸ばしてきて、頬に触れる。
「そうかもな……だがあの三人の部下だからな」
その三人とは三総督のことでしょうか? それともレオニードとオディロンとディートリヒ大佐のことでしょうか? それともわたしが知らない誰かでしょうか?
馬車でそのような話をしている間に、宮殿の敷地に。敷地に入ってからもしばらく馬車に乗る必要がある……宮殿ってほんと広い。いや、広いから宮殿なんだけどね。
クレマンティーヌ総督とその部下たちとの楽しい時間の前に、わたしには片付けなくてはならないことがある。
「閣下。我が儘を聞いてくださり、ありがとうござます」
ブリタニアス貴族とやり合う ―― ロスカネフ軍の信条通り、こちらから攻めることはしないが、攻められたら領地と国境付近で徹底抗戦する。もちろんそちらの領土には攻め入らないが、二度と攻めてこないくらいまで全力で殴り付ける!
貴族であろうが容赦はしない。いや、相手は貴族、こちらが思い切り殴り付けてなければ負けるから、非情に徹してやる!
「我が儘? ああ、もしかして夜会で見極めたいということか?」
「はい」
「それは我が儘でもなんでもないよ、イヴ。そうそう、昨日のうちにドワイトに”非礼が一つでもあれば、王位は継がぬし継がせぬ”と告げたら、死にそうな表情になっていた。なあ、リーンハルト」
アイヒベルク閣下も伯爵閣下として参加するので、糊が利いて色褪せなどない黒の燕尾服を着用されている。
こうして並んでいると閣下とアイヒベルク閣下、なんか似ている気がする。どこが似ているかははっきり分からないし、異母兄弟だと知っているから、そう思うだけなのかも知れないけれど。
それと体格の良いアイヒベルク閣下と、身長が高い閣下が並んで座っていると、最高級馬車でもギリギリ感が。
もちろんわたしとディートリヒ大佐も、ぎゅうぎゅうに限りなく近いのですが。
「はい。ですが妃殿下のご意見はもっともだと、首相も納得しておりました」
「どうせ近々、アブスブルゴルは王政が打倒されるのだ。ブリタニアス王家とて、なくなっても問題はあるまい。イヴよ思う存分、心の赴くままに動くがよい。あとのことなど、考えなくて良いからな」
閣下がそこまでおっしゃって下さるのならば、後顧の憂いなどない! もともと気にしていなかったけれど!




