【155】イヴ、幸せを願われる
閣下の手の平をしばし独占してから、白い手袋で被われている指先に軽くキスをしてから解放した。
ふー。なんか恥ずかしいことしてるけど、今日はわたしの誕生日だから、多少のことは許されるよね。
「この娘は本当に……このまま連れ帰ってしまいたくなるではないか」
「そう言っていただけて光栄です」
「……これは、敵わぬな」
閣下が困ったように微笑なさった。
御者台からは「もぼっ!」みたいな声が聞こえてきたが、聞かなかったことにする。だからハクスリーさんも、わたしが閣下に言ったことは、聞かなかったことにしてください。
「室内馬場ですか」
先ほどわたしが連れていかれた、塀に囲まれた土地は、閣下がお買いになったもので、話をしていたガゼボ近くに室内馬場を作られるのだそうだ。
「ロスカネフの冬は厳しい。冬場にイヴと一緒に馬を駆ることを考えたら、室内馬場があったほうが良いと思ってな」
そうですね。我が国の冬はかなり寒いので、閣下や馬のためにも、室内馬場があったほうが良いかもしれません。わたしは鍛えているので、マイナス30℃くらいまでは大丈夫ですが。
「閣下のご自宅からはかなり遠いのでは?」
でもあの場所、閣下のご自宅や政務を執っている、ベルバリアス宮殿からは遠い。
自宅とベルバリアス宮殿の間あたりに作られたほうが、利便性が良いのではないだろうか?
「イヴの実家からはほどよい距離であろう」
「わたしの自宅ですか?」
「そうだ。イヴなら馬を走らせれば、すぐに来られる距離だ」
「そうですが」
実家からは近いのですが……。
「イヴが気軽に訪れることができる距離に建てなくては、意味がなかろう」
「閣下が大変なのではありませんか?」
「室内馬場と平行して、休憩所も建てるので心配はない。イヴもたまには休んでいくといい」
「はい」
「ところでイヴは、どんな休憩所がいい? 折角イヴも使うのだから、イヴの好みを取り入れたい」
好みですか。
いきなり言われても……思い浮かぶのは一つだけだよなあ。
「ちょっと大きめだと嬉しいです」
閣下が建てられる休憩所ですので、きっと庶民のわたしが想像しているような小さな休憩所ではないとは思いますが、できる事なら大きめがいいなあ。
「最初からイヴに合わせて建てる予定だ。そこは安心してくれ」
「わたしに合わせてですか?」
「ああ。室内はイヴの腰の位置に合わせる」
「そ、それはそれで、わたし以外の人は住みづらいのでは?」
わたし、まあまあ足は長いのですよ。
士官学校時代に股下を計ったら、もっとも長かったくらいには。もちろん、わたしが身長一番高かったから、当然とも言えるんだけどね。
「わたしは困ることはない。休憩所の主はわたしとイヴだ。主人が住みやすい家であればよいのだ」
「そうですが。閣下にご不便をおかけしてしまうかも」
「わたしはドアなどを自分で開けることもしないので、取っ手が多少高い位置についていようが問題はない。イヴは召使いに開けてもらうよりは、自分で開けたいであろう? ならばイヴに取っ手の位置を合わせるのは、理に適っているというものだ。取っ手を一例に挙げたが、わたしは室内のものに触れることはないので、天井さえ高ければ、特に不自由はない」
そうか。王侯貴族はドアの開け閉めなんて自分ではしないんだった。すっかり忘れてたー。閣下はご自分でドアを開けたりしないから、ドアノブが何処に付いていようが特に問題はないんだ。
陛下の副官だった頃、陛下のドアの開け閉めわたしが担当していたわー。
もちろん職務中のキース中将のドアの開け閉めは、副官や親衛隊隊員が担当し、キース中将が触れたりはしないが、職務外になるとキース中将は普通に自分で開け閉めする。でも王弟だった頃の陛下は、ご自宅でもドアの開け閉めは副官のわたしがしていた。
「ではお言葉に甘えて。そして休憩所に関しては、それ以上の希望はありません」
わたしのサイズに合った休憩所とか楽しみ。
「さてイヴ。靴をはき直そう。足をこちらへ」
そう言い閣下がご自分の太ももを叩かれた。
自分で履き替えることできるのですが……結局、閣下のふとももに足を乗せ、ダンスシューズからブーツへと履き替えることに。
きっとご自分の靴紐など結んだことなどないであろう閣下の指先が、すごく綺麗に動いてわたしのブーツの紐を結ぶ。
「イヴ」
「はい」
「靴を履き替えダンスを踊ったことは、クローヴィス卿には内緒だぞ」
「え……」
「靴を脱がせたなどと知られたら怒られてしまうからな」
うちの父さんが閣下を怒るとか、想像つかないなあ。
……なぜかキース中将が怒る姿は、すぐ思い浮かんだが。キース中将が閣下のこと怒っている姿なんて目撃したことないのに。
「怒られますかね?」
もう片方の足を閣下の太ももへ乗せ、閣下の手で靴が脱がされる。
「さきほど、足の甲にキスをしたからな」
閣下が手袋を嵌めた手で、足の甲を指でなぞる。
思わずびくっ! となり、つま先がぴんと伸びてしまった。
「閣下ぁ」
「触れられ慣れしていないイヴの反応が可愛らしくてついつい。許してくれ、イヴ」
「可愛らしいとか……」
こんな大足を触って、可愛らしいなんて言うの、閣下だけですからね!
靴を履き替え、話をしていると、あっという間に自宅脇に到着してしまった。深夜なので人気もなく……あ、父さんの書斎の窓から明かりが漏れている。
父さん起きて待ってるっぽい……なんか、ご免なさい。
閣下が先に馬車を降りて手を差し出してくださる。その手に手を乗せるだけなんだけど、そういう扱いされたことないので、わたしの手がぷるぷると震える。
ホワイトタイの紳士に手を差し出されるとか、緊張するシーンなんだよ!
パリュールを戻したジュエリーケースを持ち、また閣下に手を引かれ我が家の裏口へ。
わたしの部屋の窓は少しだけ開いており、梯子は既に片付けられている。
当初は帰りも梯子を使って部屋に戻ることになっていたのだが、補佐するクライブが大変だろうし、帰りは閣下は部屋まで来ないので、窓を開いておくだけで良いことにしてもらった。
「お休みなさい、アントーシャ」
「お休み、イヴ」
閣下の頬にキスをして手を振ってから、わたしの部屋の窓の下まで静かに近寄り垂直跳びして、窓枠に片手をかけた。
片手で体を持ち上げ、窓の隙間に手を入れて大きく開き、ジュエリーケースを窓際においてから、再び振り返り閣下に手を振る。
左手の薬指にはまっている婚約指輪が、きらりと光ってる。
わたしは静かに部屋に着地し、馬車の音が聞こえなくなるまで見送った。
楽しくて恥ずかしくて…………よし、父さんに会いに行こう。
閣下から貰ったパリュールが入ったケースを持ち、足音に気を付けて父さんがいる書斎へ。
ドアをノックして ――
「父さん、起きてる?」
「起きてるよ。入って来なさい」
閣下にお会いしている時とは、違う意味で心臓がどきどきする。
悪いことしたわけじゃな……深夜に窓から部屋を出て、男の人に会いに行くのは……でも成人してるし。
心中で言い訳しながら、ドアを開けて書斎へ。
書斎には机とセットの椅子が一つしかない。子供の頃は父さんの膝に乗ったりしたなあ。
「どうしたんだい? イヴ」
思わず「ただいま」と言いかけたが、わたしが窓から脱走したことは、父さんは知らないことになっているので、それは言ってはいけない台詞だ。
「あの……これ、婚約指輪」
椅子に座っている父さんに、左手を見せる。
「もらったのかい?」
「うん」
父さんはわたしの左手薬指を、軽く掴み頷いた。
「詳しくない父さんが観ても、逸品なのは分かるよ」
「そうだよね、父さん」
ガゼボよりも遙かに明るい部屋の下で婚約指輪を父さんと観察したら、なんか尋常じゃないような……。
これ明るい日の下でみたら、凄いんじゃないんですかね?
「イヴ」
「なに? 父さん」
椅子から立ち上がった父さんに、軽く抱きしめられる。
いつも通り、わたしも抱きしめ ――
「幸せになるんだよ」
その言葉と共に婚約指輪が見えたら、途端に泣きたくなった。
なんだかよく分からないけれど、幸せや悲しさとは別の涙がこみ上げてくる。
「うん、ありがとう。もう遅いから休むね。父さんも早めに休んで」
少し鼻声になっているので、父さんにはバレているだろうが、頭をぽんぽんと撫でるように叩かれた。
「そうだね。お休み、イヴ。誕生日おめでとう。二十四年前に出会ってから片時も忘れることなく愛しているよ。この先もずっと、愛しているよイヴ」
……言葉としては正しくないのだろうが、父さん、このタイミングでそれは卑怯だよ。大好きだよ、父さん。




