【139】隊長、一昨年の競技会を思い出す
「パン買ってきたんだけど。どう? キース中将」
「要らん」
正午過ぎに室長がキース中将の元へとやってきた。その際に、茶色い紙袋からバゲットが飛び出ているという、漫画のようなシチュエーションでちょっと笑いそうになったのは秘密だ。
そしてスタルッカはまだ登庁してこないし、ネクルチェンコ少尉からも連絡はこない。
とても心配ではありますが、わたしの任務はキース中将の身辺警護なので、部下と連絡が取れないからと言って、持ち場を離れるわけにはいかない。
勤務は日勤なので、それが終わってからなら向かえるけれどね。
黒い革張りのソファーに腰を下ろした室長は、紙袋に手を入れてがさがささせながら、ライ麦で作った独特の形をした生地に、マッシュポテトが乗せられたカレリアンピーラッカを取り出し食べ始めた。
「昨日から何も食べてないから、お腹空いてるんだ。飲み物もらえるかな?」
相変わらずマイペースだなー室長。そして室長が好んで食事を抜くとは考えられないので、何かあったんだろう。
「クローヴィス、売店で買ってきてやれ。グラスに移すな」
「はっ!」
部屋を出て走るわけにはいかないので、速歩で進み……司令官室から売店って遠いんだよなあ。人ががやがや集まる場所と司令官室って、当たり前だけど距離があるんだ。遠いわー。でも遠くても買わなくてはいけない。命令だからね。
ブルーベリージュースと、ミックスベリージュース、ミネラルウォーターの瓶を各一本ずつ購入し、
「お持ちいたしますが」
「申し出感謝するが、急いでいる」
店員を務めている軍属が、届けますよと申し出てくれたのを断り、腕に抱えて引き返す。
総司令官の親衛隊隊長が買いに来たら、運ぶくらいは言うよね。わたしが売り子だったら言うよ。
そんなことを考えながら、階段を三段飛ばしで登り、抱えて司令室へと戻る。
「三種類買ってきました」
テーブルの上に置くと、室長はミネラルウォーターの瓶を手に取った。
「お代は後で返すね」
「必要はない」
わたしが言う前に、キース中将が「金は要らん」と言い返す。
「あとでわたしが払う。それで?」
「陛下を暗殺しようとしている一団も紛れ込んできてさ」
わたしが使いっ走りしている間に、なにを話していたのかは知りませんが、戻ってきたら「国王暗殺計画」って……ふあ? 何その一大事。
困るんですが。我が国の王族ってヴィクトリア王女とガイドリクス陛下しかいないのに。そりゃ傍系はいらっしゃる……もちろん詳しいことは知らないのだが、多分いた気がする。でも今更貴族から王を立てるって気にはならないなあ。王家が存続するのなら、立憲君主制もいいけれど、王家が潰えたら共和制に移行すると思うよ。
「スタルッカ君に接触すると思われているスパイは、まだ来てないんだ。サーシャ君から、やっと新生ルースを発ったって報告が昨日あったくらいだからさ」
サーシャ……サーシャ……わたしはサーシャについては知りませんが、自他共に認める懐刀さんは、元気なようですね。
そのまま何事もなく無事に帰還して下さいね。
「なるほど。それでスタルッカはどうしたのだ?」
「見張りの証言を付き合わせると、暗殺を企むメンバーの一人にアルバンタイン・ヒルシュフェルトがいた。前財務長官の次男で、一年近く行方不明になっている元貴族。年は十八。彼がねスタルッカ君に接触してね、どうも”国王暗殺を伝えるために、暗殺を企む一団と来た。情報を渡したいので、司令部につれていって欲しい”と頼んだ。スタルッカ君が、アルバンタインを信じたらしく同行し、途中で暗殺を企む一団に監禁されたみたい」
アルバンタイン、生きていたのか!
軍人を目指しているが、王立学習院という温い環境にいた攻略対象。
お前の実家、なんか色々あって貴族の地位を剥奪されてしまったぞ。きっと行方不明になったお前も何か関係しているはずだ。
優秀な兄は、かろうじて政府に拾われたらしいが……。
「救助は?」
「まあまあ進んでいるみたいだよ。異変を感じてネクルチェンコ少尉を派遣してくれたから、彼にも手伝ってもらっているよ」
そしてボイスOFF。なんでお前単独で付いていったんだ。こっちに連絡の一つでも入れてくれれば……付いていくなって言わないのかって? ああ、それはねー、わたしは注意できないくらいにしでかしているので、そこは触れない……レーオーニードー!
「こちらの部下を勝手に使うな」
「御免。でも人手が足りなくて。優秀な戦闘員は、ほぼ親衛隊に取られちゃったからさ」
ネクルチェンコ少尉、済まん。
そんな面倒に巻き込んでしまうとは……もちろんスパイ関係で面倒に巻き込んでしまうかもとは思っていたが、全く違う方向の面倒に。
公休日はしっかりと取らせるから、代わりにわたしが夜勤するから、本日だけは頑張ってくれ。
「諜報部には腕の立つのがたくさんいるのだろう?」
「いないよー。それで、ちょっと報告が遅れたのは、同時にクローヴィス大尉を害しようとする一派が発見されたから、その情報を急いでリヒャルトに届けて対処をしていたのさ」
なんか、色々と大変なことが目白押しですね。
「それはたしかに、国王暗殺よりも急を要するな」
ええー! なにを言ってるんですか、キース中将。ロスカネフ軍のトップが、国王よりも部下のほうが大切とか……。
「報告しにこなかったのは、理由の大元がキース中将だから」
「ちっ!」
原因がキース中将……と言われた瞬間に舌打ちを。心当たりがあるのですね、キース中将。
なに? もしかしてわたし、キース中将の修羅場に知らぬ間に巻き込まれてしまったのですか?
「クローヴィス大尉」
「はい、室長」
「射撃大会で競う相手の一人、ハインミュラーなんだけどさ」
知ってます。まあまあ競う相手ですね。あの腕相手なら確実に勝てますが……もしかして、今年も下剤盛ろうとしてるのか?
「アレですか。あれの妨害工作なら毎回のことですので、ご心配には及びません。皆さま、アレは無視して通常任務にお戻りください」
ハインミュラーもわたしには絶対「実力」では勝てないことを理解しているので、下らない策を講じてくるのだ。
「やっぱり毎回だったんだ」
「一昨年は飲み物に下剤を仕込んできました」
「クローヴィス大尉、一昨年の大会で優勝してるよね。体調不良でも勝ったの? 実力の差からすると、驚かないけど」
室長が仰る通り、その状態でも、勝てたとは思いますが、幸い腹は下しておりません。
「いいえ、盛られてはおりません。事前に情報を入手し、ヤツが仕込もうとしていた下剤を、粉糖に替えて貰いました。その下剤がヤツの家の粉糖に混ぜられたかどうかは知りませんが、きっと混ぜられたと思います。ハインミュラー家の人々は使用人、とくにメイドに好かれていないので」
水筒の口に白い粉が少し残り、口に含むとほんのり甘い水に、思わず笑ってしまったのは、苦い思い出だ。
「クローヴィス大尉は、メイドさんたちにも人気あるもんね。お宅のマリエット君とローズ君は”イヴお嬢さま、優しいの”って、よく井戸端会議で自慢してるよ」
マリエット、ローズ……そして、メイドの井戸端会議にまで諜報部。どこかのメイドは諜報部員なのだろう。
「そのメイドの情報網で、一昨年の下剤を盛るのを事前に察知できました。ハインミュラー家でも特にブルクハルトはメイドたちに嫌われているようです」
去年さらっと聞いたけど、ハインミュラーのメイドというか女性見下しぶりは酷いものなのだ。もちろんメイドたちは、仕事と割り切っているが……とにかく酷いらしい。
そんなハインミュラーにとって、士官学校時代から勝てないわたしは、憎くて仕方ないらしいよ。
まー子供の頃から狩猟をし、銃の扱いに慣れていた男が、士官学校入学後に初めて小銃に触った年下の女にボロ負けは、プライドがずたずたになるものらしい。
ハインミュラー家のメイドで、一昨年「下剤盛ろうとしている」と教えてくれたシルケが「あの悔しがりは、見ていて楽しかった。ハインミュラー家の使用人全員の意見ですよ」と ―― どんだけ嫌われてるんだよ、ハインミュラー中尉。
「一昨年そんなことがあったのなら、しっかりと報告しろ」
キース中将が……怒ってる。わたしに対してではないと思うが、静かに怒ってらっしゃる。
「競技会は射撃だけではなく、それらも自身で対処すべきものだと思っておりましたので」
「その通りだが。……クローヴィスは派閥を意識したことはあるか?」
「ありません」
どこでもそうだが、出世するためには、既に上にいる人のどれかに付く……ということをしなくてはならない。わたしはあんまり、そういうの考えないで仕事だけしてたんだけどさ。
「お前はガイドリクス陛下の元に配属された時点で、俺の派閥になっている。陛下の実働部隊を指揮していたのが、俺と仲が良いヴェルナーで、そこでしごかれていたからな」
知らぬ間に、最大派閥っぽいところに所属していた!
……きっと最大だよね? そうでなければ、軍のトップにならないよね。
「俺はいつの間にか、軍内で最大の勢力を誇る一派のトップになったのだが、それを面白く思わないヤツがいる。俺の同期で主席だった男だ」
そう言えばキース中将は成績優秀だったが、主席卒業ではなかったな。それはキースファンから聞いて知っているが、はて? 主席って誰だっけ? 聞いたことないなあ。
「キース中将の年代は、キース中将がもっとも有名ってこともあるけれど、主席はこの十年くらいぱっとしないからねえ。なにより、女性に対する態度が酷くて、女性士官からの人気最低だしさ」
ん? 女性士官人気最低の男性士官。キース中将と年齢差五歳以内。……あっ!
「ゾンネフェルト少佐でしょうか?」
「当たり。ハインミュラーはゾンネフェルトの派閥なんだ」
片や成績優秀で今や国の命運を背負う総指揮官、片や主席卒業したのに今では持て余され少佐。ああ……キース中将が悪いわけでもないのに、恨まれる理由が分かる。そしてわたしが巻き込まれた理由も分かってしまう。僻みだ。だが僻みを総司令官に直接ぶつけるわけにはいかないから、部下で代理戦争するんですね。
「なんか、ろくでもない策を練ってるらしいよ。まだ詳細は分からないんだけど、五日後には射撃の競技会でしょ。なにをしてくるつもりやら」
実力で勝てない部下に無茶ぶりしてるんですね!
お前も断れよ、ハインミュラー。そうは言っても、女性に負けるのは我慢できないらしいからな。お前のところのメイドからは「今年も勝ってくださいね! 応援してます」って声援、わたしがもらっちゃうけど。
「スタルッカを助け出し、すぐにハインミュラーの情報を集めろ、テサジーク」
「お言葉ですが、全力でやってますよ。リヒャルトのお嫁さんになにかあったら、ロスカネフ吹っ飛ぶもん。間違って軍人がリヒャルトのお嫁さんに、髪の毛一筋ほど傷つけたり、髪を一本切り落としただけで、リヒャルトは我が国にルースの名将ペガノフ元帥と共産連邦軍一千万人をぶつけてくるよ」
一千万人とかそれ、我が国の総人口の倍以上です……じゃなくて、お嫁さんは止めてー室長。
「一千万人で済むとも思えないが……とりあえず、ゾンネフェルトの子飼いに関しては、こちらで対処する。お前は競技だけに集中しろクローヴィス」
「はい」
でもボイスOFFが心配なので、勤務が終わったら救助部隊に混ざりたいです。




