17.月の砂漠の伝説
再び兎オタク男と二人きりになってしまい、気まずいな、と思っておりましたのに、この男にはそんな繊細な感情などまるっきり無縁のようでした。
「よし!じゃあ、漸く邪魔者も退散してくれた事だし、さっさとさっきの続き、話そうぜ!」
「はぁ?続きって?」
「【俺達の今後の人生設計について】に決まってるだろ?」
この男のポジティブシンキングは、宮下先生の仰る通り、ある意味尊敬に値します。
自分が断られるなんて、夢にも思っていないのですから!!!!!!
「そうそう、自己紹介がまだだったな。俺様は塔宮綾麿、23歳。ああ勿論、蓮花の為に今現在彼女は作ってねぇから安心していいぞ、当然独身だ」
「とう……みや?」
「ああ、塔宮ホールディングスって名前ぐらいは聞いた事あるだろう?俺様は塔宮家十八代目当主にして塔宮ホールディングスの後継候補として、現在本社で研鑽を積み重ねているところだ」
塔宮ホールディングス……。
日本、いえ日本どころか、現在世界各国にネットワークを持つ、押しも押されもせぬ日本を代表するトータル物流の大企業グループ。
でも私が気になったのは……、
「23?ええっ貴方が?年上?」
どう上に見積っても大学生?下手したら高校生でも十分通用しそうな、男の人としては可愛い感じのアイドル系の顔立ち。
「本当に?ああっ、分かった!だからこの前の夜はスーツにサングラスなんて怪しげな格好してたのね!」
成る程、それならあり得る。
普通の格好をして普通に居酒屋になんて入ったら、コイツ絶対お店から断られるか、身分証の提示を求められるかで、簡単にお酒を飲めないんだわ!
あんまりにも可愛い過ぎる理由に思わず笑みが零れてしまう。
今確か十八代目とか言っていたけれど、確かに塔宮家と言えば、元を辿ればどちらかの地方の大名家だとか何とか、そんな話を前に誰かから聞いたような気がする。雑誌か何かで読んだのだったかしら?
私がついくすりと笑って、そんな事をぼんやり考えていると、
「う、うるせぇ!俺様が一番気にしている事を!お前はどうなんだよ?!そんな事より、お前も早く自己紹介しろ!」
全く……。
あの夜もそう思ったけど、コイツ、本当に直情型で気が短い。
私が笑ったのをどう勘違いしたのか、塔宮ホールディングスの御曹司と名乗った兎オタク男は、羞恥に顔を赤らめて、拳を上げてワアワア喚いていらっしゃる。でもその子鹿の何とかちゃんみたいな愛くるしいお顔でどんなに凄んだところでもう私には通じない。っていうか寧ろ余計に……、
「私?」
まさか自分に返ってくるとは思いもしなかった。だいたい自己紹介して欲しいなんて、一言も頼んだ覚え、な・い・ん・で・す・け・ど!
「私は香椎蓮花!聖フロイス女学院・声楽科3年。以上!」
「以上かよ!!!」
「もっと他に何か有るだろう。趣味とか、特技とか、出身はどことか、好きな男のタイプとか、父親が王子だとか……、」
(えっ?今何て……、)
さらっと言われた一言の中に、聞き捨てならない一言が混じっていたような。でも俄かには信じられなくて私の顔から笑みが消えてしまった。自分の聞き間違いかもしれないと思って、じっと兎オタク男の顔を見て出方を窺っていると、
「俺様を誰だと思っていやがる。何度も言わせるな。俺様は塔宮綾麿。塔宮ホールディングスの後継者、次期CEOだ。俺様が知りてぇと思えば、俺様の下には、世界中のどんな情報だって10分で入ってくる。アメリカの大統領が今どこで何をしているのか、中国の国家主席が視察先でどんな発言をしたのか」
「まあもっとも、今の俺様にゃあ、そんな事ぁちっとも興味なんかねぇけどな。今俺様が知りてぇのは、蓮花が何が好きで何が嫌いかってぇ事と、これから何がしてぇのかって事だけだ。アハハハハ」
さっき迄顔を真っ赤にしてワアワア喚いていらした御曹司の子鹿ちゃんは、今や自信満々に高らかに笑っていらっしゃる。
本当に何から何まで、宮下先生が仰っていらした通りです。
単純明快……。
あんなに素敵で優秀な宮下先生が、何でコイツの側近くに仕えて補佐役に徹していらっしゃるのか、何となく解る気がします。
何て言うか、ついいじりたくなる可愛い子鹿ちゃん?
まだ知り合ったばかりの、しかも年上の男性相手に失礼極まりない話ですけれど、出逢った日に感じた警戒心は、もうすっかり薄れてしまっていました。
(私の好きな事?)
(私の好きな事は……、)
「私の……好きな……事……は……、」
「歌を歌う事だろ?」
口に出すのをはばかって躊躇っている私に、何でもない事のようにそう言うと、
「叶えてやるよ、お前の願い」
更に何でもない事のようにさらっとそう付け加えた兎オタク男。
(願い……を、叶え……る?)
(コイツ……が?)
「何を言って……、私は何も……、」
これまで誰にも、シスターにも、お母さんにさえ話した事なんてなかった私の夢。だってずっと諦めていたから……。それを何でこの出逢って間もない兎オタク男が知っていると?そんな事有るわけないじゃない!
私はさっき迄少し緩んでいた心のネジを、再びきちんと締め直しました。
「言えよ。俺に迄隠す事ぁねぇだろ?どうせもう猫かぶりだってばれてるんだしよ。お前の望み、俺なら叶えてやれるぜ?例えお前が世界中のどこに居ようと、何があろうと、必ずお前は俺が守ってやる。だからお前はただ俺様を信じて、自分の望んだ道を進めばいい」
「……」
何を言ってるの?
そんな事出来るわけない!
私の前に続く道は、生まれた時から決まっている。
この学院を卒業したら、お父さんの国に行く事。そしてお父さんが決めた相手と結婚して生涯をあの国で過ごす事。
それが生まれた時から私に定められた私の道。それは仕方のない事だってずっと諦めてきた。ううん、そう思い込もうとしてきた。
だってそうでしょう?ここに居る間は安全でも、一歩外に出たらもう勝手は許されない。
私の存在は公にはされていないし、王家の中ですら、お父さんのごくごく身近な血縁者以外には秘匿されているらしいけれど、それでも恐らくもう、知られている人には知られてしまっていると思って間違いないと思う。
未だ見ぬお父さんの国。
そこは、お金や権力の為には平気で親兄弟すら殺めるという日本とは全く異なる常識と文化を持つ砂漠の国。
私にはお母さん違いの弟も居るらしい。勿論その人達には私の存在は話してあるらしいけれど、実際にはどう思われているのか……。そんな風に考えたくはないのだけれど、彼らにとって言わば私は恋敵の娘であり、邪魔な相続人に変わりはないのだから。
お父さんが王位を継ぐような事は100%無いらしいけれど(王様(つまりお祖父様)の子供だけでも200人以上いるらしい!)、それでも皆様あわよくばと、虎視眈々とその跡目の座を狙っているわけで、余計な血縁は一人でも少ない方がいいに決まっている。しかも、小さい頃から明るくてやんちゃだったお父さんは、王であるお祖父様のお気に入りだったらしいから。
前からお父さんに、お祖父様が私に会いたがっていらっしゃると言われている。私もお祖父様にはお会いしてみたいと思うのだけれど……、
「お前、歌で実力を試してみてぇんだろう?もっと勉強してみてぇんだろう?」
「ど……して?」
どうして私のしたい事、長い間諦めてきた私の夢、それをこの間知り合ったばかりのコイツが知って……。
この学院の生徒は、どんなに実力があってもそれを極めようとはしない。それがここに学ぶお嬢様方の常識。上流社会で生きていく上で必要なのは、一事を極める事ではなく、幅広い知識と経験を持つ事。だからそれさえ得られればそれでいい。それが保護者からシスター、そして本人に至る迄の共通の認識。
だけど私は違う!
私はこの国に残って独りで私を育てると決めたお母さんのように、自分の道は自分で選びたい。
歌が好き。歌う事が大好き。もっと本格的に歌を勉強したい。コンクールに出て今の自分の実力を試してみたい。この学院内で歌うだけでは、実際のところ自分の歌がどう評価されるのかなんて分からなかったから。
そして叶うなら、いつか色々な国を巡って、私の歌で人々を慰めたい、元気づけたい。そんな歌を歌えるような歌い手になれたら……。
それが長年の私の夢、私の願い。
でも……、
「あの砂漠の歌……、あれは、俺がガキん時に死んだ母さんがよく歌ってた歌なんだ」
「えっ?」
「ずっと、母さんはどんな気持ちであの歌を歌ってたんだろうって。俺に何か言いてぇ事があったんじゃねぇのかって、それがずっと心ん中に引っ掛かってて」
「でもお前の歌聴いてやっと解った」
「母さんはもっと生きたかったんだ。もっと生きてぇ、まだ死にたくねぇって……、ずっと俺に、俺と父さんに向けて、そう歌ってたんだな……」
砂漠を彷徨う王子様とお姫様。その二人がどこに向かって、その後どうなっちまったのかは誰も知らねぇ。本当はみんなその結末を知りてぇ筈なのに、でも聞きたくねぇ。
それは……、何となくだが、その先に明るい未来が待っているような気がしねぇからだ。
母さんは怖かったんだ。明日やって来るかもしれねぇ暗黒の未来が。
「俺は……母さんのその声を……、聴いて……やれなかった……んだ」
最後は消え入りそうなその呟きは、私にというより独り言に近かったのだと思う。
「ちょっと待って!!!」
「貴方のお母様、いつどこであの歌を歌っていたの?月が出てる時じゃなかった?」
私どうかしてる、絶対おかしい!
でも……、今すぐ震えるその背中を温めてあげたい!
さっき迄豪快に笑っていた姿からは想像も出来ない程弱々しくうなだれた背中にいたたまれなくなって、気が付けば、言葉が勝手に口から零れ出ていた。
(はぁ?何言っちゃってるのよ私!!!ああ、どうしよう~?!どうしたら-、)
ええい、儘よ!!!
(主よ!迷える子羊を救う為、どうか、一つだけ小さな偽りを申す事、お見逃しくださいませ!)
「あ?ああ、確かに。まるであの歌の世界に溶け込んだみてぇな、綺麗な月の夜ばっかりだったぜ。でもそれがどうしたって言うんだよ?」
(ああ主よ、感謝します!)
(これで違うと言われちゃったら、どう収拾つけたらよいかまるで考えておりませんでした!!!)
「あ、あの歌ね、伝説が有るの!月に願いを込めて歌うとその願いが叶うっていう伝説が!」
「願いが?」
「ええ。きっとお母様はそれをご存知で、月に届くように歌ってらしたのじゃないかしら?【貴方と明日もこうして一緒に月が見られますように】って願いを込めて」
「……」
「もしも貴方が何度もお母様の歌を聴いたのなら、それは、お母様の願いが何度も叶ったって事だわ、きっと」
「そうなの……か?」
(母さん……)
どれ位沈黙が続いただろう。
「なら言えよ、お前も。俺に、歌をやりてぇって言えよ。だからアラビアには行きたくねぇって!」
「えっ?何で私が……、」
「お前も歌ってたじゃねぇか、月に向かって。お前の願いも絶対ぇ叶う!俺様が叶えてやるよ。だから言えよ、お前の本心」
「無理よ私は……」
「何でだよ?何でお前は諦め―」
「来月!!!」
「来月……、お父さんが来るの。私の……、婚約者を……連れて……」




