イルミナとグラン
少しずつ。
少しずつ。
ヴェールの向こう側が鮮明になっていく。
ぼやけていた視界が、思考が。
でも、私は見たくない、考えたくない。
これ以上、私を傷つけるだけの世界なんて、いらない。
怖いだけの世界なんて、もう見たくない。
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「イルミナ、朝食だ。
アイリーンが作ったものだぞ、しっかりと食べなさい」
グランは、恐ろしいほどに甲斐甲斐しくイルミナの世話を焼いた。
食事をさせ、どこへでも運んでいき、夜になればその傍で彼女の眠りを見守った。
流石に風呂やトイレなどはアイリーンはじめ、村の女たちが手伝ってくれたが。
それこそその字面通りに、グランは一時たりともイルミナから離れようとはしなかった。
大の男が少女ともいうべき彼女にそうしているのは、普通であれば引いてしまうものだが、グランは見目麗しく、そしてイルミナはまるで人形に大人しくしているのが幸いだったのだろうか。
少なくとも、見るに堪えないものではなかった。
そのせいというかなんというか、村の人たちは直ぐにその光景に慣れてしまった。
「・・・伯、聞きたいことがある・・・あります」
そんなグランに苦虫を噛み潰したような表情で会いに来るのはグイードだ。
イルミナが静養しているからといって、学び舎の案件が止まるわけでもない。
それゆえに、グイードはグイードなりに多忙な日々を送っているようだった。
ある日、イルミナが入浴中だったため、グランが一人で村を歩いていると、唸りながら頭を抱える見慣れた後姿を発見した。
そのあまりの唸りように、グランが声をかけるとどうやら学び舎に関してのことで悩んでいるようだった。
そして内容を確認してさらりとアドバイスを出したのだ。
それ以降、どうしようもなくなった時、グイードはグランの助けを求めるようになる。
本当の本当に案が出なかった時だけ。
「・・・教員専用の宿舎を作る?」
「・・・そう、です・・・。
どのあたりに建設するか迷っていて・・・。
みんなの食事とかもどうするかとかの問題もあるし」
「そうだな、
そういったことも出てくるだろう。
食事係を雇うという手もある」
グラン自身、グイードに教えることは楽しい時間の一つであった。
飲み込みも早く、やる気に満ち溢れるその姿は、グランに好感を持たせるのだ。
やる気がある人ほど、その覚えは早い。
息子であるウィリアムも、最初の頃はそうであったと懐かしい気持ちすら甦る。
きっと、グイードが自分のことを好んでいないことは知っている。
最初に突っかかって以降、何かあるわけではないが、彼が自分を見るときはいつも、苦虫を噛み潰したような表情をしているのだから。
しかし、それでも知識を得ようとする貪欲な態度はグランにとっては素晴らしいものだった。
「ライゼルト様、
執事殿から手紙が届いております」
「あぁ、すまない」
そしてジョンというこの男も、非常に優秀な男であった。
アリバルがこの村に派遣したのも理由もわかる。
こちらが欲しいものを、時前に用意してくれるのだ。
正直、彼の存在は今のグランには有り難かった。
「君の仕事でもないのに悪いな」
「いいえ、
リチャード様からも頼まれておりますので」
にこやかに返す彼は、村長との時間だと言いながらその場を離れていく。
正直、グランは驚いていた。
この村にいる人物の優秀さに。
国の中枢に入る、といった類の優秀さではないが、それでもそう思わせるほどの知識などがあった。
きっと、これを機に成長すればいつ頭角を現しても可笑しくないほどには。
成長すれば、確実にこの国の為になるだろうということもわかる。
そしてそれらは全て、イルミナが頑張ったからだ。
彼女が見つけなければ、きっと彼らはさらなる成長の場を得られなかったであろう。
そして彼女だからこそ、村人たちは共に頑張ってくれるのだろう。
村人は、皆が口をそろえてイルミナを褒める。
称えるわけではない。
ただ、身近な人物としてとらえ、まるで我が子のように褒めるのだ。
もし、これをイルミナが知ったらどう彼女は感じるのだろうか。
いつか、彼女も理解できる日が来るといいとグランは思う。
そうすれば、きっと心の虚も少しは癒されるだろうことを祈って。
グランはジョンの背を見送ると、自身も家へと向けて足を運んだ。
「―――――っっ!!!!」
「っ!」
高い、絹を裂くような悲鳴が響く。
それは長くは続かず、一見収まったかの様にみえた。
しかし、グランは即座に身を起こすと、寝台に横たわるイルミナを見る。
「、イルミナ!」
イルミナは泣いていた。
一番最初に悲鳴を上げたあと、唇を噛みしめながら声を漏らさずに泣き続けている。
それは、村に来てからほぼ毎日のように起きている症状だった。
ガタガタと体を震わせ、これ以上ないくらいに体を縮込めようとする。
身体は冷え切っており、暖炉をつけているはずなのにどうやっても温まらない。
何かから身を守るように縮こまるその姿は、きっと自己防衛の本能故だろう。
初めてなら、グランといえど混乱したであろう。
しかし、これを彼は何回も見ていた。
「イルミナ」
グランはイルミナの名を何度も呼びながら、そっと体を寝台の上に乗せる。
二人分の体重を受けた寝台は、ぎしりと音をたてた。
そうして、グランはイルミナを優しく抱き上げる。
胡坐をかいた自分の足の間に、丸くなったイルミナを置く。
そして自分の腕を囲うようにイルミナに回す。
それは、幾度となくやってきたことだった。
「大丈夫だ、
イルミナ」
グランは耳に吹き込むようにイルミナに言い続ける。
そうすると、少しずつではあるが体の震えが収まるのだ。
それを知るまでに何度となく混乱し、どうしていいかわからず泣きそうになったが。
頭を撫で、背を撫で。
何度も何度も語り掛ける。
グランはそれをイルミナが眠るまでするのだ。
しかし、イルミナはそれに反応を返したことはない。
ただただ、呆然と泣き続け、グランの存在を認識しないまま眠りへと落ちる。
今日も、きっとそうだろうとグランは考えていた。
*
*
*
少しずつ鮮明になっていく世界に、私は恐怖した。
また、あの日々に戻るのかと思うと怖かった。
また、自分を否定され続けるのだと。
今までどうやって頑張っていたのか、今ではもう分からない。
ただただ、怖かった。
暗くなると、怖い夢を見る。
誰もいない、真っ暗闇。
呼んでも、誰も答えてくれない。
なのに、別の人の名前を呼ぶ声だけが、ねとりと響くのだ。
違うと言いたいのに。
それは、私じゃないのに。
でも、喉は張り付いてしまったかのように声を出せなくて。
助けてと手を伸ばしても、何も掴めない。
それが酷く悲しくて、辛い。
求められているのはイルミナではないのだと。
私は、必要とされていないのだと思わされる。
そうすると、指先が凍り付き、それが徐々に体を蝕んでゆく。
悲鳴を上げようにも声は上がらず、体の端からボロボロと壊れていく。
そして、誰も助けてくれないことに、絶望するのだ。
そんな時、誰かが優しく私の名前を呼んでくれる。
それは、雪のように優しく私に降り積もる。
冷たかった手足が、少しずつ暖かくなっていく。
その声が聞こえてくると、私は安心できるのだ。
どこかで聞いたことのある声だと、思いながら。
「・・・・・・、ぐ、ら・・・?」
「!!」
小さな、本当に小さなその声を、グランの耳は確かに拾った。
信じられない思いで、ゆっくりと顔を声のほうへと向けた。
そこには。
「・・・ぐ、らん・・・」
「っ!!
い、るみな・・・!」
イルミナの濃い紫色の瞳には、確かにグランは映っていた。
涙を含んで、きらきらと宝石のように輝くそれは、グランがいつか見たものに似ている。
救出され、アウベールに来てから一ヶ月半。
イルミナはようやく外の世界を認識できるようになった。
「大丈夫か、
どこか、痛いところはないか」
グランは低めの声で、優しく短くイルミナに問う。
―――体の震えは止まっている。
体温も低すぎということもない。
「・・・、ない・・・」
どこかぼんやりとしたままだが、それでもイルミナはグランの問にしっかりと答えた。
そのことに、グランがどれほど喜びを覚えたか、きっと彼女は知らないだろう。
「 こ こ、 は・・・?」
「アウベールだ。
何があったのか、覚えているのか」
「・・・、
あ、あぁ・・・」
少しずつ、思い出す。
そうだ、あの日。
「っっ・・・!!
お、おとうさまっ、
わ、わたしを いらないって・・・!!」
グランは泣き出すイルミナを懐に抱え込んだ。
父を、陛下としか呼ばなかったイルミナが、初めて父と呼ぶ。
ぼろぼろと流れる涙が、グランの服に吸い込まれて染みを作る。
グランの胸元の服を握るその手は、小さかった。
「あぁ・・・」
「っく、・・・っ、
な んで・・・、
なんで、わたしじゃだめなの・・・!」
支離滅裂なその言葉は、きっとイルミナの心だろう。
こうまでならなければ、彼女は吐き出すことすらもできないのか。
グランはそれを哀れに思い、そしてそれを見れることに優越感を感じた。
「っぅ・・・、
おとぅ、さま、っかぁ、さま・・・!
なんで、
・・・どうして、だれも、いないの・・・!!」
「イルミナ」
グランの強い一言に、イルミナは涙に濡れた顔を上げた。
その顔に、グランは笑みを零す。
鼻水は出ているし、泣きすぎて目も真っ赤だ。
物語のような綺麗な泣き顔なんかではない。
しかし、グランはその顔をこれ以上なく愛おしく思えた。
「イルミナ、私がいる」
「・・・グラン、が?」
子供のように、不思議そうにするイルミナに、グランは続けた。
付け入るようだとは知っている。
―――でも、こうでもしないと、手に入らないだろう。
正直、ラグゼンが出てきたとき、グランは焦った。
国の為を想うのであれば、彼の方が正しいから。
万が一にでも、他の貴族が知れば、嫁がせろと簡単に言うだろうから。
辺境伯としては、それが取るべき手段だというのも良く分かっている。
しかし、そんなものがどうでもよくなるほどには、彼女が欲しかった。
「イルミナ、
私が、ずっと傍にいよう」




