292 バレンタイン前の一コマ
二月に入れば世間もバレンタインデーに向けての商戦が加速する。ショッピングモールはバレンタイン商戦に向けて特設コーナーを用意しているし、そこらのスーパーでもバレンタインという事で様々な種類のチョコレート菓子が並べられる。
当然その空気は様々な所に伝播し、周の学校でもバレンタインデーが近付くにつれて女子側では和気藹々と、男子側では期待からか浮足立った様子の生徒が増えていくのを実感していた。
割とそのあたり興味のなかった周ではあるが、今年は真昼からもらえるのは確実なので、全くの無関心という程でもなく。
かといってそれ以上に何かあるとも思わないので、皆が盛り上がっている所をどうしても一歩引いたあたりから他人事のように眺めてしまうのは、仕方ない事だった。
「今年の門脇はバレンタインやばそう」
朝練を終えて今は席で一限目が始まるまで教科書を開いて予習しているどこまでも真面目な門脇と、その姿に他クラスの女子までやってきて遠巻きに熱い視線を送る女子生徒に、周は思わず呟いた。
わざわざ他クラスまで意中の相手の姿を拝みにやってくるその行動力がすごいと感心するが、これが一人ではなく複数人、それも顔触れが見る度に変わるというか増えているのが恐ろしい所だ。
側でぺらぺらと静かに単語カードを捲っていた樹は周の声に顔を上げて、それから若干憐れむような眼差しになっている。昨年の事を思い出したのだろう。
「やばいだろうな。陸上部の部長兼エースで顔も性格も頭もいい男だからな、そりゃ女の子が掃いて捨てるほどアタックしてくるだろうよ」
「掃くな掃くな」
「例えだって。まあ、優太がそれを喜んでいるかはまた別なんだけど」
「困惑の方が強そうだよなあれ」
好意を寄せられる事そのものに対して嫌悪感を抱いている様子はないが、黄色い声援が飛び交うのが日常と化してしまった事については思う所があるらしく、へにゃりと困ったように眉を下げる事が多々あった。
この人気具合に他の男子から反感を買わないかと友人としては心配しているのだが、男子側も門脇の人柄の良さと苦労が滲み出た姿に本気で妬む事があまりないのが救いだろう。
自由時間がほぼないのを去年のバレンタインで目撃している生徒は口を揃えて「あそこまでいくと羨ましい通り越して怖い」と顔を引き攣らせていた。
「今年は量の予想を見誤らないといいな」
「見積もりがある時点でやべーんだけどな、慣れって恐ろしい」
「ほんとなー……門脇が年中モテてるの見ると感覚が麻痺してるっていうか」
「普通一人に告白されるだけでも当人には大イベントだからなあ」
人一人から大きな好意を伝えられる、というのは大きなもので、少なくとも周にとっては一世一代の覚悟と勇気が求められるものだった。
それを何人からも向けられている門脇に、最早感心よりも心配の方が勝る。
「優太本人は女の子に押されるの苦手だし陸上一筋で居たいからって一律で断ってるけどな。よく知らない状態で付き合うのも失礼だ、とも。よりどりみどりでも断るのは優太らしい」
「門脇は誠実って文字が人間になったレベルで常識人かつ真っ当だからなあ」
門脇のそういう他者に対する生真面目さや誠実さが、周には非常に好ましいものだった。
世に聞く好きでもないのにお試しで付き合う、複数人と同時進行する、という行為がさっぱり理解出来ない周にとって、選ぼうと思えば幾らでも選べる立場であるのに真摯に相手を見て断る門脇を見て好感を抱かない方が難しかった。
当たり前と言われたら当たり前なのかもしれないが、その当たり前を当たり前として行動出来る、その人柄が、周にとっては素晴らしいものだと思うし人として大切なのだ。
「お前優太の評価滅茶苦茶高いよな」
「いやそりゃ見てれば分かるしいいやつだろ」
「くっ、オレを褒めてはくれない癖にっ」
「樹はもう少し俺を茶化さない方向に行動を改めてくれ」
「じゃあ褒めてくれなくていいや」
「おい」
「どうせオレの事自体は口には出さないだけで認めてくれてるのは理解してますので」
「うざ。うざー」
「はっはっは」
何だこいつ、という眼差しを向けてもへこたれず寧ろ愉快そうに顔をにまにまと緩めた樹に、周は一睨み効かせてからため息をつく。
本人にそれを悟られている時点で周の負けのようなものなのだが、それを堂々と言われるのは気恥ずかしいしちょっぴり腹立たしくもある。
反応し続けて樹のからかいの材料を増やすつもりはないので、そこで突っ込むのをやめてフイと樹の姿を視界から追い出すと、視界の外からまたおかしそうに笑われた。
「ま、俺らはバレンタインは気楽だな」
門脇と比べれば、周達は気楽だし焦る事もない。
基本的にモテないしそもそも真昼が居るので真昼からもらえさえすればいい周と、千歳が居る樹。
去年と同じなら周は千歳から友チョコくらいはもらえるだろうが、それまでだ。
お返しに深く悩まなくてもいいし、他に欲しいという願望もないので実に平和にバレンタインを過ごせそうだった。
「おっそうだな今年もちぃのミラクルクッキングを乞うご期待」
「彼氏さんやその暴挙を止めろよ」
「止められると思うか」
「……聞かないだろうなあ」
最近は多少大人しくなったし様々な事に真面目に取り組む姿勢も見せているが、こういった行事にあらぬ方向で全力なのは相変わらずだ。
千歳から去年もらったチョコレートは普通のものは美味しかったのでその方向性を伸ばしてもらいたいものだが、千歳が普通で収めてくれる筈がないのも薄々察している。
今年は何をしでかすつもりなのか、と警戒してしまう周に、樹は何故か自慢げに指を立てて不敵な笑みを浮かべる。
「今年は去年とは一味違うそうだぞ」
「比喩表現じゃなさそうなやつ」
「趣向と工夫を凝らした一品にするそうなので周もきっと泣いて喜ぶ、だそうで」
「それ絶対物理的なやつ」
「よかったな今年も刺激物確定演出だ」
「涙ちょちょぎれそう」
本人の信念とプライド、それからストッパー役の真昼の忠告から決して食べられないものを作る事はないのだが、食べられる範囲で度肝を抜くような食べ物を生み出すのが千歳という人だ。
本人が刺激物大好き、という所が歯止めがかからない最大の原因でもある。常人より耐性値の高い千歳基準で考えられると人並みの耐性値の周には劇物になりかねないと、そろそろ理解してほしい。
非常に他人事のようにげらげらと腹を抱えて笑う樹に、周は真顔で彼にも物理的にお腹を抱えてもらった方がいいのでは、と真剣に考えてしまった。
「よかったな今から涙流しておけば耐性つくかもしれないぞ!」
「そうだなお前も今から涙を流して耐性つけておこうな。千歳に味見役にはたっぷり試食させてやれって言っておく」
「親友売ったな!?」
「大丈夫大丈夫お前の可愛い可愛い彼女の作ってくれるものなら食える食える」
「あんなの無理なんだが!」
「それを親友に勧めてるのお前なんだよな」
「人の作るもの劇物にするのやめてくれなーい?」
まだ授業が始まらないのをいい事に言い争いを繰り広げている周と樹に、話題の張本人であり刺激物製作マイスターの千歳が厶っとした表情で話に割り込んでくる。
怒ってはいないようだが扱いに不満はあるようでべしべしと樹の方を叩いている。
「千歳は俺に刺激物混入したもの送ってくるのやめてくれなーい?」
「やだー」
「じゃあ樹で実験して許容出来そうなやつにしておいてくれよな。幾ら食べさせてもいいぞ」
「しょーがないにゃあ」
「今明確に売られたんだけど!? ちぃ!?」
「ダイジョブダイジョブ」
何が大丈夫なのか。
突っ込みたかったが、とりあえず先に犠牲者を作る事には成功した周は、樹の渾身のうるうる顔をスルーして目を逸らした。
「まあちゃんと食べられるものにはするから。食べ物を粗末にするのよくない」
「刺激物混入は粗末にしている訳では?」
「新たな境地に至るために未知の味を開拓しているだけです。食べられる物に留めてるし。まひるんのお墨付きが出るまでやります」
「……真昼の舌を壊さないでくれほんとに」
「やだなー。お腹壊すような事も舌壊すような事もしませんー。あとまひるんは周より結構辛いもの耐性高いから案外美味しくぺろりしてるよ。私も美味しい範囲に留めてるもん」
「それで樹が去年悲鳴上げてるんだよなあ」
「いっくんは辛いのすきじゃないもんね。大丈夫、いっくんのはいっくんのでちゃんと作るから。試食とは別!」
「わーいなんて嬉しい宣言なんだー」
「そこ棒読みしないでよ、もう!」
前科があるのでそこについては信頼度ゼロらしい樹に眉尻を吊り上げている千歳に、多分この調子だと樹は自分より若干刺激度の高いもの試食させられるんだろうな、と心の中で合掌しておいた。
「まあ私やまひるんのチョコはお楽しみに。当日まで内緒」
「それはお好きにだけど……俺はもらえるだけ有り難いし」
「ふふん感謝したまえ」
腰に手を当ててドヤ顔を見せ付けてくる千歳に、もらえる事は嬉しいので素直に「いつもありがとう」と返すと、勢いが削がれたらしい千歳の「そういう所なんだよなあ」という呟きが聞こえた。
「ねえ周」
「何だ?」
「周はもし他の女の子からチョコもらったらどうするの?」
先程よりも小さな、人に聞かれないように抑えた声で問われて、周は首を傾げる。
「あー義理チョコ? もしくれるって話なら普通に受け取ってお返しするけど。もらえるとは全く期待してないぞ」
「何で義理チョコ前提」
「いや俺真昼居るし、義理も義理だろ。ないない」
全校生徒とは言わないもののほとんどの生徒が周と真昼が付き合ってるという情報は持っているだろうし、本命をもらうとは全く思わないしもらいたいという気持ちもない。
「うわー卑屈」
「これ卑屈っていうか、むしろ誰かが本命くれる筈! って今の状況で言った方がおかしいだろ。俺はそこまで自信過剰でも軽薄でもないが」
「いやそうなんだけどさあ」
何かを気にするように、いつもより顔色と声のトーンが落ちた千歳。
「でもさあ、世の中そんな単純じゃないじゃん。明確な相手が居る人を好きになるって事もあり得る訳。心がどう動くかまでは制御出来ないもん」
「そういう話、前もしたけど……俺は応えられないって結論が出てるから。というか何でそういう人がいる前提なんだよ」
「もしもを話しちゃ駄目な訳?」
「あのなあ」
「周からしてみたは有り得ないんだろうけどね。でも、ない訳じゃないと思うけど。それに好きだから応えて欲しいって絶対になる訳じゃない事もあるよ。周もそうだった時はない?」
「……まあ」
好きで大切にしたいけれど、絶対に自分と付き合って欲しいとかの独占欲的なそればかりではない。真昼が幸せになるならそれでいいと思った事はある。
「周はさあ、もう少し気にした方がいいと思うんだよねえ。まひるんがひやひやしてるから」
「いや、それはまあ、分かってるし真昼を悲しませたくないから気を付けてはいる、けど。……やっぱりもしかして俺って好かれてる? とか考えるのって自意識過剰過ぎないか?」
「周がそう言い出したらそれはそれで面白いよね」
「おい」
千歳が言い出したんだろうが、と睨めばへらへらと気の抜けた笑みが返ってくるので、こちらの気が抜けてしまう。
「ま、取り敢えず私からはまひるん泣かせたらおこです、とだけ」
泣かせたら、という言葉に昨年を思い出して身を強張らせた周に、千歳は嘘でしょと言わんばかりに瞠目してこちらを見てくる。樹も同じようにこちらを見てくるものだから、非常に居心地が悪い。
「……泣かせた?」
「ここ最近は泣かせてません!」
「ここ最近は」
「……誕生日の時は泣かせたけどさあ」
周が真昼を傷付けるような事を進んでする訳がないし極力笑顔で居てもらうために努力を欠かさないようにしている、が。
誕生日の時は、別問題だろう。
悲しませた訳でも傷付けた訳でもない。あれは喜びの涙であったと自負しているし、真昼も嬉し泣きだと言っていた。
能動的に泣かせてしまった事そのものが駄目なら裁かれるであろうが、あれをカウントされると今後非常に困るので見逃して欲しい所である。
「あー。まあそれはセーフとしましょう」
「お前どの立場から言ってるんだ……」
「まひるんの親友の立場です!」
「然様で」
えへん、と胸を張った千歳に疲れたと額を押さえていた周を心配するように木戸と話していた真昼が寄ってきたので、ひらりと手を振ってなんでもないと返すのであった。
その日はバイトだったのでいつも通りに出勤して仕事をこなしていると、空いたテーブルの片付けを終えた宮本が「俺毎年バレンタイン楽しみにしてるんだよな」とカウンター内に戻ってきて呟いた。
「貰う予定でぎっしりとか?」
「違う違う。うちの喫茶店季節毎にメニュー変えるからさ。普通に美味いっていうか試食させてくれるからさあ」
「あー。美味しいですもんね」
シーズンに合わせて提供メニューを変えていくというのは大抵の飲食店である事なのだが、この喫茶店は糸巻がメニューを決めている。割と気ままに決めているらしいが、味を外した事はない。
バレンタインという事でチョコレートを使用したデザートや軽食がメニューに載せられており、人気を博していた。
そもそもデザート類は糸巻が裏で仕込んでいるので、味に拘りのある糸巻仕込みの品が不味い訳がないのだ。
仕込みの都合上どうしても余る事はあるが、余ったら賄い飯ならぬ賄いデザートとしてさり気なく食べさせてくれるので、周もよくデザートにありついていた。
まあ太る可能性と真昼のご飯が待っている事を考えて控えめにはしているが、味自体非常に美味しいので周も十分に満足するものだった。
「オーナーが優しいからほんとこの仕事してて良かったと思う」
「宮本さん甘い物好きでしたっけ」
「割と好きだぞ。あと食費が浮くのが有り難い」
「宮本さん一人暮らしでしたっけ」
「そうそう。大学近くに部屋借りてる。実家そこまで遠い訳じゃないけどな」
「立地いい所に住んでんよねこいつ」
閉店間近で客が居なくなったせいで暇なのか、同じように出勤していた大橋が洗ってきたサイフォンを抱えて戻ってくる。
「そりゃ俺は推薦で受かって先に部屋取ってたし」
「頭いい自慢ですー?」
「お前よりは成績と生活態度がよかったもんでな」
突っかかるというよりは軽いジャブの打ち合いをしているのだと最近は見分けが付き始めたので、周もわざわざ仲裁するまでもないとやり取りを放置している。
「ちなみに藤宮はどうすんの、バレンタイン」
話が戻ったのか、大橋を軽くいなしつつ何気なしに聞いてくるので、別にシフトにも休暇を入れているのは知っているだろうし隠す事もないか、と素直に答える。
「普通に彼女と二人で過ごしますけど」
「めっちゃいちゃいちゃするじゃん」
「逆にバレンタイン放置するのって恋人としてやばくないですか」
「それはそうだ。茅野も今回は流石に休み入れてるし」
今日居ない総司はクリスマス出勤したのだが、今回ばかりはシフト表に休みの文字を入れていた。
「……宮本さんは」
「残念、俺は仕事だ。まあ、毎年オーナーが差し入れで甘い物くれるからいいんだけどさ」
「それ目当てでシフト入れるのどうかと思うわー」
「お前も入ってるじゃねえか」
「だって限定メニュー食べさせてくれるもん、タダで」
「お前もじゃねえか」
「うるさいばーかばーか」
若干子供のような反論にもなっていない言葉を口にしている大橋は何だか
微妙にそわそわしているようにも見えて、全く報われていない訳でもなさそうなんだよなあ、と細やかな進展を感じてほっとしてしまう。
ただつい顔に出てしまったらしく二人に「何で笑ってんだ」と責められたので、周は慌てて顔を引き締めつついつもの愛想笑いを浮かべ、テーブルから戻ってきた洗い物の元へそそくさと逢瀬しに向かうのであった。





