プロローグ
湯気に包まれたキッチンに、鍋がグツグツと煮込まれる音を静かに歌う朝――
「おにぃ~~~~~~!」
バタバタと忙しそうに、少女は家を駆けた。
「コラ、おにぃ! 起きろーーーーー!」
少女は小さな体を必死に動かしながら、パタパタと階段を駆け上がる。
まるで忙しそうに、それが少女のたった一つの大仕事かのように、丸い水滴を額に浮かばせながら、声を荒らげる。
「コラーーーーー!」
少女はおにぃ、と呼ばれる男の眠る部屋の扉を、ダン、と勢いよく開けた。
「起きろーーーーーー!」
少女は男の眠るベッドに勢いよくダイブし、馬乗りになった。
「ぐぇっ!」
気持ちの良い睡眠をとっていた男が、急に少女に伸し掛かられる。
男は小さくうめき声を上げた。
「コラ、おにぃ、朝だぞ~! 早く起きないと遅刻するぞ~!」
少女はカンカンと鍋をお玉で叩きながら、兄を起こす。
「分かった、分~かったよ、菜摘。起きる、起きるから」
男は妹の腹を掴み、ベッドから下ろした。
「愛しの妹よ、次はもう少し優しく起こしてくれないか」
「何が愛しの妹だし! おにぃは毎日毎日ねぼすけなんだし! もう、お兄ちゃんは全く、もう! 私がいないとなんにもできないんだから!」
「な、何にもは言いすぎだろ!」
少女は腕を組みながら、兄に可愛らしく起こる。
「全く、おにぃは本当に全く」
ぷりぷりと怒りながら、少女は兄の部屋を出た。
「……ったく、朝から参るなぁ、あいつには」
男、櫻井聡助はふああ、と大きなあくびをしながら、ボサボサになった髪を撫でる。
「良い朝だ」
櫻井は部屋のカーテンを開け、伸びをする。
太陽の光を浴び、朝が始まった、と満足そうに顎を撫でた。
「今日も頑張っていこう!」
櫻井は自分を励ました。
高校二年生、櫻井聡助は今日も揺るがない。
朝、高校生の多い通学路。
櫻井聡助は今日も、見目麗しい女たちに囲まれていた。
「聡助、今日も格好良いね! 愛してるよ聡助ちゅっちゅ」
櫻井の隣を一人の女子高生が歩く。
しなやかで細い肢体、健康的に焼けた肌に、引き締まった体。
運動を得意とする少女、新井由紀は櫻井の腕にべったりとまとわりついていた。
「もう気温も上がってるのに、そんなにべったりじゃ気持ち悪いでしょ」
櫻井にべったりになる新井を、隣にいた女が引きはがす。
成績優秀で容姿端麗、才色兼備をそのまま人の形にしたかのような才女、高梨八宵は不機嫌そうに新井の腕を掴んだ。
何をやらせても人の上に立ってしまう高梨は、人生を心底つまらないものだと信じて疑っていなかった。
財閥の娘であり、人生に困ったことのない高梨は自分の物にならない櫻井に、随分とやきもきさせられていた。
「聡助君、あなたもあなたよ。私という正妻がありながら、こんなチャラついた女にデレデレと鼻の下を伸ばして」
「な、何言ってんだよ! そんなんじゃねぇよ!」
櫻井は頬を染めながら、口元を隠す。
「ちょっと、足踏まないでよ!」
櫻井の前を歩いていた少女が唐突に振り返り、櫻井を叱りつけた。
「わ、悪ぃ! そういうのじゃなくて、ちょっとこいつらが……」
「まずはごめんなさい、からでしょ!」
「ごめんごめん、って」
「そうやって他の女ばっかり見てるから、私の足踏んだりするのよ! 本当馬鹿なんじゃない!?」
「そ、そんなの俺のせいじゃねぇじゃねぇか!」
「口答えするんじゃないわよ、このバカ!」
「ぐぇ~!」
少女は櫻井を強くぶった。
気が強く、ツインテールをした少女はぐるる、と唸る。
櫻井に対しても強気で粗暴な言葉遣いをする少女は、櫻井に対して想いをずっと打ち明けられずにいた。
好意が一転して暴力に代わってしまう悪癖を何とかしようともがきながらも、ずっとずっと、好意が反転した暴力をふるい続けていた。
人懐っこい笑顔を時たま見せる少女、八谷恭子は、ふん、と顔を逸らし、一人のそのまま進んでいった。
「まぁまぁ、みんな落ち着こうよ」
そんなカオスな状況を制し、場を取りまとめる少女が一人、困り笑顔で話しかける。
校内でも随一の美少女と謳われるその少女は、優しく穏やかな性格で、櫻井の周囲にいる少女たちをいつもなだめすかしていた。
校内一の美少女、水城志緒は今日も穏やかでたおやか。それていて美しく、大和撫子を彷彿とさせる。
あまりの美貌を持つ少女に、周囲を歩いていた男子高校生たちは愚か、大人や子供たちもが目を奪われる。
「皆、毎日すごすぎだよぉ……」
櫻井の後方で一人泣きべそをかいている少女は、スマホ片手に櫻井たちを遠くから眺めていた。
淫らな服装に隙の多い少女の容姿を一目見ようと、男たちは今日も静かに少女に目を向ける。
ネットでも多くのフォロワーを持つ少女、葉月冬華は今日も櫻井にアクションをかけられずにいた。
「どうして俺の高校生活はこうなっちまったんだよーーーーー!」
女難に苛まれる櫻井は美少女たちから様々な種類の歓待を受け、悲痛な叫び声を上げた。
そして、そんな櫻井たちを遠くから見守る男が一人、歩いていた。
目つきが悪く、目の周りにヒドいクマのある男は何を言うでもなく、ただ櫻井たちを見ていた。
華奢でこれといった特徴はなく、ボサボサの髪を直すこともしない男は、遠巻きから櫻井たちを見守るしか出来なかった。
人より取り立てて頭が良いわけでもなく、人より取り立てて運動が出来るわけでも、容姿端麗なわけでも特技があるわけでもなく、何一つとして取り立てて言及できるような優れた点のない平凡な男、赤石悠人は、今日も頭をひねっていた。
一体、どうして自分とそう変わらない櫻井が校内随一の美少女たちから目をかけられているのか。
一体、櫻井と自分たちの何が違うのか。
何が少女たちをそうさせるのか。
赤石は無言のまま、今日も何とはなしに通学をしていた。




