第476話 水城家の朝はお好きですか?
ピピピ、ピピピ、ピピピ。
朝――
ようやく高校一年生になったばかりの少女、水城志緒は自室で目を覚ました。
「うるさい~……」
水城はスマホのアラームを止める。
「……」
そしてそのまま再度、入眠しようとする。
「志緒~、ご飯よ~。起きてきなさ~い」
「……はぁ~い」
リビングから志緒の母、紅藍の声が聞こえてきたため、志緒はいやいやながらも身体を起こした。
目をこすりながら、志緒がリビングへとやって来る。
「起きたか、志緒」
「げ、お父さんいるの~?」
いつもは志緒が起きるよりも早くに出社しているため、茂がいる朝は珍しかった。
「げ、とはなんだ。げ、とは。お父さんだってな、たまにはゆっくり仕事向かっても良いだろ」
「もう臭いって~。お父さん臭いから近寄らないでよ」
しっし、と志緒は鼻をつまみながら、茂を手で追いやる。
「昨日の業務は二時まで続いてな、ちょっとくらいゆっくり出社してもバチは当たらないだろう」
「もう、朝から声大きいんだって~」
志緒は茂から距離を取るようにして、迂回する。
「ねぇ、私の服は?」
「そこにありますよ」
朝ご飯の準備をしていた紅藍が、丁寧に畳まれた志緒の服を指さす。
「もう、お父さんの服と重ねないで、って言ってんじゃん! 加齢臭が移ったらどうすんの~」
「はいはい、すみませんすみません」
「まだそんな年じゃないぞ!」
志緒は自分の服を取り、服を着替えに部屋へと戻った。
「あなた、ネクタイが」
「あぁ、すまない」
茂のネクタイが折れ曲がっていることに気が付いた紅藍は、ネクタイを結びなおす。
「今日もお仕事頑張って来てくださいね」
「あぁ」
紅藍は茂の首に腕を回し、抱擁をした。
「もう、朝から気持ち悪いよ~」
服を着替えて戻って来た志緒が、両親のスキンシップを見てしまい、明らかに盛り下がる。
「おじさんの恋愛見たくないよ~」
「おじさんも恋愛する時はするんだよ」
「こんな臭いのに~?」
「臭くても必死に生きてるんだよ、おじさんは」
志緒はけらけらと笑いながら、食卓へと向かう。
「――ぅわ!」
志緒は床に落ちていたリモコンに足を取られ、体勢を崩した。
「危ない!」
茂は咄嗟に腕を出し、志緒を抱えた。
「あ、ありがと……」
志緒は前髪をいじりながら、父に感謝する。
「怪我はなかったか?」
「怪我はなかったけど、リモコンが……」
志緒が踏みつけたリモコンは、破損していた。
「そんなものはどうにでもなる。お前に怪我がなくて良かった」
「スミマセン……」
茂は破損したリモコンとその破片を拾い、安全な場所へと退避させた。
「もう、こんな所にリモコン置いたの誰~? 危ないじゃん!」
「あらあら、昨日テレビ見てたから……」
「ちょっと、お母さん!」
「ごめんなさいね」
「はいはい、朝から喧嘩しない」
茂がパンパン、と手を叩く。
「朝から嫌な気分になっても良いことないぞ。物はちゃんと住所を決めて、定位置に戻すように! さぁ、ご飯にしよう」
「は~い」
「はいはい」
水城家は食卓を囲み、席に着いた。
「じゃあ、いただきます」
「「いただきます」」
茂たちは朝食を共にする。
志緒は朝食に手を付けながら、久しぶりの家族団欒の時間を良い機会に、と話し始める。
「でもお父さんが朝いるのって結構久しぶりじゃない?」
「専務にもなると、朝から仕事がひっきりなしでな」
「はい、また専務ジョーク来た~。もう良いって、そのボケ」
「ボケてないぞ。ボケてちゃ専務は務まらない」
「お母さんも何とか言ってよ!」
「昇進してからはお金にも余裕が出来て、良いことじゃない」
「わ~、お母さんまでお父さん側なんだ~。お金のことばっかり言って、お母さんやらし~」
「はいはい」
「金のなる木だと思ってるんでしょ、お母さん~」
「お母さんはそんなにお金に目がくらんでません」
「お父さんは茂だから、金のなる草なんだけどね。藪をつついて金を出す、みたいな」
「金はなるんじゃなく、ならせるものだ」
「専務ジョークまた来たじゃん」
「お金は手段であって、目的ではない。お金に目がくらむと、足元を掬われるぞ」
「おじさんの説教って本当聞いてられないよね~」
「お父さん、お代わりですか? つぎますよ」
「大丈夫だ。運動しないと体もたるんでいくからな」
「ご飯よそうくらいで運動とか言わないでよ~」
「志緒、お弁当忘れないでね?」
「もう、分かってるって。良いよね~、お父さんは毎日毎日お金かけて外食してるんでしょ? 私らが質素なご飯食べてるのに、お父さんだけ大金かけて良い物食べてるんだ~」
「大金って、二百円だぞ、二百円。二百円の昼食が大金か!?」
「社食でしょ~? 二百円でご飯食べれるとか意味分かんないんだけど」
「それに、お母さんが作ったお弁当の方が外食なんかよりよっぽど価値があるだろ」
「じゃあ毎日お母さんのお弁当食べなよ。私は毎日お母さんのお弁当食べさせられてるんだからさ!」
「こら志緒、あんまりお母さんのことを悪く言うんじゃないぞ」
「何さ、ケチ! 私だってお母さんのお弁当より学食食べたいし!」
「精進します」
「お母さんのお弁当の方がよっぽど美味しいだろ。今は分からないかもしれないけどな、こういう親からの愛っていうのが、後々大人になってから、あぁ、あの時の時間って大切でかけがえのないものだったんだな、と思うようになるんだよ」
「毎日お母さんのお弁当断って社食食べてるおじさんが言っても説得力ありませんよ~、だ」
「毎日毎日お母さんにお弁当を作らせるのもしんどいだろ。それに、普通に作っても二百円で収めるのは無理だ」
「専務にもなって二百円でご飯収めないでよ、そもそも」
「質素倹約の心は持つべきだ。武士は食わねど高楊枝、ボロは着てても心は錦、どんな時でも、常に高潔で美しい魂を持つべきだ。いくらお金を持っていても、お金に感謝がないといずれ物の価値、真贋を見誤ることになる」
「本当おじさんの説教って右から左に抜けていくよね~」
「少しはお父さんの言うことも聞いてあげなさい」
「おじさんの説教ってこう、なんだろ、含蓄がないんだよね。お父さんだからなのか知らないけど、もうなに聞いても、あぁ、そう、としか思えないんだよね。お父さんの部下も多分同じこと思ってるよ」
「志緒も大人になると分かるようになる」
「ほら、志緒も喋ってないで、早くご飯食べなさい」
「は~い」
「時間が迫っても焦るんじゃないぞ、志緒? 急いては事を仕損じる」
「朝から専務感出してきてお父さん本当鬱陶しいんだけど!」
「専務にもなると、人前でスピーチをすることが増えて増えて仕方ないんだ」
「何なの、一体? 説教ハイになってんじゃない、お父さん?」
「お父さんは昔からこんなですよ」
「いやいや、昔はもうちょっと静かだったよ! 朝っぱらから可愛い娘に向かってグチグチグチグチ! 壁にでも話しかけてなよ!」
「会社の部下なんかは、私の話が聞きたくて食事に誘ってくるくらいなんだぞ」
「こんなくっさいおじさんの話聞きたい部下とか本当にいるの~? 専務だからゴマ擦って、自分が昇進するための踏み台にしてるだけなんじゃないの~?」
「リアリティのある考察をするんじゃない」
「お父さんも人気で良かったじゃない」
「そもそも、最近の若い子は昇進をしたがらないそうじゃないか?」
「はい、出た~。おじさん特有の、世代にまとめて人を判断するクセ出た~。多様性とか、本当お父さんの頭にはないんだよね! こんな頭固い、臭いおじさんが専務とか、お父さんの会社も先が思いやられるな~」
「臭いのは関係ないだろ!」
「お父さんみたいなのにこき使われてる部下が可哀想だよ、私は」
「ある程度は世代による影響を色濃く受けるものだと思うぞ。それこそ、志緒だって現にそういう世代が言いそうなことを言ってるじゃないか。世代にまとめるな、と言うことこそ、志緒の世代が躍起になって言っていることだろ」
「私らが権力に立ち向かえる、未来ある輝かしい若手だってだけでしょ?」
「そういうのが世代による偏りなんだ。私たちが子供の頃は団塊ジュニアだとか就職氷河期だとかベビーブームだとか色々あってな、やっぱり世代による考え方の偏りはあるし、抜けないものだ。世代ごとに一括りにしてまとめてるんじゃなく、世代が受けてきた環境から醸成される考えがだな――」
「あ~、もう、うるさいって~。朝から説教ばっかしないでよ」
「それはそうだな。すまない」
「ねぇ、お母さん~! お父さん叩いて良い~?」
「お父さんをいじめちゃいけません」
「学校はまだ大丈夫か?」
「ん~、もうちょっと大丈夫~」
「焦るんじゃないぞ、志緒。何かあったら遅刻すれば良い。焦って道路に飛び出して交通事故にでも遭ってみろ。お父さんは志緒のことを思ってやりきれないぞ」
「勝手に私のこと想像で殺さないでよ~」
「事故に気を付けるんだぞ、志緒」
「志緒、気をつけてね」
「分かってるよ、もう~。気を付けて行ってきます!」
「行ってらっしゃい、志緒」
「まだ行く時間じゃないって~!」
「志緒、醤油取ってくれ」
「お父さん高血圧なんだから止めときなよ! 塩分は渡しません!」
「お母さん、塩」
「塩塩うるさいんだよ、お父さんは!」
「塩人間ね」
「塩人間ってなんだ、塩人間って」
「健康に生きてくださ~い」
「その味付けで我慢してください」
「む……そうか」
「お父さんも塩を控えるように!」
「説教をするんじゃない、説教を」
「若者の説教は良い説教!」
「ほら、喋ってないで早く食べなさい」
「は~い」
水城家は家族団欒を楽しみながら、朝食を取った。
ピピピ、ピピピ、ピピピ、ピピピ、ピピピ。
「……朝?」
懐かしい、夢を見ていた気がする。
「……」
志緒はゆっくりと体を起こし、スマホを確認した。
「朝、か……」
昨日の母とのやり取りが、思い出される。
自分はこれから毎日、朝を迎えるたびに母とのやり取りを思い出さなければいけないのか。
志緒は憂鬱な面持ちで、リビングへと向かった。
「おはよう……」
「……」
志緒がリビングに来たことに気が付かなかったのか、紅藍からの返答はなかった。
紅藍はノートパソコンにイヤホンを刺し、プログラミングの講座を聞いていた。
「おはよう……」
「……」
紅藍はちら、と志緒を瞥見する。
「遅かったじゃない」
「……」
リビングに行く気が起きず、部屋でゴロゴロとスマホを見ていた志緒に、そう声がかけられた。
志緒は紅藍の様子を見ながら、おずおずと尋ねる。
「お金って、大丈夫なの?」
「余裕はありません」
ピシャリ、と紅藍にそう言われた。
「今月の支払いとか……」
「毎月、支払額が一定になるサービスを使ってるので、あなたは難しいことを考えなくても大丈夫です」
「……そっか」
支払い自体には困っていないが、いずれ困窮することになる。
そういう意味合いだと、志緒は理解した。
「……」
目を向けて見れば、洗濯物が畳まれずに山のようにして積み重なっていた。
ここ最近はソファーに洗濯物が山積みにされているので、座れていない。
「お母さん、ソファーの洗濯物、いつ畳むの?」
「……いつ畳むの?」
「あの、大変なら私手伝うけど……」
「手伝うけど、じゃないでしょ。家のことをお母さんだけに任せるつもり? あなたも大学生になるんだから、家のことくらいちゃんと自主性を持ってやってもらわないと困ります。お母さんは忙しいの。気が付いたなら、まずお母さんに言う前に自分でやってください」
「……はい」
今まではこんなことなかったのにな。
志緒はやつれた表情で、食卓へと向かう。
「危ないんだけど……」
食卓にノートパソコンを置き、充電をしながら紅藍はプログラミング講座を聞いていた。
コンセントが食卓近くにないため、ノートパソコンに刺さった充電ケーブルがピンと張り、志緒の動線上にあった。
「……」
紅藍は志緒の言葉を黙殺する。
「はぁ……」
志緒はピンと張られた充電ケーブルをまたぎ、自席へと向かう。
「――わっ!!」
充電ケーブルをまたぎ、一歩踏み出した瞬間、床に無造作に置いてあったリモコンに足を取られた。
志緒はそのまま転倒し、自然、志緒の体に巻き付いた充電ケーブルがノートパソコンを引っ張り、パソコンごと床に落ちた。
「いやーーーーーーーーー!!」
志緒が引っ張った充電ケーブルが原因で、ノートパソコンが大きな音を立て、床と衝突した。
志緒の腰元ほどの高さの机から、ノートパソコンが落ちた。
ノートパソコンに起きた事態を即座に理解し、紅藍は顔が真っ青になった。
「い、痛たたたた……」
志緒は充電ケーブルに足を引っかけ、壁に頭を強打した。患部を手で押さえながら、志緒はうめき声を漏らす。
「パソコン、パソコンが……」
電気屋の店員に勧められ、言われるがままに購入した三十万円のノートパソコンが、落ちた。
紅藍は恐る恐るノートパソコンを持ち上げる。
「……」
志緒は悲しい目で、母を見る。
「あぁっ!!」
紅藍が持ち上げたノートパソコンは破損し、画面にひびが入っていた。
「電源、電源は……」
電源が、落ちていた。
紅藍は必死になってノートパソコンの電源を押す。
「つかない、つかない……!」
紅藍はノートパソコンをバンバンと叩きながら、電源が付かないか何度も試す。
「ご、ごめんなさい……」
大変なことが起こってしまったと、志緒は目前の母の様子を見て、遅ればせながら理解した。
紅藍はぷるぷると、体を震わせた。
「何するのよ!」
頭に血が上った紅藍は、全力で志緒の頬を引っ叩いた。
「え……」
あまりにも突然の事態に、頬に熱を持ったまま、志緒はしばし、沈黙した。
チカチカと、目の前が点滅する。
「ご、ごめ、ごめん……なさい……。お、お母さん……」
母親にぶたれた。
全力で、頬を、叩かれた。
母親に叩かれたことなど、初めてのことだった。
志緒は涙目で、謝罪する。
頬が痛いことよりも何よりも。
母親にぶたれたことが、心に、大きな傷を、与えた。
「このパソコンいくらしたと思ってるの! 三十万円よ、三十万円! あなたが何カ月も必死に働いて、ようやく買えるものなのよ! それをあなた、こんな……」
紅藍が手で顔を押さえ、さめざめと泣く。
「弁償しなさいよ!」
紅藍は鬼気迫る表情で、娘に迫った。
「三十万円、耳を揃えてきっちり返しなさいよ!」
「ごめ、ごめんなさい……」
「どんなことをしても良いから、すぐに返しなさい!」
「ごめん……なさい……」
志緒はぽろぽろと、涙をこぼした。
どうしてこんなことになってしまったのか。
一体、誰が悪かったのか。
自分の何が悪かったのか。
「あぁ、もう……、講座も申し込んでるのに! 期限もあるのに……! パソコンがないのに、どうやってプログラミングするのよ……! あぁ、もう――!」
「ごめんなさい、お母さん、ごめんなさい……」
紅藍は髪をかきむしりながら、実の娘の責任を、追及していた。
志緒はただ涙目で、謝罪するしかなかった。




