第164話 高梨の事情はお好きですか? 4
「でももう、駄目ね」
高梨は、言った。赤石も反応する。
「櫻井との関係……か」
「そうよ。櫻井君は私を選ばなかった。私から散々アプローチをかけたけど、もう駄目ね。櫻井君の目は、私には向いてないわ」
残念なような、振り切った様な、そんな声音。
「赤石君、知ってるかしら?」
「何を」
「櫻井君が私だけ名字で呼んでることを」
「……は?」
赤石は、知らない。無意識的に、櫻井は取り巻き全員を名前で呼んでいるとばかり思っていた。
「いや……」
「櫻井君は私だけ名字で呼んでるのよ。櫻井君は私のことが好きなわけじゃないのよ」
「いやいやいや」
思い出す。
「いや、違うだろ。水城も名字のはずだ。あいつは水城のことを水城と呼んでいたような……気がする。志緒なんて呼び方はしていなかったような気がする」
「そうね、その通りよ」
肯定。
「でもそれは名字であって名字ではないわ」
「どういうことだ」
「私も気になって水城さんに訊いたことがあったのよ。どうやら水城さんのことを水城と呼ぶのは、水城が名前に似ているから、らしいわよ」
水城ではなく、瑞紀ということか、と頭の中で漢字を変換する。
「他の子は皆名前で呼んでるわ。水城さんはそういうことがあったから。ただ、何の理由もなく、私だけが名字で呼ばれてるの」
「それは……」
ああ。それは。それは、確かに、脈がない。
「言われなくても分かってるわ。脈なんて、最初からある訳がなかったの。今まで引き延ばしに引き延ばし続けた私の責任よ。一年前は私たちは屋上で毎日会ってたのよ」
「屋上で……」
途端、八谷と屋上に行った時の出来事が脳裏をよぎった。
あの時、屋上は開いていなかった。
「屋上は開いてないはずだぞ」
赤石は思ったままを口にした。
「そうね、全国でも屋上は開いていない高校が多いでしょうね。安全上よろしくないから。でも、私たちは違うわ。ここの校長は私のおじさん、知ってるでしょ?」
「ああ……ああ」
以前須田といた時のことを思い出した。確かに校長は高梨に抱きつきに行っていた。
「私がおじさんに頼んで屋上を解放してもらってたのよ。おじさんに頼んで色々手配して貰ったりもしたわ。櫻井君のハーレムを維持していたのは私。屋上を解放したり、皆が集まれるような場を作ったり。櫻井君のハーレムを、今の今まで私が支えていたのよ」
「なんでだよ」
高梨の目的とは余りにも正反対な。
「なんでそんなことしたんだよ。そんなのお前にとったら逆効果だろ。櫻井の周りに女を増やしてハーレムを築くような真似……。お前が櫻井に一言、他の女と遊ばないで、って言えばいいだけだったろ」
「そんなこと言えるわけないじゃない。彼女でもあるまいし」
「それはそうだが……」
いたって最も、その通りではあるが。
「櫻井君に尽くすことで私は私の愛情を見せたつもりよ」
「櫻井のハーレムを維持したのもか」
「そうよ。もちろん、櫻井君が私とだけいてくれれば、それが一番良かったわ。でも実際そうもいかないのよ。水城さんも新井さんも櫻井君の幼馴染よ。放っておいたら私の目の届かないうちに関係を深めてるかもしれないじゃない。櫻井君に尽くせて、なおかつ周りの虫も監視できる、そういう場を作るのが、私にとって最善だったのよ」
「櫻井はそれを望んでいたのか?」
「当り前じゃない。彼は望んでそうなったのよ。むしろ櫻井君が主導でこうなったと言ってもいいわ」
「そうか……」
櫻井のハーレムは瓦解の一途を辿っている。それは高梨が大きな要因だったのかもしれない。
高梨は諦めた。
櫻井を、諦めた。
その無力感から、そして櫻井との絶縁から、櫻井に頼ることは出来なかった。
高梨は櫻井を失った。
高梨に残っているものはもう何もないのだろうか。
赤石は高梨に視線を向ける。
「……」
「何? 赤石君」
「……高梨」
そっと口を開く。
「もう櫻井は好きじゃないのか?」
「最初から好きなんて感情はないわ。櫻井君しかいなかっただけ」
「これからどうするんだ?」
「……」
今度は、高梨が黙る番だった。
「分からないわ」
「……」
長い沈黙が続いた。
「……」
「……」
赤石は、数度目を閉じた。
「……」
「……」
無言で、視線を交錯させる。赤石は高梨から目をそらし、仰向けになった。
「なんで櫻井みたいなのがモテるんだろうな」
「え?」
赤石は天井に手を伸ばしながら、言った。何かを掴むように、見えないものを感じ取るように。
「なんで櫻井みたいなのが女にモテるんだろうな。下心ばっかりで、女にしか優しくない、男は無視して女に気に入られるようなことばっかりして。俺は櫻井が嫌いだよ」
「さあ、なんでか分からないわ」
嘘だった。
実際赤石は櫻井がモテる理由を解明している。赤石が知りたいのは櫻井がモテる理由ではない。櫻井がモテるようなこの世界の不条理を、ただただ嘆いていた。
「俺、新井と日直だろ?」
「そうね」
「数カ月くらい前に俺と新井が遅くまで残った時あってさ。櫻井が差し入れとか持ってこようか? っつったんだよ」
「ええ」
「で、櫻井ってそういうことする人間なのか、って思ったんだけどさ、俺が日直変わるって打診したら櫻井は新井と一緒に部活に行ったよ。差し入れすること自体がまるでなかったかのように、な」
「それは心が痛むわね」
「そういう行為がモテるんだろ?」
「……そうかもしれないわね」
まるで意味の分からない。
「俺には俺以外の人間がまるでおかしいように見える。何で新井は櫻井のそんな悪辣な行動を間近で見ときながら無視できんだよ? なんで取り巻きのあいつらは櫻井のしてる頓珍漢な行動を手放しで褒め称えてんだよ。意味分かんねえよ」
「そうね」
赤石は伸ばした手に力を籠め、握りこぶしを作り、降ろした。
「大体モテる奴っていうのはそういう奴が多いんだよ。他人を差別して、他者を貶して制圧して、そうして自分が強くなったかのように勘違いしてるような奴が一番モテるんだよ。小学校も中学校も高校も、一番モテるのは櫻井みたいな奴なんだよ。あたかも自分だけが正しいみたいに振舞って、他人のやることなすこと全てを否定して、そうして自分が一番その場を制圧してるみたいな、そんな顔してる奴が一番モテんだよ。なんでだよ。なら俺もそうすればいいのか? 他人のやることなすことにケチつけて、あたかも自分だけが正しいかのように振る舞って、蹴落として、貶して、正義面して独善的な正義を振りかざして、異性にだけ良い顔してればいいのか? 違うだろ。そうじゃないだろ」
「……」
高梨は赤石の声を、じっと聞く。
「俺は櫻井が嫌いだ」
「そうね。みっともないけれど、あなたのせいで私も嫌いになりそうよ……」
「そうか」
「……」
「……」
はあ。
大きなため息を吐いた。
「私たちの方も同じような感じよ」
「?」
高梨が口を開いた。
「男の子のいる時だけ口調も自分の意志もねじ曲げて、不必要に近づいて色仕掛けしているような子が人気になるのよ。正しさも聡明さも誰も求めていないわ。あの男の子は止めておいた方が良い、だなんて牽制しておいてその当人が数か月後に自分が注意を促した男の子と付き合ってるなんてザラにあったわ。いつだって、異性にだけ良い顔をして同性に嫌われるような子がモテるのよ。同性のことをないがしろにして、道具みたいに扱って、そういう手管を使って異性に媚びているような子が人気になるのよ。忌々しいわ」
「……そうなのか」
どこにでも、櫻井はいる。
そういうことなのかもしれないと、思った。
「一番近いのは葉月さんね。次点で水城さんよ」
「ああ。なるほど」
含意に近いのは、その二人だった。
「とりわけ水城さんは強力ね。同性にはまるで私はそんなことを考えていません、という顔をしておきながら異性にだけ媚びてるわ。上辺だけ取り繕って自分の思い通りにしてやろう、という思惑が透けて見えるわね」
「悲しいが同感だよ。生き方こそこすいものの、水城自体は俺は案外嫌いじゃないけどな」
水城の日常を垣間見たことがなかったが、そういうこともありそうな気がした。
「騙されてるわね」
「騙されてる実感があるから騙されてはない」
「あなた、論理が滅茶苦茶よ」
「かもな」
赤石はふ、と笑った。
「結局、優しさも努力も気持ちも何もかも、そういう想いは何も届かないのかもな。結局は櫻井みたいなゲスの下心に負けるのかもな」
「私も葉月さんに負けるのね……」
赤石と高梨は同時に溜め息を吐く。
「寝るか、高梨」
「そうね。今日一夜の過ちはなかったことにしましょう」
「含意が変わるだろうが」
赤石と高梨は眠りにつくことにした。
「赤石君、赤石君。起きてるかしら?」
赤石が殆ど入眠にさしかかったとき、ふと、高梨が言った。
「…………んん」
寝ぼけ眼で、殆ど眠りにつきながら、赤石は返事をする。
「あなた、八谷さんとトラブルをよく起こしてるわよね」
「俺は……起こられてるだけ……だ」
脳が覚醒していないため、文意が理解不能なものになる。
「例えば、八谷さんがいじめにあったことがあったわよね」
「残念な点だな……」
「あれは私のせいだから。本当にごめんなさい」
「考えられ……ない」
「…………ごめんなさい」
「…………」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
赤石は寝息をたてて、寝た。
高梨はただただ、意識のない赤石に謝罪していた。




