第72話 吐きそう
チャナママとやらに誘われ、鏡花はまるでそれが当然かのようにエスコートされた。そっと差し出された巨大な掌に触れて店内へと。
「なにしてんの? 部屋確保したんだし、行くわよ」
自分がまだとんでもないことをしたのか理解していない鏡花は、振り返って俺たちに入店を促す。
俺たちは警戒して───いや、龍弐さんはホイホイと進んでしまったので、マリアと奏さんに盾にされ、俺も入店した。
さて。入ったまではいいが、次の瞬間に飛び込む刺激臭に、脳が痺れた。緊張していたからだろう、身構えていたところにこれだ。
例えるなら───濃密なバニラエッセンスを主体に、シナモンやレモン、そこに動物の体臭が混じったような、妙に不快感を覚える香りだ。ギリギリで脳は危険信号を発していない。これで生物の体臭っぽいものが強ければ逃げ出していたかもしれない。
だがそれはあくまで嗅覚の情報。
視覚で捉えた情報で、俺はもう帰りたくなっていた。
「あっらーん? 可愛い坊やだわぁ」
「ほんとネー。ワイルドで、俺様って感じだわー」
「ワタシ、オトコ、ダイスキ。タベチャイ、タイ」
二十代から四十代くらいの男たちが、チャナママとかいうゴリラに似たイカレた服装で給仕していた。
もう、吐きそうだった。
「り、りり、りりりゅ龍弐。こここ、ここっててて………」
「口調バグってるよ奏さんやぃ。見たとおり、性別の壁を超えて愛を育む嗜好を持った人間の集り場だけど?」
「あ、ああああいいいいい?」
「あひゃ。相変わらず初心だねぇ。西京都でも、路上で堂々とキスするカップル見て照れてたもんねぇ」
俺を盾にしながら、握ったジャケットを引き裂かんばかりの力を込める奏さんを、龍弐さんがまたいじる。やめてほしい。俺の体まで裂けちゃいそう。
同時に理解。
なぜ雨宮が配信を許さなかったか。
この店の一階はほぼすべてが飲食ができる酒場で、客も店員も少し特殊。多様性を求める時代は二百年前に訪れたと聞くが、それよりももっと古くからあった、時代の魁さえ思わせる空気。
いや、店員の服装がぶっ飛びすぎて、センシティブ過ぎるから、インモラルブロックが機能し過ぎてなにも放送できないどころか、インモラルブロックワードも働いてブラックアウトと無音のふざけた配信になってしまうからか。
俺の前を横切る赤い髪をした四十代の男は、挑発的なウィンクをしながら、ミニスカートの下から覗かせる丸太のように太い足と、体毛を惜しみなくサービスしてくれる。吐きそう。
「鏡花ちゃん。あんた、お友達にここがどういう場所なのか、ちゃんと説明しなかったわけぇ?」
「説明しようにも、信じてもらえるかわからなかったから。………ああ、客室はまともだから安心して? サービスを頼まない限り、なにもしてこないから」
「そういうこと。でも、可愛い男の子からのお誘いなら、いつでもベッドに伺うわ。ウフッ」
ダメだ。吐きそう。
やめろ。チャナママとかいうゴリラの熱烈な視線を、俺に向けるんじゃねぇ。
俺たち三人は、経験済みの鏡花と、なぜか普通にしている龍弐さんの先導で二階の客室へと入る。
いったいどんなところかと思いきや、各部屋六畳ほどの、山小屋を思わせる造りをしたところだった。センシティブな装飾は一切無し。防音性に優れているのか、一階の喧噪は聞こえない。
二段ベッドがふたつ並び、奥には注意書きがあった。汚したら罰金。店員が汚したら衣服を無料クリーニング。ふざけんな。誰が頼むか。
女子部屋にした一室に、俺にもたれかかるマリアと奏さんをベッドに降ろしてから龍弐さんのいる隣の部屋に向かう途中、鏡花に声をかけられる。
「夕飯まで自由にしてていいわ。外行くなら声かけなさい」
「ちなみに、裏口とかそういうのはあるのか?」
「無いわ。外に行くなら一階のホールを通過しなきゃね」
「………わかった。外には出ない。夕食は部屋で食べるんだよな?」
「なに言ってんの? 一階が飲食店になってるんだから、そこで食べるに決まってるじゃない」
「………ハァ。わかったよ」
なに当然のこと言ってるの? と言いたそうな鏡花に、ガクリと肩を落として女子部屋を出る。
おかしいよな。俺たち、悪夢を見るためにここに来たんだっけか?
違うよな。情報を得るためにここに来たはずだ。それが開始数秒で、ここまでメンタルにダメージを負うことになるなんて誰が考えた?
そりゃ、宿泊経験というか、チャナママとかいうゴリラと面識があり、顔パス同然で宿泊できる権利を得たのは儲けものだったとは思う。
しかし、代償があまりにも大きい。
「龍弐さん。本当にここで情報が聞ける………あれ? いねぇや」
俺に奏さんを押し付けて、先に部屋に入ったはずの龍弐さんの姿はどこにもなかった。
きっとどこかに出かけているのだろう。あのひとは軽井沢にいた時も、掴みどころがなくて、いつもふわふわとしてフラフラもしてて、気付いたらどこかに出かけていた。今さら、行き先については心配はない。きっと、そのうちふらっと帰ってくる。
「………ちょっと寝よう。疲れた」
まだ昼が過ぎて少しくらいの時間だが、疲労には勝てず。久々の純白のベッドに横になると、その感触に感動し、ベッドに汚れがあるか、ちゃんと清掃されているのか調べもせずに眠ってしまった。
「………ちょっと。ねぇ。起きなさいよ」
「あ………?」
いったいどれくらい寝ていたのだろうか。小さな窓からは相変わらず光源となる鉱石が一定の光しか出さないため、二十四時間が決まった明るさが保たれており、時間の経過なんてわかったものじゃない。
俺は肩を揺さぶられ、耳から脳に浸透した女の声で覚醒した。
「………鏡花? どうした」
「もうすぐ夕飯だから、教えに来てやったんじゃない。随分と静かだったけど、ずっと寝てたの? 龍弐さんは?」
起こしに来たのは鏡花だった。鼻孔から侵入する甘い香りは知っているものだったので、警戒心を忘れてしまった。
ベッドから身を起こして周囲を探る。鏡花はいつもどおりシャツの上にリトルトゥルーのジャケットを肩にかけている。スカート。妙に暑い。甘い香りも強い。鏡花からだ。入浴したってことか。
「疲れてたんだよ。色々あったからな。龍弐さんは………知らねえ」
「知らねえって」
「昔からそうなんだ。小さい頃なんて、野生の鹿を見つけたって叫んで追尾したんだけど、山まで越えて走ってったからな。そんで平然と帰ってくるんだ。今のあのひとの実力はもう見ただろ? 外にいようが、心配はないさ」
「ふーん。そういうもんなのね」
「で? なんでお前は男部屋にいるんだ?」
風呂上りの姿は何度か見たことあるが、こう………部屋にふたりきりってのも、どうかと思う。
感情が揺さぶられる。原因はわからない。
「あんた、まともにお風呂入れてなかったでしょ。だから差し入れに来たの」
「差し入れ?」
「これよ」
鏡花は足元を指さす。そこには七十リットルのビニール袋に入った、タプタプと動く黄色い着色がされた水があった。それが合わせて六つある。それとボディソープとシャンプーが入った籠も揃えられていた。
「雨宮さんからよ。ちなみにここのシャワールーム、お湯を出すだけで十万円するから」
「マジかよ。ぼったくりじゃねぇか」
「でも十分間は出し放題よ。トイレがついたユニットバスだけど、綺麗に清掃されてるから期待していいわ。まぁ十万円も払いたくないから、こうして雨宮さんが用意してくれたわけ。お湯の持ち込みは自由だし。じゃ、早めに済ませなさいよ? 私たちは十分後に下に行くから。遅れてもいいわ」
「ありがとな。正直、ありがたい」
「素直にお礼を言うなんて殊勝な心掛けね。じゃ、ごゆっくり」
鏡花が去ると、早速部屋の風呂に向かう。バスタブに入浴剤入りの湯をひとつ張って、沈み、堪能してから髪と体を洗い、泡だらけになった湯を捨てて、新しい湯を浴びながらまた溜めた。
たくさんのブクマありがとうございます!
今日も頑張って書き溜めします!
ダンジョンにこうした宿屋があってもいいと思います。クッッソ高そうですけど。
新しい風を起こしてみたく、空気変えてみました。オカマたちの魔窟へようこそ。ここでの騒ぎも面白くしますので、ブクマ、評価、感想で応援していただければ嬉しいです。よろしくお願いします!




