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3話:お騒がせガール


「ねえ、まだ終わらないの!?」


 予想通りだった。最初は玲一の左に大人しく座っていたバケ子だったが、退屈になったのか逆側の通路に立ち、ストレッチを始めた。

 玲一はメモを取るのに使っていたルーズリーフの右端に『あと30分』と書いて、隣で立ち上がって伸びをする彼女に見せた。


「さん……まだそんなに残ってんの!? ねーレイイチ〜」


 彼女はスライドと玲一の間に立つ。スライドの光で身体の透け具合が際立つ。バケ子を通してぼやけた文字をなんとか読み取り、軽く板書する。さっきの文字を消し、新たに三文字書く。


『寝とけ』

「さっきちょっと寝たよ〜。すぐ目が覚めたし、今もう全く眠くないんだよぉ〜」

『もう少しガマンしろ』

「……」


 ついにバケ子が黙った。年齢も忘れてしまった彼女だが、その外見からするにまだ高校生か中学生か、もしかしたら大人びた小学生かもしれないといったところ。大学の授業はつまらないのだろう。


(……仕方ないな)


『筆談できる なにか話す?』


 玲一はそう書いた。

 だが、バケ子からの返事はない。拗ねているのか、ああは言っていたがやっぱり眠ってしまったのか。玲一は何気なく右を向いた。


「……!?」


 バケ子は隣にいなかった。ずっとスライドの方を見ていたため、彼女がいなくなったことに気がつかなかった。


(嘘だろ……どこ行った!?)


 目立たない場所でよかった。学生たちは慌てる彼には目もくれず、あたりを見回しても講義の邪魔にならない。

 軽く探しても見つからない。席を立ち、背を屈めて後ろの扉に向かう。もしかしたら講義室から出たのかもしれない。

 幽霊といえど、すり抜けられるのは人間だけであることはすでに明らかになっている。家はおろか、電車の出入り口も、講義室の扉も開いている状態でしか通れなかった。扉の前まで来てみたが、半透明なその姿はやはり見つからない。

 自分の席に戻ろうかというとき、可能性の一つとして思い浮かんだことがあった。今朝の会話が思い出される。


『ベランダに出てだいたい一日かな。すごく、苦しくなったの』

『幽霊が苦しくなるってことは成仏するってことじゃないのか?』

『そうだよね。レイイチもそう思うよね。危なかったぁ』


 ベランダで一日もったのは部屋がすぐ近くにあったから? では、今の状況はどうだろうか? ……おいおい冗談じゃないぞ。嫌な汗が出る。玲一は首を振って嫌な予感を追い払った。

 彼がその会話を忘れようとすると、その次の会話が思い出される。


『わたしだって満足して死にたい――いや、もう死んでるから……。満足して、消えたい』


「……」


 玲一は壁に手をついた。急に湧いた罪悪感に押しつぶされそうになった。

 彼女にとって自分は唯一頼れる相手だったのに。記憶を取り戻すと約束したのに。何もしないまま終わってしまった。

 心に穴が開いたようだ。まだ出会って一日も経っていない。煩わしいやつだとすら思っていた。だが、それ以上に玲一の本心は彼女と言う存在を大切に思っていた。


「ねえアレやばくない?」


 ふと女子グループの声が聞こえる。


(ああ、やばいさ。講義中に壁にもたれて落ち込んでるやつなんてな。放っといてくれ)


 偏見だが、一番後ろに陣取るようなグループなんてろくな奴らじゃない。しかし言われた通り、こんなところで落ち込んでいる場合ではないのは確かだ。玲一は聞こえなかったフリをして、最前列の席に戻ろうと歩き出した。


「え〜、どれよ?」

「ほら、前のプリント」

「どこの? ああ、先生のとこに積まれてるあれ?」


(なんだ、俺じゃないのか)


 別に自分のことを言われていたわけではないと知り、一安心する。と、同時にろくでもないと言ったことを反省した。


「ねーなに?」

「プリントのとこ見てよ――ほらほら! 今あれやばいって!」


 何かに気づいたのか騒ぎ出す女子たち。

 それを皮切りに講義室のいたるところからどよめきが起こる。講義をする教授も何かに気づいたらしく、わわわっとマイクを通して情けない声が響く。慌てて電気をつけた。

 そこまで騒ぎになると玲一も気になる。彼は女子たちの後ろからチラリと前を見た。


「あ!」


 教授が使う台の上に積まれた、余ったレジュメプリント。それらが風もないのにペラペラとめくれ、一枚ずつ新たに積まれていく。

 当然一般人から見ればプリントが勝手に動いているように見える。だが講義室にただ一人、玲一の目からは別の景色が映った。


「あいつ……!」


 そこには消えてしまったと思っていたバケ子の姿があった。安堵からか、思わず笑みがこぼれる。

 この騒ぎは彼女の仕業だった。暇を潰すために部屋の中を歩きまわっていたのだろう。最終的に彼女の興味はプリントに移ったということだ。

 その場にポルターガイスト現象を前にして冷静でいられる人はいなかった。皆慌てふためき、部屋から出ていく人すらいた。玲一はその流れを無視して中を突っ切り、自分の元いた席へと戻る。


「あっおかえりぃ。どこ行ってたの?」


 玲一を見つけたバケ子はプリントを持ったまま玲一に駆け寄った。当然玲一以外の人間には、ただの紙が勝手に数メートルを空中浮遊したように見える。どよめきの中に悲鳴が混じる。

 当然彼女に何かをしてしまったという自覚はない。玲一はバケ子に目を合わせずに小さな声で言った。


「それ、さっさと返してこい。勝手にプリントが動いて大騒ぎになってる」


 それを聞いたバケ子はハッとしたような表情を浮かべ、講義室をぐるりと見渡した。全員が怯えたり、警戒したりした目をこちらに向けている。もう一度手元のプリントを見て、それを机の上に戻した。プリントはそれ以降動くことはなかった。


「あ……ちょっと時間余ってるけど、今日の講義はこれで終わります……」


 教授はそう言い残し、そそくさと講義室を後にする。普段は講義が終わればうるさくなる部屋も、しばらくシンとした空気の中に包まれた。そして部屋に残って他愛ない会話をするはずの学生らは、この時ばかりはそれを諦めて外に逃げるように出ていった。

 残ったのは玲一とバケ子のみ。もう他人の目を気にする必要はない。玲一は荷物を整理しながら会話をする。


「え、なに。わたし、もしかしてまずいことした?」


 ようやく気づいたらしい。さっきとは一変して緊迫した表情になる。ふざけている様子は一切ない。


「ああ、相当まずいことした」

「あ……じゃあ……ごめん」

「まあ、もうやっちゃったことだしな」


 玲一はリュックを持ち上げ、背負った。


「ねえ、怒ってる?」

「いや、別に」

「やっぱり怒ってるよね? わたしが余計なことしたから……」

「だから怒ってないって! たしかに二、三日くらいは何かあるかもしれない。でもこの程度だったら、すぐに記憶が曖昧になっていく。そんでいつの間にか忘れていくんだ。だからさ、気にすんなって」

「レイイチぃ……。うん……ありがと」


 玲一は、入る時とは逆の、正面の扉から講義室を出た。そこには先ほどの講義に出席していた学生が数名。皆玲一を見ていた。


「あの子だよね……」

「肝が座ってんのか鈍いのか」

「仕込みかなんかじゃないの?」


 皆口々にぼそぼそと玲一の印象を話す。皆が逃げている時に一人だけ逆流し、そして目の前までプリントがやってきたのに驚きもしなかったことに不信感を抱いているのだ。


「おい、キミ!」

「は、はい!?」


 大きな声とともに肩を叩かれ、玲一は驚きのあまり飛び跳ねた。急いで振り返る。そこにいたのは厚い眼鏡をかけた男子学生だった。


「さっきの講義で一番前に座ってたよね。僕は超常現象総合研究会――いわゆるオカルトについて調べてるんだけど、どう? さっきのアレを見て動じないキミなら――」

「あ、間に合ってます」


 玲一はその場を早足で離れた。後ろから「待ってよ」と追いかけるバケ子。


「……バケ子ォ」

「ん?」

「俺、やっぱ怒ってるわ」

「ええ〜〜〜〜!?」



 その後は常に側にバケ子を置き、授業を過ごした。たまに不服そうな顔をしていたバケ子だったが、一限のことをボソッと口に出すとたちまち大人しくなった。

 そして全ての授業が終わった帰り道。


「大学、どうだったよ?」

「んー……。部屋で一人で留守番するのも嫌だけど、あそこもちょっと、ね……。あ、プリントのこと、ごめんね?」

「いや、もういいって。ほら、帰ってきたぞ」


 そう言って玲一は鍵を開ける。


「……」


 部屋に入る直前、バケ子は立ち止まった。なにかを感じたのか、振り向いて辺りを見回す。ふと木々がざわめく。それと同時にバケ子の短い髪と余った裾が強風に流された。


「どうした?」


 玲一は小さい箒を持ちだし、玄関に入ってきた砂埃をササッと掃く。バケ子は我に返り「あ、いや」とあやふやな返事をして、彼に飛びついてきた。玲一の体を抜けて、玄関に入る。


「ちょ、なんだよお前〜」

「えへへ」

「いや、えへへじゃなくてな」


 104号室の扉に鍵がかかる。

 それから数秒が経った頃、植え込みに隠れていた二人組が姿を現した。


「あの子がそうね」

「どうやら随分楽しそうにしてるみたいだが? どうするつもりだ?」

「まずは……監視ね。こっちから余計なことはすべきじゃないわ。でももし、万が一のことがあれば――」

「あれば?」


 女はアパートに背を向けて歩き出す。長く美しい髪が風に揺れる。


「除霊する」

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