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19話:わたしの名前は


 玲一は近くのコンビニで買い物をして帰ってきた。少し一人になって冷静になった。突然のこととはいえ、取り乱しすぎた。そのせいでバケ子に余計な心配をさせてしまった。


「ただいま」


 靴を脱ぎながら、閉じたリビングのドアに向かって言う。部屋からは何も返ってこない。おかえりの一言くらいあってもいいはずだ。また機嫌を損ねてしまったと、玲一は反省した。


「バケ子……ただいまって」


 部屋に入ると、バケ子が床に倒れていた。髪が乱れている。倒れる際に落としたのか、あたりに物が散乱している。


「おい!?」


 ビニール袋を机の上に置き、玲一はすぐさましゃがみ、バケ子に呼びかけた。


「う……」

「気がついたか! どうした!?」

「レイ……。それは……」


 机の上のスマホを指差した。


「ん? これがどうしたバケ子?」

「それ……が……」


 彼女は辛く苦しそうな声を絞り出す。

 とにかくスマホを手に取る。玲一のスマホには大葉からの連絡が来ていた。受信時刻は十数分前。玲一が家を出た直後だった。


『件名:透川明楽さんの件に関して』


「これを見たのか!」


 バケ子は首を縦に振って肯定する。

 玲一は急いでメールを開く。

 冒頭の挨拶文は飛ばす。その下には、玲一が帰った後に考えたこと、気になってもう一度調べ直したことなどが書いてある。そして、ようやく本題。

 次の一文に、玲一は目を見張った。


『彼女は引っ越したと伝えましたが、それは私の記憶違いでした。正しくは行方不明です。良くない霊に巻き込まれた恐れがあります。この件に関しては私が責任を持って調べますので、最上くんは手を出さぬよう、お願いします』


(行方不明? 原因は悪霊?)


 内容は憶測が多く、すぐに納得できるものではないが、今の状況下において信じるほかなかった。そして、眼前で苦しんでいるバケ子の原因となったものがこのメールであることは明らかだった。


「そう。思い出した……わたしの本当の名前。わたしは明楽。透川……明楽」


 机や柱に手をつきながら立ち上がる。いつのまにかバケ子の足は見えるようになっていた。もはや彼女は記憶をなくした幽霊バケ子ではなく、いなくなったはずの透川明楽だった。


「わたしはあの日、家にいて……。誰かが来て……お母さんがドアを開けて……飲みこまれて……!!」


 見たことのない汗の量だ。自分の体を抱きしめ、足がガクガクと震わせている。びくっと体が震えたかと思うと、両手を広げて叫んだ。


「うっ……うわあああああああああああああああっ!!!! ああっ! ああ!!」


 明楽は顔を覆う。


「おい! どうし――」

「あああああァァァアアアアッ!!」

「がふ!?」


 玲一が駆け寄ろうとした瞬間、後ろ方向へ吹き飛ばされた。タンスに激突し、背中を強く打ちつける。


「痛った……。何が起きた!?」


 彼女が衝撃波を発したのだ。

 窓もなにも開いていないが、髪と服の裾が揺れている。そしてなにより見た目に大きな変化が起きていた。

 明楽の背中と右肩、左胸から黒い触手のようなものが出ていた。痛みを感じるのか、苦しそうに喘ぐ。目は焦点があっていない。


「悪霊化……した?」


 信じたくはない。だが、黒い触手は何度も見てきた悪霊の体を構成しているものと同じだった。悪霊独特の嫌な気配は、嫌というほど伝わってくる。


「うわっ!」


 荒ぶる触手が玲一の顔を通過したが、感覚はない。まだ生きた人間に干渉できないのだ。


(まだ悪霊になりきっていないのか……)


 といっても、いつ首を飛ばされるか分かったものではない。どうにかして彼女を正気に戻せないか。玲一は考えた。


「うう……あ。なにも……見えないよ。どこ?」


 顔の左半分が黒く染まる。思ったより悪霊化が早い。左目だったところから触手が伸びる。グロテスクな光景だが、玲一は目を背けない。


「バケ子! 大丈夫か!」


 怯え、泣き叫ぶバケ子に玲一は必死に話しかける。彼の呼びかけにも応じない。


「どうすれば……。あ、今は……明楽か!? ……アキラっ! ……トウカワさん!」


 ふと、明楽が玲一の方を向いた気がした。


「うう……どこ?」


 彼女は涙を流しながら辺りを見回す。


「届いた!?」

「おかあさん? どこ? どこなの?」


 一瞬高揚した心は再び沈む。玲一は動きを止めた。

 彼女が探しているのは、玲一ではない。おそらく彼女が見ているのは死んだ直後、幽霊になったその時の光景。


(記憶が戻ってるのか)


 目の前で親を悪霊に殺され、自分も悪霊に飲まれた。その時悪霊化する直前、偶然の記憶喪失でなにもない幽霊として残った。

 つまり今の彼女には、目の前で親を亡くした子どもの記憶が戻ってしまったということだ。


「おカあサン、ねえ、ドコなノ?」


 明楽の声にはノイズが混じってる。手を前に出し、空をかく。探している母親はいない。


「ううっ……どこヨぉオ!!」

「うおっ!」


 悲痛な叫びと共に二度目の衝撃波が来る。玲一は背をくっつけていたタンスに向かって強い圧力をかけられる。壁が軋む音がした。

 同時に実体のない触手が辺りへギュンと伸びる。触手は壁を抜け、おそらく隣や上の部屋まで届いているはずだ。近くの部屋は空き部屋なのが助かった。


「バケ子……もう……やめろォ……!」

「アア……イカナイデ……! カエシテ……!」


 聞こえていない様子だ。

 今の彼女は不安なのだ。親を奪われた恐怖の中、苦しんでいる。


(なんにもできないのかよ……!)


 明楽はだんだんと悪霊化していく。大粒の涙をぽろぽろと溢しながら、彼女は三度目の衝撃波を放った。

 玲一だけでなく、部屋も耐久が心配になってくる。ベッドもぐちゃぐちゃ、カーテンも外れている、さっき買ってきた夕食が入った袋もズタズタになって床を転がっていた。


「ウアアアアアアアア!! ミエナイ……ナニモォッ……!!」

「うっ……!」


 明楽はついに両目を閉ざされた。体のほとんどが悪霊化している。

 玲一は四度目の衝撃波を受け、バランスを崩して転んだ。何度も攻撃を受けることで、脳震盪を起こしかけていた。

 ふと、玲一の目の前に細長い紙が一枚落ちてきた。


「これは……」


 それは壁にかけていた除霊符だった。悪霊から身を守るために、優から貰ったものだ。


(これで彼女を除霊しろと?)


 玲一は明楽を見る。手はだらんと下ろされ、涙が伝う口元から発せられる言葉を聞く。


「……タス……ケテ」


(……!!)


 なにを考えているのだろうか。玲一は一瞬でもそんなことを考えた自らの愚かさを恥じた。

 そんなことできない。できるはずがない。今、明楽は苦しんでいる。これ以上の痛みを与えることなどできない。誰よりも玲一がその痛みを知っている。知っているが、これ以上このままには――


「……ん?」


 これを貰った時に交わした会話を思い出した。


『霊力をめちゃくちゃにして悪霊が消える理由は、肉体がないからよ。生きている人なら肉体も霊体もあるでしょ?』

『じゃあ俺の手は肉体から霊体になりかけてるってことか!?』


──!


 瑛士は除霊符を握り締めた。


「うっ!」


 右手を針で刺したような痛みが走る。そして次の瞬間には焼けた金属を掴んでいる感覚へと変わる。


「ぐああああああああああああ!!」


 そしてそれを両手で挟み込む。両手が辛くなったら体も加えて三点で挟む。それでも手を離しそうなら床と体に挟んで強制的に効果を受ける。

 痛みでショック死しそうだ。叫びすぎで喉も痛い。

 次第に腕が透けてくる。体も、足も、何もかもが変わっていく。


(苦しい……!)


(だけど、バケ子の方がもっと苦しい……!)


 除霊符の効力が切れ、お札が消えた時、玲一の体は半肉体半霊体へと変わっていた。


(消えてない……)

「うまく……いった」

「……ダレ」


 明楽がぽつりと呟く。暴れまわっていた触手は動きを止め、一斉に玲一の方を向く。

 声が届いた。彼女に届いたのだ。

 玲一は起き上がる。


「俺は……」

「ダレ!」

「うぐ!」


 触手がギュンと伸び、玲一の右腕と脇腹を掠めた。体を支えていた腕がはじかれ、また床に倒れる。瞬時に顎を引いたため、頬を強く打ちつけた。

 玲一はもう一度立ち上がり、よろよろと明楽の方へ歩いていく。まっすぐ歩けないし、一歩一歩の歩幅が狭い。それでも意地で彼女の前へと辿り着いた。

 そして直立する明楽をそっと抱きしめた。「あっ」と声が漏れる。


「俺は君の敵じゃない……。大丈夫だ。大丈夫だからな。君は……一人じゃないから。俺は……ここにいるから……」


 声をふり絞り、彼女に話しかける。触れた手から力を抜く。


「……」


 この人、誰……?


 おかあさん……じゃ、ない……


 でも……


 知ってる気がする……


 あたたかい……


 これは……


 たしか……


「も……が……」


 明楽も、震える手を玲一にまわし、目を閉じる。


「そうだ。俺だ。最上玲一だ」

「最上……玲一……くん。もがみくん……。れい……レイ……イチ……レイイチ……」


 何度も彼の名前を呼ぶ。

 体の震えと共に、悪霊化しかけていた部分は元に戻っていく。触手は消え、両目が見えるようになった。

 黒くなった体が完全に戻ると、彼女は力が抜けてその場に崩れ落ちた。それを玲一が支える。


「バケ子! 戻ったか!? 見えるか!? 分かるか、俺が!?」


 彼女を抱きかかえ、必死に呼びかける。そんな彼に明楽は微笑む。


「うん。あなたは……レイイチ……。わたしの……大事な人……」


 彼女は玲一の頬を撫でた。彼は思わず涙ぐむ。


「ああ。よかった」

「記憶……取り戻せた」

「お前はもうバケ子じゃないな。トウカワさんだ。ごめん、気づかなくて」

「あは。やめてよ……今更さん付けなんてさ。わたしはバケ子。……呼ぶなら明楽って呼んでよ」

「……あ、あき――」


 玲一が言いかけると、彼女の体がびくんと振動した。


「うっ……」


 ほっとしたのも束の間のこと。彼女はまた苦しみはじめた。


「えっ……おい! おい!」


 玲一が抱きしめる体は、以前よりさらに薄くなっていった。小さな手はすでにほぼ見えなくなっている。


「これって……!?」

「もう時間……ないみたいだね」


 彼女は悟ったように言う。

 部屋に満ちていた霊力は、悪霊化した明楽が暴れたことで散ってしまっていた。こうなってしまっては彼女は地縛霊として体を保つことができない。


「ま、待ってくれ! 行かないでくれ!」


 玲一は目を閉じかけた明楽に言う。


「わたし……楽しかったよ」

「おい! まだ行くな! 楽しかったって、過去形にするな! まだ楽しいことあるって! だから!」


 玲一は涙をこぼす。


「今日まで俺は、お前がいたから頑張れてたんだ。生きる目標を見出せたんだ。なんにもない、空っぽだった俺が! んぐ……」


 明楽が玲一の口を人差し指で塞いだ。


「ふふ……なんにもないことないって言ったでしょ?」


 玲一ははっと思い出し、リュックを手繰り寄せる。そしてその中からお守りを取り出した。それらを束ねている輪を彼女に見せた。


「俺、まだ持ってるんだ! あの時くれた指輪! 俺の、俺だけのお守り! 大切な、お守り……!」

「そうだ……。ふふ……レイイチったら、こういうのずっと持ってるんだもんね……。でもよかった。本当に、また会えた」


 玲一の持つ輪に明楽も触れる。彼女の目にもまた涙が潤んでいる。


「最後に会えてよかった。ありがとう」

「ありがとうじゃない! 最後じゃない!」


 玲一は彼女の言葉を否定して泣きじゃくる。


「あは。すごい顔。泣かないの。わたしのことはもういいから。レイイチはレイイチとして、生きて。わたしの分まで。ね?」


 明楽は玲一の腕の中で、小さく首を傾げた。

 それが彼女の最後の姿だった。


「アキラ……? アキラ……! アキラァァアア!!」


 玲一は泣き叫んだ。荒れ果てた部屋の中央で、一人、延々と。

次回、最終話です

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