17話:蘇るバケーション
足がつかない。
息ができない。
海水のせいで目が痛い。溢れ出る涙も海に溶けていく。
喉の変なところに水が入った。吐き出そうとしたらさらに水が入った。
落ち着けば浮くはずなのに、体はどんどん下へ下へと沈んでいく。
うっ……。
玲一は首がしまるような感覚を覚えた。そして思う。苦しいとは、死ぬとは、こういうことなのかと。
そして彼は、動きを止めた。
意識は遠のき、昔のとある日のことを思い出していた。
◆
あれ。いつのまに寝ていたんだろう。
玲一は自分が仰向けの状態で横になっていることに気づいた。だが、何も見えないし、手足を自由に動かせない。
小学一年生の夏休み。生まれて初めて見た海に心躍らせたのは覚えている。波打ち際に意味もなく立っていて、大きな波に足を取られて、気づけば呼吸ができなくなっていて。
海は危ないからな。砂浜もガラスとか、気をつけなきゃダメだからね。とにかく、大丈夫だと思っても見てるだけにしなさい。直前に言われた両親の言葉を思い出した。
(ああ、怒られちゃうな)
そんな呑気なことを考えられるのは死に近い非常事態故か。
「〜〜!」
なにか聞こえる。焦っているような、必死な、人の声。父親でも母親でもない、聞き慣れない声だ。知らない人だろうか。
「ねえ、大丈夫!?」
(心配している? 誰を?)
「生きてる? 生きてるよね!? ちょっと!」
頬にかすかに伝わる感触。ぺちぺちと叩く音。
(ああ……俺か)
「返事してー! 聞こえてますかー! もしもーし!」
(返事……しないと。うっ!?)
「がっは!? ゲホッ! ゴホッ!」
「気づいた!? やった!」
目覚めた瞬間に玲一は咳き込んだ。口から吐き出される水が頬を伝って地面にしみこんでゆく。
口の中には濃い塩の味が広がり、針を刺したような痛みが鼻を襲う。どれほどの海水を飲み込んだのか分からないが、腹が少し膨れた気がした。
「水を飲ん……うっ……」
「ちょっと! 大丈夫!? 気分悪い!?」
「うん。吐き気が……するかも」
陸に上がってなお溺れそうな玲一を起き上がらせる。
彼に声をかけたのは少女だった。真っ白なワンピースに身を包んだ姿はまるで天使のようだ。髪が短く、顔だけ見れば美少年と見紛うかもしれない。年は近いような気がする。年相応の可愛らしいふりふりのスカートはびしょびしょになってしまっている。
「もー、死んじゃったかと思ったじゃん。やめてよー。死んでるとこ見ちゃうの嫌だし」
彼女はそう言って、玲一の背中を叩いてくれている。
「ごはっ! あ、ありがとう。助かったよ。死ぬかと思った……。えっと、君は?」
「わたし、トウカワアキラ。よろしくね。あなたは?」
「俺は、最上玲一」
「へえ、変わった名前だね」
「そう……ゴホッ! ……かな?」
身の安全が確保され、玲一は今の状況を飲み込みはじめた。自己紹介した少女、トウカワアキラは首を傾げながら顔を近づけた。今更だが、目の前にいるのが女子であることと、さらにその顔が可愛いことで玲一少年はたじたじしてしまい、思わず目を背ける。
沈黙も気まずい。必死に探した話題は彼女のことだった。
「あ、あの、ごめん。服、濡れちゃって……」
「ああ、これ? 大丈夫だよ」
彼女はそう言って雑にスカートを絞る。ぼたぼたと水が滴る。見た目とは裏腹な豪快さに玲一は絶句した。まるで水に濡れるのは日常茶飯事であるかのようだった。
「トウカワさんはこの辺に住んでるの?」
「そうだよ。あっちの方!」
(あっちてどこだ)
彼女は道へと上がる階段を指差した。玲一はそちらを見るが当然壁だけしか見えない。答えになっていない答えに、彼はへえ、と適当に返事した。
玲一は立ち上がり、浜を歩いてゆく彼女の後ろをついていった。ついた砂を洗うために水道に向かっていた。潮風に揺られる彼女のスカートの裾は少し乾いてきている。
玲一は彼女と道中いろいろな話をした。家のこと、学校のこと、そして今日の天気のことすらも、話の種になった。
玲一が笑えば彼女も笑う。ほんの数分の間に、二人はすっかり打ち解けた。
そうしているうちに目的地についた。
「そういえば、もがみくんは泳げないの?」
再びこてんと首を傾げ、彼女は尋ねる。
「……っ。そ、そうだよ。泳げなきゃだめかよ?」
「ええ? だめじゃないよ。気になったの。なんで泳げないのに海に来たのかなーってね」
「見てみたかったんだ」
玲一はシャツを脱ぎ、蛇口から勢いよく出る水でゴシゴシと洗った。
「海は広いんだ。それなのになんにもないんだ。俺も一緒。なんにもないんだ。だから、海を見に来たんだ。もっと見たいと思って、海に近づいていって、気づいたら沈んでた……」
そこまで言って、先ほど溺れたことを思い出し、玲一は身震いした。海は、怖い。新たなイメージが彼の記憶に上書きされた。
「もがみくん、難しいこと言うね」
アキラは玲一の横に並ぶ。
「海は何にもないことはないよ。思い出があるよ。わたしともがみくん、二人の思い出。それでどう?」
「どうって……いいと思う」
貧弱な感想しか出なかった。
「もがみくんもさ、なんにもないことないんじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。だからそんなこと考えないで」
気づけば、距離が近くなっていた。二人は思わずばっと離れる。
「そ、そういえば聞いてなかったね。もがみくんはどこに住んでるの? 海を見たことないなら、山の方? 学校はどこ?」
彼女は、頭から水をかぶる玲一に尋ねた。
「俺は旅行でここに来たんだ」
そう答えると彼女の表情は暗くなった。地元の人間ではない、つまりこうして会うことはもうないかもしれない。
「ひとり?」
「違うよ……。俺、小学生だよ? 家族でだ。お母さんとお父さんはすぐ近くの神社に行ってる。退屈だったから、抜け出してきたんだ」
「浦美神社?」
「そう、それ」
「あっ。だからじゃない? ちゃんとお参りしないから神様が怒ったんじゃないの?」
「ええっ!? じゃあ俺、もう行かないと!」
「あ、待って!」
玲一は慌てて神社に向かおうとした。アキラは手を握ってそれを引き止める。
ポケットから小さな指輪を取り出し、玲一に手渡した。
「こ、これ。これあげるね!」
「え? 指輪?」
「これはお守り! いろんな願いを叶えてくれるんだよ。まずはね、元気づけてあげるの。もがみくんは、なんにもないことないよって! あと、もがみくんが二度と溺れないようにって!」
「……ははっ」
玲一は愛想笑いをした。
「それと……」
「ん?」
「また、会えますようにって……」
彼女は最後にそう付け加えた。玲一は愛想笑いをやめ、偽りのない笑顔を彼女に見せた。
「ありがとう。大事にするよ」
その後神社から出てきた両親と再会した。息子がいなくなったことに即座に気づき、探していたらしい。当然きつく注意され、服が濡れたことにより旅行も予定通りいかなかったのだった。




