15話:はじまり
その日はついに夏日の予報が出ていた。
カーテンも閉めた部屋で呻き声がする。
今まで実家から持ってきた調子の悪いクーラーを騙し騙し使っていたが、今日ばかりはそうはいかなさそうだ。セミの声も日に日に大きくなり、聴覚から夏を感じさせられ、暑さの追い打ちとなっていた。
暑くて目を覚ますというのがここまで苦痛になろうとは、玲一も思っていなかった。
「レイイチ、これ買い替えた方がいいって」
「いや、まだいける。風は出てる。……たまに温風も出るけど」
「それで変に汗かいて風邪ひいたらもっと良くないでしょ」
そう言ってリモコンを適当に操作するバケ子には、猛暑はさほど効いていない様子だ。
「……ダメだ。ホントに頭おかしくなる。まさかこんなに暑くなるとは……。日本の夏ってもっと段々と暑くなってくもんだろ?」
「知らないよ……」
ボーッとした頭が考えることを拒否している。それを冷まそうと、手を団扇のようにしてあおぐ。
ピンポーン。
チャイムが鳴った。だが、出る気にはなれない。今はただ涼しい風を自分のために生み出す行為だけで精一杯だった。
つまり、今すべき行為は無視。
「おっはよぉおございまぁあす!」
無視を決めた玲一が苦しむ部屋に飛び込んできたのは麗美だった。朝っぱらから異常なテンションの高さとキーの高い声に、頭がキーンとする。玲一は彼女を冷淡な目で見つつ、質問した。
「……え、なんで入って来れたんすか?」
「バケ子ちゃんが開けてくれたからよ」
バケ子は麗美の後ろに隠れていた。玲一の「なにしてんの?」という感情を表情から読み取ったのか、申し訳なさそうに言う。
「し、知ってる人だったから大丈夫かなって……」
「いやいや大丈夫じゃないだろ。この前押しかけて来た時見ただろ? 要注意人物だ要注意人物」
「ええっ!? 急にすごい失礼じゃない!?」
「あーやめてください。近所迷惑になるから叫ばないで。しかも夏の暑さにやられた頭にガンガン響くんですよね、その声」
麗美はむっとした表情を見せて、玲一の横たわるベッドへとやってきた。
「何が近所迷惑よ。隣と上は空き部屋なんでしょー? 知ってるからね。そーれーと、休みの朝っぱらからそんなだらだらしてるのは感心しないぞー」
「何目線ですかそれ。あと今、朝八時。なんでそんなに元気なんですか。大学ある日は遅刻して来るくせに。小学生ですかあんたは。ほら、帰った帰った」
東ならば押したり蹴ったりできたが、相手は女子。雑に扱えない。ベッド横のリュックから取った下じきで風を送るが、彼女は帰るどころか、彼に顔を近づけた。ぱっちりした目が彼の顔を覗き込む。玲一は息を止めた。
「まあまあ。そんなこと言わずにさあ。今日は用事があって来たんだよ?」
「なんすか用事て」
「海行こうよ」
「嫌です」
即答だった。
「こんな時に外行くよりもクーラーついた部屋にいる方が有意義に決まってます。五十嵐さんもどうです? ほら、外より涼しいでしょ?」
「まあ、確かに涼しいけどぉ……。玲一くんは浦美に来てどこか出かけたことある?」
「いや、ないですね」
「ほらあ」
「何の『ほら』?」
「とーにーかーくー。水は綺麗だし冷たいし、この時期はまだ早いから人もいないしでちょうどいいんだって! バケ子ちゃんも海行きたいよねっ!? ほら、言ってやって!」
麗美はバケ子に話をふる。玲一がどこにも行ったことがないというのだから、バケ子も出かけた経験がないだろうという予想のパスだった。慌てる彼女に、麗美はグッと親指をたてて見せる。
その予想は当たっていた。彼女は海という知識自体はあるのだが、本物はまだ見たことがない。少なからず興味を持っていた。
「えっ? えっと……レイイチ、準備して!」
形勢逆転だ。玲一を連れて行こうとする者は二人に増えた。
玲一はベッドに寝転がったまま、そっぽを向いた。
「なーんでそんなに拒否するんだよー。玄関のとこで優が待ってんだよー?」
「三枝内さんも来てるんですか」
「そうだよー。優も試験日前なのにわざわざ来てんの。それをむげにする気ー?」
「テスト前ェ!? それ大丈夫なんすか!?」
「へーきへーき。あの子はよくできる子だからねー。昨日までに完璧に終わらせてんじゃないのー?」
「とにかく待たせちゃ悪いし、俺抜きでいいじゃないですか。海なんて、俺は行きませんからね」
「そうはいかないの! これならどうだっ!」
「うっ」
彼女の声は真上から聞こえた。と同時に背中に二つ、ぽわんと柔らかい感触がした。
(えっ、なんだこれ? まさか? まさかまさか!? いやいや、五十嵐さん頭おかしいのか!? でもそれ以外考えられねえ! なにしてんだ!?)
ただでさえ鈍くなっている思考力がどんどん低下していく。
「うりうり〜。どう? ついてくるって言うまでやめないよ〜?」
「わ、わっかりました! わかりましたからそういうのやめてください」
「言ったね〜?」
麗美は悪い笑顔を浮かべて玲一の上からどく。
「五十嵐さん、なに考えてんですかっ! ……あ」
麗美の手にあったのはクッションだった。手で絞ることによって二つの玉ができている。全て玲一の勘違いだった。
「玲一くんこそなに考えてるのかな〜?」
「ああ、はいはい。俺の負けですよ」
これは夏の暑さのせいだ。
「さっさと準備してね?」
「分かってます! だからちょっと外出てください!」
「はいはーい」
部屋の温度が少し上がったところで、麗美の説得は終了した。




