10話:深夜の心霊戦線
静かな道路に風が吹く。点々と置かれた街灯には、羽虫が飛ぶ。この辺りの土地はまだ本格開発されていないだけに、未だに多くの虫の声がする。
そんなところに一体、霊が移動していた。子猫ほどの大きさの、全身がどす黒い、悪霊だ。
「除霊!」
そんな静かな通りに、女子の声が響きわたる。声を上げることもなく、悪霊は一瞬で消え去った。
髪を束ね、上下ジャージ姿の女子高生がそこに立っていた。ぷすぷすと煙が残るその場所に手を合わせる。
優は除霊活動に精を出していた。といっても、片手間で除霊できる低級の悪霊だ。この程度ならば優が苦戦することはまずない。
「ご苦労。悪いな、こんな遅くに。鞄くらいは俺が持つぞ」
ジンが姿を現し、彼女に労いの言葉をかける。彼の言う通り、日は既に沈み、頭上には月をはじめとして星が輝いている。
悪霊を感知するのは彼の仕事だ。気配があればすぐに優に伝える。この時は普段の癖で悪霊の出現を報告してしまった。
「別に構わないわ」
「でも、勉強中だっただろ? あの程度なら放っておいても全くの無害だ。お前は悪霊と呼んでるが、あれじゃ悪でもなんでもない。そう積極的に除霊する必要なんてないぜ?」
「あるに決まってるでしょ。ただでさえ浦美には悪霊が多いんだから、積極的に除霊していかないとダメ。だからこれからもよろしくね、ジンさん」
「でもそれじゃあ、優の精神がもたないだろう? 玲一くんと会った時のあのサイズは、優も苦戦していたじゃないか」
以前玲一と出会った際に現れたのは滅多にない大物だ。その悪霊は優が見つけ、除霊しようとしていたのだが、途中で逃げられてしまっていた。
「ちょっと立ちくらみしただけよ」
「危うく玲一くんたちに危害が及ぶところだったんだぞ。常に本気を出して除霊していたら、ああいう時にツケがまわってくるんだ。除霊符は人体にも影響が出るんだ。知ってるだろ?」
「はいはい。いつものお説教は聞き飽きたわ」
「だが……!」
ふと、優の携帯電話が震えだす。
ポケットから取り出し、内容を確認した優はふふっと笑う。そしてジンに、添付されてきた画像を見せた。
「『バケ子大暴れ中。こいつを大人しくさせる方法はないか』だって。ほらここ見て。多分バケ子ちゃん、ここにいるんじゃないの。色々浮いてるし。あ、そうだ。だいぶ近くまで来たし、どうせなら寄ってく?」
「迷惑だろう」
「どうせ一人暮らしなんだから大丈夫よ。最上さんもこうやって今私に助けを求めてるんだし、行ってもいいよね!」
「……じゃあ訊くな」
優はやったあと手を上げ、玲一の家へと向かう。その足取りは軽い。
「……優」
「なに?」
「そのバケ子ちゃんのことだが、どう思う?」
「かわいいと思う。早く会いたいなー」
「いや、そういうのじゃなくてだな……」
「分かってるわ」
優はでれでれとした顔を振って真面目な表情へと切り替わる。
「今まで見てきた幽霊と違うところが多いって言いたいのよね。だからこうやって最上さんに報告してもらってるんじゃない。今のところは特に変わった様子はなさそうだけど」
「このままなにも変わらなければありがたいのだがな」
「……うん」
(私は……)
ただの幽霊が悪霊になる瞬間を見たことがある。
◆
それは小学生の頃の話。
学校からの帰り道、妙に人だかりができているところを見かけた。どうやら事故が起きたようで、パトカーや救急車が赤い光を辺りに散らしていた。
そして優は、人だかりから離れた場所にとある幽霊を見た。
事故に遭った、死んだばかりの男の子の幽霊だった。
幽霊になった、つまり、死んだということをすぐに受け止められる人は多くない。嘆き、悲しみ、時に叫び、時に怒り。後にさまざまな形で消えていく。
その男の子も同じだった。
人だかりと、その中で倒れていた自分の肉体を見て、声をあげることなくわんわんと涙を流していた。
「……っ」
自分よりも年下の幽霊を見るのは初めてのことだった。
当時の優は、自分以外に霊視ができる人間が周りにいなかったため、自分のその能力を隠そうとしていた。幽霊を見かけても知らんふり。その場から逃げるように立ち去るのがセオリー。
だが、その時は違った。
子どもの幽霊を初めて見た。死んだばかりの幽霊を初めて見た。それを見ていたい、声をかけてあげたいという感情が湧いてしまった。
それは間違いだった。
「えっ……?」
男の子の背後に現れたのは小さな黒い物体。これも幽霊の一種であるということは、幼い優はまだ知らない。
(なにあれ……なんであの男の子の方に……)
近くに野次馬がいるが、それらには目もくれない。標的は彼だった。
どうして? 一人だから? 幼いから? 幽霊だから?
動悸がする。これ以上は見ない方がいいかもしれない。いつものように逃げるべきかもしれない。だが、未知の恐怖で足が動かない。逃げようにも、男の子の方に向かおうにも、それが叶わない。それでも目を背けることはできたはずだ。だがそこまで考えられない。湧き上がる興味を抑えられなかった。その場で起きていることから、目が離せなかった。
悪霊は男の子の幽霊の足元に移動し、彼を飲み込み始めた。
異変に気付き、うわあと声をあげる幽霊。だが、助けを求める声も、優以外の人間には届かない。
そして、その場に残ったのは二体の黒い人型の幽霊だった。
「うわ……!」
見てはいけないものを見てしまった。優はその場から急いで逃げた。
その黒いものが悪霊であり、そうなってしまってはもう元に戻らず人としての記憶も心も何もかもがなくなってしまうということを知ったのは、少し先のことだった。
◆
(幽霊も元は人……。だから私は……悪霊を除霊し続ける)
「おい優。聞いているか?」
「え!? なに!?」
慌てる優に、ジンはため息をつく。
「やっぱり聞いてなかったか。こっちの道で合ってたかって聞いたんだ。前と違う気がするんだが?」
「えっ? えー……と。合ってるわ」
以前に玲一とバケ子を尾行したのは駅の方向から。今回は逆方向から向かっているため、見覚えのない道になっているだけだった。
「それにしても狭い道だな。なんでこんな道を選んだんだ?」
「あー……近いから」
「嘘だな。なにも考えていなかっただけだ」
「えー……はい。ごめんなさい」
ジンの言う通り道幅は狭く、また、街灯も点々とあるだけの暗い道だった。
整備されていない街灯がふっと消え、あたりが一瞬暗くなる。
その時、何かが動いた。
「う!?」
白い和装から影が伸びる。ジンの体を何かが貫いた。
「ジンさん!?」
名前を叫びながらばっと振り向く。ジンの足は浮いていた。上を見上げると、ジンの体から黒い影が伸びていた。
「ぐ……あ……!」
神とはいえ、油断してしまっていた。ぶら下がった体はだんだんと力をなくしていく。足に力が入らず、腕はだらんと降ろされ、目もだんだんと閉じていく。
そして、ついに霊体を維持できなくなり、彼は消えた。
ジンが消えたその後ろにいたのは、彼と同じくらいの大きさの幽霊。月に照らされるシルエットは、綺麗な人型だった。しかし当然、普通の幽霊ではない。ジンに突き刺した腕が妙に長くなっているのもその証拠の一つだ。
「悪霊……!」
優はすかさず除霊符を取り出す。
「除霊!」
いつものように悪霊に向かってお札を叩きつける。
悪霊は手を伸ばし、電柱を掴んだ。そして腕を縮め、優の除霊符をひらりと躱す。
「ジンさんがいないからわからないけど、霊力が強いのは間違いなさそうね……。なかなか素早い。こうなったら私も本気よ」
優は鞄からお札をまとめて取り出した。それを見て悪霊は指差し、謎の声をあげる。
「イィ……エィ……アー……イー……オォ……」
そして手のひらを広げ、優に見せた。人間の姿と同じ、指は五本だった。
(なにか喋ってる? 珍しいわね。でも……)
彼女は悪霊に向かって走り出す。
「除霊!」
手を伸ばし、除霊符で悪霊の体を貫こうとする。が、外れる。
「くっ! やっぱり速い!」
それでも悪霊に近づき、次々に除霊符を使う。悪霊とは手が届く距離まで近づいているが、一向に命中しない。夜の闇に悪霊の黒い体が溶け込み、見えにくくなっている。
だが悪霊も優に攻撃してくる素振りを見せない。右を向けば悪霊は同じ方向に動き、裏をかいてフェイントをかけても悪霊はその裏をいく。常に優の背後に立とうとするだけだ。
後ろに来られては除霊符を当てることが困難。
(だったら……!)
優は除霊符を手に持ち、その場でくるりと回転した。全方向への攻撃に、悪霊は一度離れざるを得ない。
「きゃっ!」
ふと躓き、優はバランスを崩した。
よろめき、壁にぶつかってしまう。回転で目が回ったのか、壁にもたれかかったまま動かない。
悪霊はそれを好機と捉えたのか、ジンのように突き刺してやろうと腕を向ける。
次の瞬間、優が顔を上げた。
「残念でした!」
にっと歯を見せたしたり顔。
ふらついたのは、演技。優はわざと壁を背にしていたのだ。
(これで後ろには来られないでしょ!)
「除霊!」
優は最後の一枚を悪霊に投げつける。
ばちんと何かに当たった音。悪霊はグウッと唸る。
「やった!」
喜んだのは束の間。彼女は目の前の道具に見覚えがあった。
悪霊は優の鞄を盾にして、除霊符を防いでいた。
優は自分の両手を見る。持っていたはずの鞄がない。正に手ぶらの状態だった。
「なんッ……!」
優は気づいた。悪霊が一切攻撃をしてこなかった理由が。
奴は優が除霊符を使い切るまで待っていた。攻撃に転じるのは全ての除霊符を使い切った後にすべきだと分かっていた。そして封じるべきは除霊符の入った鞄。暗闇の中でそれを奪い取られても、ジンを封じられたことで心に余裕のなかった優は気づかなかった。
(全部……こいつの思い通りに……!?)
鞄は放り投げられ、その中身が飛び散る。
悪霊は優の顔のすぐ隣に腕を突き刺した。力強い風圧を感じ、彼女はその場に尻餅をつく。
ただの幽霊と違って、悪霊は生きた人間に干渉できる。伸縮自在の霊体は優に殺意を向けていた。
悪霊ののっぺりした顔には表情はないはずだが、微かに笑ったような気がした。
「そんな……これじゃあ……」
手元に残っていた除霊符はすでに無くなっている。腰が抜け、一歩も動くことができない。目には涙が浮かぶ。
目の前には拳を振りかざす悪霊。後ろには壁。頼みの綱のジンも戦闘不能。つまりこれが意味するのは
――死?
優は震えだす。
直面した死の可能性に、体が耐えられ無くなっていた。
そして思考はあまりの恐怖に停止していた。この状況から脱出する術など考えられない。
「たす……けて」
誰に向けた言葉でもない。ただ本能のままに、震えた唇で絞り出すように声を出す。
振り下ろされる腕。優はぐっと目を瞑る。
「三枝内さん!」
(え?)
まだ死んでいない。それどころか、自分を呼ぶ声がする。それも、聞いたことのある声。
おそるおそる目を開けると、そこには悪霊を羽交い締めにする玲一がいた。
「も、最上さん!?」
悪霊が生きた人間に干渉できるならば、その逆も然り。
玲一の手には除霊符が握られ、悪霊の身体に押し付けられている。ばりばりと痛々しい音がそこから聞こえてくる。悪霊はもちろん、玲一にもダメージが大きいはずだ。
「最上さん、手が……!」
「ああ。すげー痛い! でもここで離すわけにはいかないだろ!」
悪霊はそこから消え始める。なんとか玲一を引き剥がそうと暴れるが、玲一も必死に食らいつく。
「うおおおおおおおおおお! じ、除霊ィィィイイイ!」
除霊符を押し付ける力を一層強くする玲一。
じゅうと、物が焼ける音がする。玲一の手と悪霊の身体。二つが同時に焼けている。
「グ……ア……アアアア!!」
叫び声をあげて、悪霊は消え去った。その場には息を切らす玲一だけが残った。
彼の手は、自分の意思では動かなくなっていた。以前、知らずに除霊符を触った時よりもめちゃくちゃな状態だった。
「最上さん……」
優はその手を見て、弱々しく彼の名前を呼んだ。まだ声の調子が戻っていなかった。
「大丈夫だったか?」
玲一は優の前にしゃがみ、言った。
「あ……私……」
「危なかったな。で、悪いんだけど、手が痛いからあの治す方のお札を――」
玲一は除霊符を握ってボロボロになった手を見せようとした。
その瞬間、優は玲一に飛びついた。
勢いあまって後ろに倒れる玲一。
「わわっ!? なんだ!?」
優は安心からか、玲一に抱きついてわんわん泣き出した。
まだ少し震えが残っている彼女を見た玲一は起き上がることをやめ、横になったまま背中を優しくさすった。
「もう大丈夫だ」
玲一は地面に寝そべりながら、空を見上げた。星が輝く、雲ひとつない綺麗な空だった。




