9話:死者の未練
少し経ち、パニックになりかけていた文はようやく落ち着いた。食事が終わり、彼女は口を開いた。
「さっきはすみませんでした」
「なにがあったか、話してくれるか? さっきの様子は普通じゃないだろ」
「実は、私が死んだのって、虐待が原因なんですよね」
「うおっ、重い重い。食後に聞くには重い」
玲一は洗っている食器を落としそうになった。こうした返答ができるのも、暗い過去を文があっけらかんと話したからだった。
「学校でも虐められて、家でも虐められて、いいことなんてなかった。死んでやっと自由になれたと思ってたんです。でもやっぱりうまくはいかなくて、何回も死のうとして。バカですよね、私。もう死んでるのに」
話し方は明るいが、内容が内容なだけに空気は重く、暗い。玲一もバケ子もなにも話せなくなってしまった。それを察してか、意図せずか、彼女はふと立ち上がり、言った。
「さあ! もう暗い話は終わりましょう! 今日一日は好きにさせてもらいますよ! 次はお風呂! 一緒にお風呂入りましょ、最上さん! アパートで別れてるお風呂って珍しいじゃないですか!」
「一緒には無理だ」
一蹴する。
「じゃあ、バケ子ちゃん!」
「え。わ、わたし?」
「よろしくね!」
「待って待って!? わたしまだいいなんて言ってな――」
「問答無用ーっ!」
文は玲一の陰に隠れようとしたバケ子を引っ張り、抵抗する彼女の服を剥ぐ。もう脱衣所から出ることはできない。
「な、なんでーーっ!!」
玲一は食器を洗い終わり、扉の向こうの風呂場で騒ぐ二人の声を聞いていた。
◆
「あったかいお風呂って気持ちいいもんだねー」
水の音だけが満たしていた浴室に文の声が響く。シャワーを使うこともあまりなかったようで、ひねると温かい湯がでるシステムに感動すら覚えていた。
文の率直な気持ちなのだが、彼女の生前の家庭でのことを想像し、バケ子は簡単に返事ができないでいた。
「バケ子ちゃんは、最上さんと暮らして何日くらいなの?」
「まだ一ヶ月くらいですけど」
「えっ。そうなんだ。もうずっと前から知り合いだったみたいな雰囲気出てたよ」
「えっ。そうですか?」
バケ子は思わず笑みを浮かべる。それを文に見られたくなかったのか、背を向ける。
「バケ子ちゃんはなんで幽霊になったの? 私みたいに……悪い過去でもあった?」
「分からないんです。わたし、記憶喪失なので。なにか思い出したい。わたしはどこの誰なのか、それを知りたくてレイイチと一緒にいるんです」
「ふうん」
バケ子の顔を一瞥し、文はしばらく考えてから唐突に言った。
「あのさ、バケ子ちゃんは最上さんのこと好きなの?」
「なっ、えっ、どうして!?」
慌てたバケ子は、かつての玲一のように湯船に沈みかける。大丈夫かと文は彼女の手を取り引きあげた。
「見てたら分かるよ。べたべたする私に敵意剥き出しだったじゃない」
「う……でも、違います。好きってわけじゃ……」
文の手を握ったまま、半分顔を沈めてバケ子は壁のほうに視線を送る。
「でも大切な人ってことは変わらないでしょ? さっき、記憶を取り戻したいって言ってたじゃない? それってさ、辛くない? 思い出したら終わっちゃうじゃん。最上さんとずっとこのままでって思わない?」
「それは、そうですけど……」
「こんなふうに触れないのって寂しくない?」
握った手の指を絡め、バケ子の耳元で囁くように文は言う。
「うわっ!」
文の手を振りほどき、逃げるように移動する。そうして空いたスペースに文が入ってくる。二人ではかなり窮屈になった。
「……なんでレイイチなんです。生前面識があった……とか?」
「いやいや、全然そんなことないよ。さっき会ったばっかり。でも、ちょっと、本当に好きになってたかも」
「じゃあ、どうして」
目を合わさずに会話する二人。
バケ子の質問に、文はふふっと笑った。
「理由は単純。私を見てくれたから」
「見てくれた?」
「生きてるうちには、誰も私を見てくれなかったから。みんな見て見ぬ振りして、どこにも居場所がなくて。悔しかった。それが、最上さんは私のために全力で走ってきちゃって。ああ、私を心配してくれてるんだって思って。嬉しくて」
そして文は「最上さんには全く恋愛感情なんてなかったみたいだけど」と付け加えた。
「私ももっと……もっと……」
文の感情が背中越しに伝わってきた。文の体は震えている。
「もっと……生きてたら……何か変わったのかた……」
ほろほろと涙を流す。
「いけない、泣いちゃ……」
顔をおさえて涙を止めようとする文を、バケ子は背後から抱きしめた。
「いいですよ」
「……え?」
「今まで我慢してたんですよね。もう、泣いていいんですよ」
「……うん」
「もう強がることはないです。わたしが全部聞きますから」
「うん」
「ほんとは死にたくなかったんですよね。足、震えてましたもんね。死んでいてもやっぱり怖いものは怖いですよね」
「うん」
泣き声だけが響いていた。
二人は話した。生前のこと。やり残したこと。嬉しかったこと。悲しかったこと。幽霊になってからのこと。
どの話題についても、文は感情をさらけ出していた。
「あーあ。泣いたらすっきりしちゃった。誰かとこんなに話したのっていつぶりだろ」
文は泣いて顔が赤くなっていた。
気づけば彼女の体は透けてきている。いつのまにか透明度はバケ子を超えていた。
「文さん……?」
「もう、満足しちゃった。あったかいご飯とあったかいお風呂、そしてなんでも話せる友達。全部体験しちゃったから」
その笑顔は晴々としていた。
「私はバケ子ちゃんを応援してるよ。なにか思い出せるように。あと、最上さんとうまく行きますようにってね」
「あっ、ありがとうございます」
「じゃあね……」
ありがとう。
瞬きをしたそのうちに、文はいなくなっていた。
「行ったか」
脱衣所の方から玲一の声がした。
「れっ、レイイチ!? いつからいたの!? 覗き!?」
「違うわ! 今来たとこだ。ずいぶん長いこと入ってたもんだから、心配したぞ。それと、タオル持ってきてやったんだ。で、どうなんだ。これでよかったのか」
バケ子は一呼吸おいて、穏やかに言った。
「いいんだよ、これで。文さん、満足してたよ」
「そうか」
「だから、わたしも満足させてもらわなきゃねっ!」
バケ子は扉越しの玲一に、とびきりの笑顔を向けた。当然彼からは見えない。
「はいはい。次がつかえてるんだから、早く出ろよー」
そう言って玲一はリビングに戻る。
未練、か。
バケ子が幽霊としてこの世に残った理由は何なんだろうか。彼女の過去がどんなものかは分からない。もしかしたら文のようなものかもしれない。それでも取り戻すのがいいのだろうか。彼女はそれで幸せなんだろうか。
そして記憶が戻った時、彼女は満足して消えてしまうのだろうか。最初に会った時からそれは考えていたことだ。だが――
玲一は複雑な気持ちになった。




