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婚礼の夜

 不敬を承知で言わせてもらえば。

 子爵夫人となった主人の髪を梳かしながら、乳姉妹のアンナは思った。

 二十余年のあいだ一緒に育ってきたこのひとは、平凡な、普通より少しばかり夢見がちなだけの少女だった。

 もちろん名門侯爵家の長子として、充分な教育を受けてきた立派な淑女ではあった。だが、これといって特別な才に恵まれているわけでもない、普通の可愛らしい令嬢でしかなかった。

 容貌の美しさをとっても、近隣諸国にまで美貌が知れ渡った亡き父侯爵のような完璧さは持ちえなかった。若くてチヤホヤされるうちに素敵な旦那様を見つけるのだ、と自分で現実を見ることができる程度の、親しみやすい綺麗なお嬢様、なのだ。

 唯一、彼女の特筆すべき点を挙げるとすれば、その素直な性質だ。

 強い意思でもって侯爵位を預かると君主に申し出ただけでは、ここまで完璧に家を守れなかった。

 彼女は素直に人の言うことを受け入れた。侯爵家に忠誠を誓う家令の意見を聞いてロブフォードの統治を行い、公爵夫人である叔母の教えに忠実に世慣れた貴婦人を演じた。

 初めて王宮で開かれる夜会に出席したとき、彼女はまだ十七歳だった。公爵夫人と相談して作り上げた妙齢の美女の化粧とその振る舞いにより、誰も彼女を小娘と侮ったりしなかった。

 魑魅魍魎が跋扈する、と亡き侯爵が形容していた社交界で、彼女は人に付け入る隙を与えなかった。

 おかげで、侯爵領の平和は保たれた。亡き侯爵の弟がやって来ていたら、どうなっていたか、考えたくもない。アンナを含め、使用人のほとんどは解雇されたことだろう。ひどい悪人になるほどの器量もない、侯爵弟の享楽主義のせいで、領地は荒れ果てたに違いない。

 アンナの主たるこのひとが王宮でしたことは、少し年嵩の有能な美女に見えるよう振る舞うことだけだ。領地では、担当者の意見を素直に聞き、それを実行することを命じただけだ。

 本当にそれだけ、と彼女は言った。

 こんなに上手くいくとは思わなかったわ。

 彼女は疲れたようにそう言って笑った。

 弟が成人して侯爵位を継ぐまで、彼女はひたすら侯爵夫人を演じ続けた。普通の令嬢のように素敵な結婚を夢見ることも許されず、優雅な微笑みを作り物の美貌に貼りつけて剥がさなかった。

 侯爵領の人間はみな、今の暮らしがあるのは彼女のおかげだと知っている。みなが彼女の幸せを願っている。アンナは、ようやく叶った主人の幸せな結婚を心待ちにしていた。

 今日この日、彼女が自分の幸せを手に入れる日を、彼女を愛する人々は待ち望んでいた。

 自分を犠牲にして領民を守り続けた彼女は、今日やっと理想の旦那様と挙式して、本物の夫人になったのだ。


「お嬢……奥さま? 準備が整いましたよ?」

 先ほどから主の様子がおかしい。

 初夜を前に緊張するのは当たり前かもしれないが、それにしても静かすぎる。

「奥さま?」

「……アンナ。わたしどうしたらいい?」

 幸せいっぱいのはずの花嫁の瞳は、なぜか涙で濡れていた。

「なんで泣いてるんですか」

 アンナは慌てて手巾で主の目元を押さえた。

「ライリー様のお友達がおっしゃってたの。花嫁に任せとけ。困ったら侯爵夫人がなんとかしてくれるって」

「殿方の冗談なんか真に受けないでくださいよ。お嬢さまは旦那さまに任せておけばいいんです」

 夜用の薄い化粧が剥げてしまいそうだ。とにかく主を落ち着かせて、それから白粉を直さなくてはいけない。

「ライリー様はまだ十八歳よ。だからあんなふうに」

「充分大人ですよ。お嬢さまの理想を体現したような凛々しい花婿さまだったじゃないですか」

「でも」

「……お嬢さま? まさかお熱ですか?」

 花嫁特有の情緒不安定かと思ったら、手巾で押さえた目元が熱い。額に触れると、もう疑いようがなかった。初夜を目前にして、花嫁が発熱してしまっている。

 いつも自分よりも周りを優先するお嬢さまは、体調不良を隠して一日中微笑んでいたのだ。

「熱なんて……」

 とうとう花嫁は、初夜のために新調した純白の夜着の胸元を濡らすほど本格的に泣き出してしまった。

「どうしようアンナ。わたし、こんな顔でライリー様の前に出られない」

「何言ってるんですか。泣き止んでください。ほら、こすらないで! 目が腫れて大変なことになりますよ」

 注意はしたものの、もう手遅れなのは誰が見ても明らかだった。

 花嫁の涙は止まる気配はなかったし、その間にもどんどん頬は赤くなっていき、しゃくり上げているのか喘いでいるのか分からなくなってきた。

 常に冷静であるべき侍女の自分が慌てたのが悪かったのだ。

 翌朝、アンナは後悔に苛まれる。

 お嬢さまのために、が聞いて呆れる。私がこの手で、お嬢さまの幸せな結婚を壊してしまった。

 とにかくアンナは、未だ盛り上がりを見せる宴の会場に知られないよう、薬湯をもらってこなければ、と勝手の分からない伯爵邸で焦ってしまったのだ。

 事実を伝えただけでは、突然噂の渦中に放り込まれた世慣れない花婿が、どのように思うかなど考える余裕がなかった。

 アンナにとって主の夫となった人物は、主を幸せにするために全力を尽くすべき若者という認識しかしていなかった。有名な社交界の華が妻となるという、降って湧いた幸運に浮かれているのだろうとだけ思っていたのだ。

 花婿がたった十八歳の若者であることを失念してしまっていた。

 だから、寝室の扉を叩いた彼に、淡々と事実だけ伝えた。

「申し訳ありません。奥さまは体調が良くありませんので、今夜はおひとりにして差し上げてください」

 それだけ伝えて、夫婦の寝室から締め出した。

 そしてそのせいで、翌朝花婿は行方をくらましたのだ。

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