82 二人だけの秘密
「ルルが欲しい」
言葉の意味が分からず呆けている隙にもう一度、いえ、何度も唇が重なりました。私は身動き一つできず、息継ぎをするので精一杯でした。
いつもの素っ気ない態度とは裏腹に情熱的で、なんというか、その……二人の境界線が曖昧になって、意識も身体もふわふわして参りました。このまま食べられてしまう、と本能的に危機感を覚えながらも、何も抵抗できません。
「もっと欲しい」
アイスグレーの瞳が熱を帯びていて、何かを期待するように私を見下ろしています。ミカドラ様の色気に当てられて、完全にのぼせていました。
「え、あ、あの――」
「ダメか?」
「ダメとは、えっと」
私はなぜか泣きそうになりながら答えました。
「わ、私はもう、ミカドラ様のものですよ」
欲しいと申されましても、これ以上は……。
「心以外も全部欲しいんだ。だから今夜俺の部屋に来てくれ。俺がルルの部屋に行っても良いが」
「!」
ミカドラ様は珍しく緊張した様子で私の反応を待っていました。
しかし、こんな直接的に誘われて、冷静に受け答えできるほど私は大人ではありません。もじもじと体を縮こませ、両手で顔を覆い、なんとか絞り出した声は消えてしまいそうな情けないものでした。
「まだ、あの……早いです……」
「いつならいい?」
「そ、そういうことは、結婚してから、ではありませんか?」
「そんなに我慢できない」
拗ねたような口調に、私は恐る恐るミカドラ様を見上げました。見たことのない切実で真剣な表情……本気のようです。
「あとたった数か月じゃないですか。どうして急に、そんな……今までそんな素振りなかったのに」
「平静を装っていただけで、何度か危なかった。だが、もう限界だ。俺は健全な新成人だからな」
「ほ、本当ですか?」
思わず疑いの眼差しをミカドラ様に向けてしまいました。
もしかしたら呪いのことでまだ悩んでいて、生き急いでいるのではないかと勘繰ってしまったのです。
私の心の動きなど、ミカドラ様には筒抜けのようでした。
疑念を吹き飛ばすように鼻で笑って、私の手を取り、そっと指先に唇を寄せました。許しを請うようでもあり、甘えるようでもあり、ただただ官能的です。くすぐったさに合わせて胸の奥が心地よく痺れていきました。
羞恥でどうにかなってしまいそうですが、心の底から嬉しいと思っている自分がいます。だって、ミカドラ様に女性として求められているなんて、信じられない。夢みたいです。
ですが、流されて頷いてしまうのは良くないような気がいたします。ああ、もう頭がまともに働きません。
「わ、私はまだ、成人前です……」
「ということは、ルルも十五歳になったらいいのか? あと一か月くらいなら待つ」
それが最大限の譲歩だ、と言わんばかりです。私が固まって答えられずにいると、しばらくしてミカドラ様は小さくため息を吐きました。
「……分かった。そんなに嫌なら諦める。悪かったな」
怒っているというよりも、どこか落ち込んだような声音です。途端に私は罪悪感に苛まれました。これも計算なのでしょうか。ずるいです。
罠に嵌ったような心地になりながらも、口を開かざるを得ません。
「い、嫌なわけではありません。ただ、その、とても恥ずかしいですし、人に言えないようなことをするのは抵抗があって……」
「そうか」
「なので、その…………」
諦めてください、我慢して下さい。その言葉を言えば、きっとミカドラ様は引き下がってくださるでしょう。
ですが、私の中にも迷いが生じていました。
ミカドラ様は呪いのことがなくても怠惰で面倒くさがりで、精神的負荷のかかる言動だって避けているくらいです。そんな彼が、こんな大胆に私を誘惑してくださったのです。よほどのことだと思います。男性特有の事情には疎いので分かりませんが、ものすごく負担をかけているのかもしれません。
なんだか申し訳ないですし、ミカドラ様の望みは極力叶えて差し上げたい。万が一他のところで発散されても困りますし……。
いえ、ミカドラ様のせいにしてはいけませんね。
私だって、特別なものが欲しい。たとえば、本当に二人だけの――。
「“秘密”ですよ」
その幼稚で甘美な誘惑に抗えず、私はミカドラ様の妥協案を受け入れてしまったのです。
自分の誕生日を迎えるまで、気が気ではありませんでした。なんて大変な約束をしてしまったのでしょうか。あの時の私はどうかしていました。
しかし後には引けません。
秘密の約束をしてから、ミカドラ様がとても上機嫌なのです。
念のため調べましたが、大丈夫。法律上も宗教上も問題ありません。お互いに成人で合意しているのなら、露見しても罰せられることはないようです。
ただ、婚前の貴族である以上、外聞は悪くなります。
絶対に誰にも知られないように気をつけないといけません。特に、お父様やルヴィリス様と気まずい思いをするのは絶対に避けたいところです。
対外的な心配もありますが、一夜を共にしてミカドラ様との関係が変わってしまうかもしれないという懸念もあります。
単純に恥ずかしいですし、何か粗相をしてしまうのではないか想像しては恐怖を覚えます。
幸か不幸か忙しさがそれらの不安を緩和、いえ、塗り潰してくれました。
卒業試験の勉強をしながら、卒業パーティーや婚礼式を見据えた準備をするのは想像以上に過酷だったのです。
あっという間に二学期末の休暇が終わり、三学期が始まりました。
そして、とうとう十五歳の誕生日を迎えたのです。
当日は、ベネディード家の方々に祝福していただきました。
ルヴィリス様からは貴重な本をいただき、シロタエにいるミラディ様からは服が届き、ベネディード家で働く方々からは花束を贈られました。
「本当に、ありがとうございます。こんなにたくさん……」
「お預かりしている大切なお嬢さんの成人祝いだからね。本当はもっと盛大にやりたかったんだけど」
最初はミカドラ様の時と同じ規模のパーティーを催されそうになりましたが、それは全力で止めました。私の好物ばかりが並ぶ食事会となり、十分すぎるほど豪華ではありましたが。
ちなみに、お父様からは仕事で王都にいらした時に先にお祝いしていただきました。
『仕事のついでではないぞ。当日はその、私に祝われるよりも彼と過ごした方がお前も嬉しいだろうから』
どこか寂しそうで自虐的な態度でしたが、成人のお祝いとして靴を仕立ててくださいました。
パーティーや式典用のものではなく、普段使いの歩きやすい靴です。私が執務のお手伝いで歩き回ることを想定して、このような靴を選んでくれたようです。私が働くことをお父様も認めてくださっているようで、とても嬉しかったです。大切に手入れをして、長く履きたいと思います。
それ以外にも新しいお母様からは化粧道具が、弟からも直筆のメッセージカードが届いていました。
不思議なもので、昨年よりもずっと良い関係になっています。
「これでミカドラもルルちゃんも成人……大人の仲間入りだ。とはいえまだまだ若いんだから、いざというときは僕を頼ってね。決して無茶をしないように」
「は、はい」
ルヴィリス様からいただいたお言葉に私はどきりとしました。まるで今夜のことを窘められているように感じたのです。
夜の食事会がお開きとなり、プレゼントを部屋に運んでいただいた後は、いつも通りに過ごしました。
……嘘です。いつも以上に念入りに湯浴みをして、可愛すぎて着ていなかったナイトドレスを身に纏ったことに煩悶しつつ、そわそわと部屋の中を歩き回りました。
どうせ身につかないでしょうから、今日ばかりは勉強もお休みです。
ああ、どうしましょう。緊張します。
心臓の音がやけに大きくて、このまま壊れてしまいそうでした。
「…………」
予め決めていた通り、今日が終わる少し前に、扉が軽くノックされました。
私は息を呑み、しかし、慌ててドアを開けました。通りすがりの誰かに見られたら大変です。
寝着姿のミカドラ様が、物音一つ立てずに私の部屋に足を踏み入れ、そっと扉を閉めました。
「もう寝ていたらどうしようかと思った」
「そ、そんなことはしません。約束しましたから……でも、私も、もしかしたらいらっしゃらないかもしれないと」
「そんなわけないだろ。俺からわがままを言ったんだから」
小さく笑ってから、ミカドラ様が私の頭と頬を撫でました。視線は全身を順番に巡っていきます。
「いつもこんな可愛い格好で寝ているのか?」
「え、あ、それは……内緒です。子どもっぽいでしょうか?」
「いや、すごくいい」
「…………」
このまま見られるのが耐えがたく、私は思い切ってランプの灯りを消しました。なんだか自ら退路を断っているような気がいたしますが、もうじっとしていることもできない状態なのです。
薄闇の中で、ミカドラ様がそっと私の体を抱き寄せました。
「怖くないか?」
「少しだけ、です。その……ミカドラ様のことを信じていますから」
牽制するようなずるい言い方をしてしまいましたが、ずるいのはお互い様です。ぎゅっと背中に腕を回すと、ミカドラ様の鼓動の音が聞こえてきました。
私と同じ速さで、同じくらいの熱を持っています。
いつまでもこうしていたいという願いも虚しく、軽々と抱きかかえられて、ベッドの上にそっと降ろされました。
「ああ、俺はルルの嫌がるようなことはしない。何よりも大切にする。今夜だけじゃなくて、一生……何十年先までずっと」
「ミカドラ様……」
「ルル、十五歳の誕生日おめでとう」
お礼を言う前に、唇を塞がれて覆いかぶさられてしまいました。
ミカドラ様の言葉に嘘偽りはなく、終始優しかったです。
「俺は皆が働き出す前に戻るが、大丈夫か?」
「はい……」
心地良い微睡みの中でかろうじて頷くと、ミカドラ様がそっと髪を撫でて整えてくれた気がいたします。
翌朝、目覚めた時にはもうその姿はありませんでした。
ほんの少し寂しく感じましたが、いつの間にか着けられていたネックレスが秘密の夜が夢ではなかったことを証明してくれました。




