80 解呪
数日後のよく晴れた日。
公爵邸にある離れで、解呪の儀式が執り行われることになりました。
私はおろかルヴィリス様たちも儀式に立ち会うことを許されませんでした。アズ姫様の施す解呪の秘術は門外不出のもの。さらに言えば、魔力のない人間には少々“刺激”が強いそうです。
実際、離れの前に控えていた私の前をアズ姫様とヤクモ様が通られた時、全身に悪寒が走りました。なぜかお二人を直視することができず、自然と俯いて頭を垂れていました。彼女たちの背後に何か大きな存在がいて、不用意に目を合わせたらいけないと本能的に察知しました。
気のせいなどではなさそうです。今までこのような恐ろしい感覚に陥ったことはありません。やっぱり神秘的な力は実在するようです。
「あら、失礼しました」
彼女に声をかけられて、ようやく自分が呼吸を止めていたことに気づきました。眩暈を起こしかけた私をヤクモ様が支えてくださいました。
「ダイジョウブですか?」
「すみませんっ」
私が落ち着くのを待ってから、アズ姫様は優しく微笑まれました。今は不思議と恐ろしさはありません。それどころか、なんて神々しいのでしょう。
彼女は白と赤の独特な衣装を身に纏い、金色の冠を頭に乗せ、大陸では見かけない不思議な植物の束を持っていらっしゃいました。
「健気な子猫さん。やはりあなたもお屋敷の方でお待ちいただくべきでしたね」
ちなみに、ルヴィリス様とミラディ様はこの場には居ません。
もちろんお二人とも心配なさって見送りを希望されていましたが、その血に魔力が宿っているせいか、恐ろしくて儀式場に近づけないとおっしゃっていました。一番鈍い私に見送りの役目を託されたのです。
「儀式が始まる前に、お屋敷に戻ってくださいね。当てられてしまいますから。大丈夫、わたしに全てお任せください」
「は、はい」
アズ姫様たちが離れに入られて、ほどなくしてからミカドラ様もいらっしゃいました。全く緊張した様子のない、いつも通りのご様子です。
「ルル、なんて顔をしているんだ。心配するな」
「そんなの、無理です。ミカドラ様にもしものことがあったら……」
ミカドラ様は小さくため息を吐いて言いました。
「仕方ないな。心配するのは最後だからな」
私の肩を軽く叩かれて、行ってしまわれました。どうしてあんなに平然としていられるのか分かりません。
今離れの中にいるのはミカドラ様とアズ姫様とヤクモ様だけ……後ろ髪を引かれながらも私は言いつけ通りその場を後にしました。
数時間後、ヤクモ様がミカドラ様を背負って屋敷に戻ってこられました。
「ミカドラ! 大丈夫なのかい?」
ルヴィリス様を筆頭に駆け寄ると、ミカドラ様は眉間に皺を寄せて眠っていました。だいぶお疲れのご様子です。
アズ姫様も儀式用の装束から着替えて、戻られました。
「無事に終わりました。すっかり気力を使い果たしてしまったようですが、しばらくしたら目を覚ますでしょう」
「本当に、呪いが解けたのですか?」
ミラディ様の問いにアズ姫様は優艶の笑みを返しました。
「もちろんです」
「!」
アズ姫様は実に堂々としていらっしゃいました。こんな簡単に、と信じられない気持ちもありますが、信じたい気持ちの方が勝ってしまっています。
「ありがとうございます。ベネディード家はこの御恩を永遠に忘れません」
ルヴィリス様が最上級の礼をすると、ミラディ様もそれに倣いました。私も慌てて続きます。
「……友のために、先祖のために、命を賭して神の呪いを抱え込む高潔な精神に、わたしは感銘を受けました。解呪に成功したのは、この地の神もまたあなたたちのことを許したいと思っていたからでしょう。その御力になれて、嬉しく思います」
アズ姫様は滔々とした口調で述べました。
「せっかくご縁ができたのです。シロタエとベネディード家のさらなる発展のため、これからも手を取りあって参りましょう」
それからミカドラ様を私室のベッドに寝かせて、私が付き添うことになりました。ルヴィリス様は国王陛下に報告に行き、ミラディ様はアズ姫様とヤクモ様を労っています。
使用人たちには呪いのことは内緒です。ヒューゴさんやペイジさんなどの近しい方は、さりげなく休暇を取るように命じて遠ざけていました。私が完璧にお世話しなくては。
ミカドラ様は健やかとは言い難い寝顔です。何か嫌な夢でも見ているのでしょうか。時折うなされているような感じで、額に汗をかいています。
看病の要領で汗を拭いたり、布団をかけ直したりしていると、やがてミカドラ様が目を覚ましました。ひとまずは安心いたしました。
「ミカドラ様、ご気分はどうですか」
「…………」
ぼんやりとしたアイスグレーの瞳が私を捉えた瞬間、柔らかく細められました。その表情はどこか憑き物が落ちたようにすっきりとしていて、私は途端に胸が苦しくなりました。
「まだ心配そうな顔してる……もう大丈夫だから、泣くな」
指摘されてから、自分が泣いていることに気づきました。
伸ばされる腕に縋ってそのまま抱きしめていただきましたが、しばらく涙は止まりませんでした。
数日の間、ミカドラ様は静養していました。
なんでも「気力体力を根こそぎ持っていかれた」とのことです。脈々受け継がれてきた呪いが解けた反動ということでしたら無理もありません。
本人は学院を休めて一日中惰眠を貪れるということもあって最初は非常にご機嫌でしたが、徐々に退屈になってきたようです。
私は時間さえあればお部屋にお見舞いに通っていました。ルヴィリス様たち同様、私もすっかり過保護になっていて、ミカドラ様を甘やかすのに夢中だったのです。
戦線盤戯で対戦した後も引き留められ、ミカドラ様のお部屋で学院の課題をすることになりました。一応ミカドラ様にも欠席の埋め合わせの課題が出ていたので、自分の復習を兼ねて説明をしてから、それぞれ勉強を始めました。
ミカドラ様の隣で一緒に勉強ができるなんて、とても嬉しいです。こうしていると、生徒指導室で初めてまともにお話しした時のことを思い出しますね。
「多重展開式を三回……数術教師の陰険さがよく分かるな。面倒くさい」
少し説明して問題を一読しただけで解法が分かる辺り、やはりミカドラ様は頭脳明晰でいらっしゃいますね。とても億劫そうにペンを動かしています。
まだ体調不良ということでしたら、単純計算くらい代わって差し上げたいところですが……。
「ミカドラ様、すみません」
「なんだ」
「一つ確認したいのですが……私たちの最初の取引はどうなさいますか?」
ここ数日、ずっと考えていました。
早死にの呪いが解けたというのなら、わざわざ怠惰に生きる必要はないように思えます。元々ミカドラ様は過労死する可能性を嫌って、私に領主業の代行を持ちかけたのですから。
もしかしたら、呪いのことさえなければ身を粉にして働きたいという願望があるのかも――。
……そう思った私が浅はかでした。
ミカドラ様は露骨に顔をしかめました。
「…………」
黙って空を仰いだと思いきや、そのまま倒れ込んで私の肩口に額を付けました。抱きつかれているような格好です。
「…………働きたくない」
「っ!」
きっと、婚約者に弱々しい声でこのようなことを言われたら、普通呆れてしまうのでしょうか、私はただただときめいてしまいました。抜群に格好良いはずのミカドラ様が可愛く思えて仕方がありません。
「分かりました。当初の取引通り、ミカドラ様はこれからも自由気ままになさってください」
「いいのか?」
「もちろんです。元々やりたかった仕事ですし、ミカドラ様とベネディード家の力になれるなんて嬉しいです」
私を抱き寄せる力が強くなったのをいいことに背中に手を回すと、そのまましばらく密着していました。
「私一人では力が及ばないこともあるでしょうから、相談させてくださいね」
「それはもちろん、ルル一人に責任を押し付けたりしない。毎日労ってやる」
「はい。よろしくお願いします」
温かい体温にドキドキしつつも、私は少しだけ不安でした。
シロタエの高名な巫女姫様が手を貸してくださったのです。私もその力が実在することを肌で感じましたし、この数日のミカドラ様の不調が演技には見えませんでした。
信じたい。信じていたい。ですが……。
本当に呪いが解けたのか、疑う心がまだ消えません。




