77 森の湖で
一学期末の休暇です。
今回は公爵領の御屋敷に滞在することになりました。
婚約の儀まで済ませたのです。どのような形にせよ、一度リーシャ様に御挨拶しなければいけないと思っていました。
ミカドラ様と一緒にお目にかかることはできず、私はロザリエ様に付き添っていただいてお見舞いという形で訪問いたしました。
「初めてお目にかかります。ルル・アーベルと申します」
「……こんにちは」
ベッドに横たわったままリーシャ様はふわりと微笑まれました。大人の女性のはずなのに、少女のように可憐です。その瞳はどこか虚ろで、私のことにはまるで興味がないように感じられます。
「彼女はルヴィリスの仕事を手伝っているのですよ」
「まぁ、そうなのですね。彼に認められているなんてすごい!」
ロザリエ様がルヴィリス様の名前を出した途端、リーシャ様の声が弾み、一層雰囲気が華やぎました。大好きだという気持ちが伝わってきます。
「今日は一緒ではないの?」
「あ、はい。でも数日後にいらっしゃるそうですよ」
「そう。ああ、早く会いたい……」
リーシャ様は脇に置かれていた犬のぬいぐるみを抱きしめて、うっとりと目を閉じました。そのままどんどん呼吸が深くなっていきます。どうやら眠たいようです。
ロザリエ様が私を見て、首を横に振りました。こうなってしまったらもう会話を続けるのは難しいということでしょう。礼をして、退室いたしました。
「しっかりと挨拶をさせてあげられず、申し訳なく思っています」
「いえ、ロザリエ様が気にされることではありません」
本当は「ミカドラ様の婚約者です」と堂々と名乗りたかったのですが、リーシャ様の心を乱すような真似はできません。
幸せそうなお顔を拝見したら、そっとしておくのが一番のように思えてしまいました。
せっかく公爵領の御屋敷に滞在しているということもあり、前々から行ってみたかった場所に連れて行っていただくことになりました。
敷地内の安全な場所ということで、ミカドラ様と二人きりです。
「足元に気をつけろよ」
「はい。……わぁ、すごく綺麗ですね」
屋敷の裏手にある森の中にその湖はありました。以前、ミカドラ様が描いてくださった風景画と同じ景色です。
森の緑を映す水面と日差しを反射して光る水面が波打って、とてもキラキラしています。
水は透き通っていて、風は穏やかで心地よく、瑞々しい香りが漂っていてとても気持ちの良い場所ですね。それは絵画では分かりませんでした。
「え」
私は硬直しました。おもむろにミカドラ様が服を脱ぎ始めたからです。
「あの、何をなさっているのですか?」
「前に言わなかったか? ここで泳ぐのが好きなんだ。ルルは入らないか?」
「は、入れません。そんな急に……」
「じゃあ少し木陰で待っていてくれ」
私が慌てて顔を背けている間に、上の衣服だけ脱いでミカドラ様が湖に入っていかれました。
相変わらず自由です。少し羨ましい……。
ミカドラ様との水遊びに憧れがないわけではありませんが、さすがに嫁入り前に際どい恰好になるわけにはいきません。
「…………」
遠目にミカドラ様が気持ちよさそうに水と戯れているのを見て、思わずため息を吐いてしまいました。この光景こそ、絵画にして残しておくべきではないでしょうか。とても美しいです。私に絵の心得があればと悔やんでしまいました。
普段寝てばかりなのに、程よく引き締まっていて男の方らしい体つきです。背の高さと手足の長さも相まってとても同い年の異性には見えません。
目の保養になりますが、目の毒にもなります。
私は大人しく木陰に入って、持ってきた本を開きました。元々、森の中で読書をするという話でしたので。
最近では好んで読む恋愛小説の傾向が変わっていました。
以前はヒロインが受け身で、積極的なヒーローに愛されて幸せになるお話を安心して読んでいたのですが、最近では活発的なヒロインの物語を選んでいます。
ヒーローの抱えた問題を解決するために奔走する格好良いヒロインに憧れてしまいます。分かりやすいですね。
先日アルテダイン殿下とお会いした時に思い知りました。
失礼を承知で申し上げれば、一国の王太子にすら、ミカドラ様のためにできることは少ないのです。
私では本当に、執務を代行して負担を減らして差し上げることしかできない……。
「はぁ……」
「そんなに憂鬱な展開の話なのか?」
「きゃっ!」
気づけば、ミカドラ様が湖から上がっていらっしゃるではないですか。
水を滴らせて、上半身裸の姿で……あまりにも心臓に悪いです。
ミカドラ様は私の反応が面白かったらしく、にやりと笑いました。
「愛しの婚約者に、そんなに怯えられると傷つくな」
「は、早く服を着てください」
「着替えはそこだ」
何やら荷物を持ってきていらっしゃるとは思っていましたが、着替えでしたか。ミカドラ様は替えの服を手に岩陰に向かうと、さっと着替えを済ませて戻ってきました。
「ミカドラ様、髪をもっとしっかり拭かないと風邪を引いてしまいます」
「面倒くさい……そのうち乾くだろ」
「ダメです」
僭越ながら私はタオルでミカドラ様の御髪を包み込みました。痛くないように慎重に叩いて水分を吸い取ります。
……以前なら、このように馴れ馴れしく触れるようなことはできませんでした。私もだいぶ図々しくなりましたね。
心の距離が近づいたという証拠ではありますが……鬱陶しく思われていないでしょうか。されるがままのところを見ると問題なさそうです。
「それで、どんな本を読んでいたんだ? 浮かない顔をしていたが」
「あ。いえ、少し考え事をしていまして……」
本を開いて膝にのせていただけで、内容は全く頭に入っていませんでした。ミカドラ様は全てを察したのか、困ったように息を吐きました。
「何度も言っているが、あまり気に病むなよ。お前の方が倒れてしまう」
「……はい」
俯いたまま答えると、ミカドラ様が笑った気配がしました。
「本当にルルは俺のことが好きだな」
「!」
意地悪です。そんな恥ずかしいことを面と向かって指摘されたら、顔が熱くなって仕方がありません。そうして照れる私を見てまたミカドラ様がおかしそうに笑うのです。
「そうですけど……からかわないでください」
私が拗ねてタオルから手を離すと、すかさずミカドラ様が手を伸ばしました。
「俺も同じくらい大切に想ってる」
引き寄せられ、驚いて身を縮こませるとミカドラ様の手が優しく頬に触れました。もう目を開けていられません。
一瞬の唇同士が触れる感触に、私は呆けたまま目を開きました。心臓どころか世界の時間自体が止まってしまったかと思いました。
「だいぶ熱いな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……いえ、大丈夫じゃないです。頭が沸騰しそうです!」
私が目を回しかけているというのに、ミカドラ様はご機嫌な様子でタオルを湖に浸しに行って、私の頬を冷やしてくださいました。
危うく熱中症になるところでした。
「あの、ふ、不意打ちは」
「わざわざ事前に許可を取れと?」
「う、それはそれで……」
「そんなに嫌だったのか?」
ミカドラ様の面白くなさそうな表情に、私は慌てて首を横に振りました。
嫌なわけがありません。幸せな気持ちでいっぱいです。
「ルルが俺のことを考える度に、落ち込むのは気に入らないからな。しばらくは今のことで頭をいっぱいにしていろ」
なんて荒療治なのでしょう。
気持ちは嬉しいのですが……嬉しいので何も文句が言えません!
しばらくの間、私は初めての口づけのことを思い出して、まんまと身悶えする羽目になりました。




