72 婚約の宣誓
今までとは勝手が違う三年生の授業にも慣れてきた頃、ついにその日がやってきました。
神殿で婚約の宣誓を行う日です。
ミカドラ様と私の関係が公になったため、こそこそする必要もなくなり、直近で最も良い日取りに神殿を貸し切り、さらに神殿長様に立会人になっていただけることになりました。
公爵家の嫡子の婚姻に関わることですから、あらゆる事柄が最上級なのでしょう。
私も、王都に来てくださったお父様も、神殿の中の独特な空気に当てられています。挙動がぎこちないのですが、ベネディード家に恥をかかせまいと必死に平静を保っていました。
大丈夫、神殿長から婚姻に関する神話の有難いお話を伺って、神様の像の前で祈りを捧げ、最後に宣誓文に署名をするだけです。それらの作法も難しいものではありません。
ただ、これで正式にミカドラ様の婚約者になるのだと思うと、どうしても心がふわふわしてしまいます。
あの雷鳴の日以来、私とミカドラ様の距離がかなり近くなりました。
どちらともなく手を繋いだり、ごく自然に隣の席に座ったり、全く人目がない時は――。
なんというか、その、ようやくミカドラ様の好意を実感できました。私はとても大切にされています。結婚して夫婦になっても、仲良くしていただけそうです。
ただ、幸せすぎて恐怖を覚えることがあります。正式な婚約者になれば、少しは心が落ち着くでしょうか。
「顔が硬いな」
ミカドラ様が呆れたように笑っています。
さすがですね。微塵も緊張していないようです。その精神力を見習いたいものです。
「これより、神の御前にてミカドラ・ベネディードとルル・アーベルの婚姻の誓いを――」
神殿長と向かい合う形で、私とミカドラ様が並んで立ち、その後ろにお父様とルヴィリス様が控えています。
ゼクロ神教の一節を神殿長が諳んじ始めようとした途端、入り口の扉が開きました。
神官の方が慌てた様子で神殿長に駆け寄ります。な、何事でしょう?
「ああ、すまない。気にせず続けてくれ」
そのすぐ後、扉から二人の人物が入ってきました。
……気にせずにはいられない相手です。私は完全に虚を衝かれてその場に凍りつきました。
「陛下、来てくださったのですか。殿下まで」
我がネルシュタイン王国の国王陛下と、王太子のアルテダイン殿下です。ルヴィリス様も知らなかったようで驚いていますが、日頃から親しく接しているせいかそれほど動揺していません。
私のお父様は……説明不要ですね。顔から血の気が引いています。
「邪魔をするつもりはなかったのだ。儀式を見守って、一言祝福を告げたいと思ったのだが……」
「私一人でこっそり行こうとしていたのに、父上に見つかってしまった。すまない、ミカドラ」
儀式の出鼻をくじいたことで、王族の方々が申し訳なさそうにしています。
「公務はちゃんと調整してきたんでしょうね?」
「そんなに暇なのか?」
そして、ルヴィリス様とミカドラ様が呆れたような態度で接しています。これではどちらが王族か分かりません。
私はと言えば、頭の中で最上級の礼儀作法を思い出そうと必死でした。思い出したところで、体が思うように動いてはくれなさそうですが。
「話はまた後に。神をお待たせするわけにはいかない」
思わぬ事態に未だに混乱していますが、確かに神様の前で集中力を欠くのは失礼極まりないことです。陛下の一言で儀式が再開されることになりました。
おっかなびっくりではありましたが、諸々の手順を無事にこなし、最後に宣誓文が記された紙が目の前に置かれました。
先にミカドラ様がペンを取り、なんの躊躇いもなく、しかしいつもよりもずっと丁寧に自分の名前を書き記しました。
次は私の番です。
本当に良いのか。
ここに来て、そんな思いが胸に広がりました。
不安がないと言えば嘘になります。これからどれだけ頑張っても、公爵家にふさわしい人間になれるとは限りません。
私のせいでミカドラ様とベネディード家の皆様にご迷惑をおかけしたら、どうやって責任を取ればいいのでしょう。
ですが、そんな不安を打ち消すように、胸の内から溢れてくる想いがありました。
ミカドラ様の隣に立つ資格を、他の誰にも譲りたくない。たとえどんな困難に見舞われても、私は彼と一緒に生きていきたいです。
「…………」
気づけば、ミカドラ様と私の名前が並んでいました。
書き終わってみればあっという間です。
隣を見上げれば、ミカドラ様が満足げに頷きを返してくださいました。
「確かに見届けました。若き二人の未来に多くの光があらんことを」
神殿長の言葉とともに儀式が終わりました。
「婚約おめでとう」
お父様やルヴィリス様はもちろん、国王陛下とアルテダイン殿下からも祝福の言葉をいただきました。
別室に移動し、しばし歓談することになりました。私は時折震えながら、何とか国王陛下にご挨拶しました。お父様も同様です。
とても温かく対応していただけました。家格差のある私たちの婚姻を反対している素振りは全くなく、心底から祝福していただいているようです。
「ベネディード家の子は我が子も同然。個人的には、この国の誰よりも幸せになってもらわねばと思っている」
親友であるルヴィリス様の息子であり、アルテダイン殿下の親友でもあるミカドラ様のことを、陛下もまた自分の子どものように大切に想っているのですね。
それにしても大げさな気がいたします。ルヴィリス様とミカドラ様も苦笑いを浮かべていました。
「して、正式な婚姻はいつだ?」
「未定ですが、俺は早い方が良いと思っています」
「そうか、そうだな……」
その時、一瞬だけ国王陛下と殿下の表情が曇られたように感じました。
それから「結婚式には必ず参列する」という言葉を残して、お二人は城に帰って行かれました。
ベネディード家の一員となったら、今後は王族の方々とも密接に関係していくことになるのですね……。気を引き締めなければいけませんね。
その日の夜、私は不思議な夢を見ました。
昔々、争いの止まない国の片隅に、三人の若者がおりました。
金髪の青年と銀髪の少年少女−−双子の兄妹です。三人はどうにかして争いを鎮めて平和を得たいと思い、悪辣で無能な国主を倒すため、命を賭して戦うことを誓いました。
金髪の青年は力強い言葉で人々を説いて回り、その人柄で多くの協力者を得ました。
銀髪の少年は魔力を用いてあらゆる事柄を見通し、障害を排除していきました。
銀髪の少女もまた、魔力を用いて傷ついた人々を癒し、大地の傷をも癒していきました。
金髪の青年をリーダーとするその一団はやがて一大勢力となり、国主を脅かすほどになりました。その頃には民衆は青年たちを支持し、革命の成功は確実となっていたのです。
しかし悲劇が起こりました。
追いつめられた国主の一族は都を燃やし、多くの民を道連れにして死んだのです。
後には荒れ果てて呪われた土地が残りました。国主と都の民の無念がこもった呪いは徐々に広がり、国全体を飲み込もうとしていました。
責任を感じた金髪の青年は深く嘆き悲しみ、皆を率いる力を失くしてしまいました。
立ち上がったのは銀髪の少女です。過酷な戦いの中、金髪の青年と銀髪の少女の間には愛が芽生えていました。
少女は愛する人の心とこの国を救うために、自らを犠牲にすることを決めたのです。
青年は、少女が何をしようとしているのか薄々察していながらも、それを止めませんでした。
少女は自らの心臓に短剣を刺し、神に祈りました。呪いを浄化し、再び恵みに満ちた大地を取り戻したい、と。
天上の神は少女を憐れみ、その純粋な願いを叶えました。
それと同時に、少女を見捨てた金髪の青年に罰を与えました。その命を以て、少女の献身に応えよ、と。
「お待ちください」
怒る神に異を唱えたのは、少女の兄である銀髪の少年でした。
少年は罰の肩代わりを望みました。妹が金髪の青年の死を望んでいないことを理解し、混乱する国を治められるのは青年だけだと信じていたからです。
神は、その尊き友情に免じて青年と少年に試練を科しました。
それは――。




