70 別れ
ミカドラ様と出会ってから、私の人生は大きく変わりました。
閉ざされかけていた未来が広く開け、たくさんのことを知る機会を得て、これ以上ないほどの幸せを感じています。
ミカドラ様と両想いだなんて……夢のようです。
未だに信じられなくて、弱気なことを考えてしまいます。何か別の目的があって、あのようなことをおっしゃったのでは……。
「もう隠す必要もなくなったんだから、これからはこの家から学院に通えばいいだろ。寮の荷物は引きあげてきたらどうだ?」
「そんな、そこまでお世話になるわけにはいきません」
「気にするな。今している仕事の手伝いだけでも、滞在費分くらいの働きは十分にしている」
「……まだ婚約の宣誓も行っていないのに、同じ屋敷で生活するのはあまり外聞がよろしくないのでは?」
「かたくなに拒否しようとするな。俺は周りの視線なんてどうでもいい。それより、ルルと一緒にいる時間が増えた方が嬉しい」
私の心配とは裏腹に、舞い上がってしまうような言葉をミカドラ様は口にします。
あまり情熱的なタイプではなく、どちらかと言えば捻くれていらっしゃったのに、どういう心境の変化なのでしょう。
「ルルも、大好きな俺と一緒にいたいんじゃないのか?」
「!」
「お前の頬はすぐ赤くなるな。そういうところが可愛いんだ」
こうやってよくからかわれています。意地悪な笑顔を浮かべていても格好良いので、ますます私の顔は熱くなってしまいました。
近くに控えていたヒューゴさんがすっかり呆れています。
「若様ったら、ルル様と両想いになって猛烈に浮かれていますね。あんなに自分から告白するのを嫌がっていたくせに」
「ふん、一度口に出してしまえば、どうということはないな。こんなにルルの反応が楽しめるなら、もっと早く言えば良かった」
「……ルル様、やられっぱなしでいいんですか? 頑張って若様にも恥ずかしい思いをさせましょうよ」
無茶を言われました。私に勝ち目はありません。
大変光栄なことに本当に両想いだとしても、想いの比重は私の方がずっと大きいでしょう。これからもどんどんミカドラ様に惹かれてドキドキさせられるのだと思うと、一体どうなってしまうのか今から恐ろしいです。
……結局、ミカドラ様とベネディード家の厚意によって、私は三年生から公爵邸から通学させてもらうことになりました。
寮に居続けるのは気まずいと思っていましたし、ミカドラ様と一緒にいる時間が増えるのは何にも増して喜ばしいことです。
休暇は瞬く間に終わり、三年生に進級しました。
もはや驚きもしませんが、またミカドラ様と同じクラスでした。
ヒューゴさん、マギノアさん、アーチェさん、キサラさんも一緒です。その上クラスの男女のほとんどが既に婚約者がいる方ばかり。ミカドラ様に熱い視線を送っていた女子生徒の姿は見当たりませんでした。
学院側の忖度を凄まじく感じますね。
「教室の中では平和に過ごせそうだな。それ以外の場所では気をつけろよ。そんなに馬鹿ばかりではないとは思うが」
「……はい」
実際、廊下を歩いていると、かつてないほど視線を感じます。ひそひそ噂されるくらいなら何とか耐えられますが、ジュリエッタ様にじっと睨まれた時などは寿命が縮みました。
それ以上に今まで話したことのない同級生から、親しげに声をかけられることが増えました。アーチェさん曰く、「公爵家との縁が欲しくて、ルルさんに取り入ろうとしているのね。あからさますぎて逆に清々しいわ」とのことです。口先だけでも私とミカドラ様の婚約を祝福して下さるのはいいですが、複雑な気分です。
親に命じられて仕方なく、という方もいるのでしょう。私に媚びを売ることが嫌で、顔が引きつっている方もいました。
「適当にあしらっておけ」
ミカドラ様はそう言いますが、無下にはできません。
確かに将来的には公爵家の一員となるわけですが、今の私は田舎領主の娘。公爵家の権威を盾に偉そうにしていたら、必ず後で痛い目に遭うと思います。
「あまりルルを困らせるな。休日は俺と過ごすんだ。遠慮しろ」
大量のお茶会の誘いに目を回していた私を見かねたのか、ミカドラ様がそう宣言して助けてくださいました。
皆さん、大人しく引き下がってくださいましたが、羨望と嫉妬の視線が突き刺さって痛かったです……。
身の危険を感じて友人たちができるだけ私を一人にしないように気遣ってくださいました。ただ、いつまでも皆様に頼ってばかりというわけにはいかなさそうです。
三年生になると、選択制の実習の授業が増えるのです。
進路に関わる重要な選択ですので、こればかりはそれぞれ別の授業を受けることになります。授業がない時間も比較的多くなり、図書室や自習室でレポートを書く時間が増えそうでした。
一人の時に絡まれないように気をつけなければなりません。
正直に申し上げて憂鬱ですが、弱音は吐けません。
ヘレナさんの思惑通りになってしまうのは、悔しいですから。
唐突にその日がやってきました。
ミラディ様がヤクモ様とともに、シロタエ皇国に旅立つ日が来たのです。当初の予定よりも数か月早いです。
出立のために王都に戻ってきたミラディ様は、艶やかに笑いました。
「シロタエにどうしてもお会いしたい方がいて、無理を言ってヤクモに約束を取り付けてもらったの。相手の気が変わったら嫌だから、早めに会いに行くことにしたわ」
ミラディ様の口ぶりからして、とても身分の高い方のようです。これもまた、ミカドラ様の秘密に関係があるのでしょうか……。
ルヴィリス様は目に見えて落ち込んでおり、ミカドラ様も分かりやすく不機嫌でした。
私は口を挟めず、ただただ寂しく思いました。
「いつでも会いに来られるわ。だから、そんな顔しないで」
「……はい」
「出発前に友人を招いてパーティーをするの。ルルには、わたくしの妹として出席してもらうから」
「え」
……というわけで急遽公爵邸でミラディ様の送別パーティーが催されました。
招待客はミラディ様の学院時代の同級生が多いようです。どなたも急な別れを惜しんでいます。
「お姉様! 手紙をたくさん書きますから、絶対にお返事を下さいね……っ!」
とある令嬢が涙ながらにミラディ様に縋りついています。
昨年度に卒業された学院の先輩です。ミラディ様を実の姉のように、いえ、実の姉以上に慕っているようです。
「分かったから離れなさい。……ハンナ、わたくしの代わりに、ルルのことをよろしく頼むわね。みんなも、いいかしら?」
「もちろんです! ミラディお姉様の妹は、私たちがお守りしますわ!」
ミラディ様のおかげで多くの貴族令嬢と顔を繋ぐことができました。有難い話です。
とはいえ、矢継ぎ早に話しかけられ、緊張しながら受け答えするだけで精一杯でしたが。
「ルルさん、少しよろしい?」
「あ……はい!」
パーティーにはジュリエッタ様も呼ばれていました。
おそらくミラディ様と直接の面識はないはずですが、子爵家のご令嬢ということでお声がかかったのでしょうか。
ついにこの時が来た、と私はジュリエッタ様と連れ立って庭園の木陰に入りました。
「今日は兄の名代で来ましたの。ミラディ様の結婚に目も当てられないほど落ち込んでいて……告白する勇気がなくて良き友人として接してきたくせに、いざ失恋するとああも無様を晒すなんて、みっともないことこの上ないですね」
少々やさぐれた様子でジュリエッタ様は言いました。普段は自信満々で、可愛らしく振舞っているのに、なんだか雰囲気が違います。
私が困って何も言えずにいると、ジュリエッタ様はくすりと笑いました。
「わたしは兄とは違いますから。ミカドラ様のこと、もう引きずっていません。だから、いつまでもびくびくするのはやめて下さる?」
「え……あの、私の態度で不快な思いをさせていたのでしたら、申し訳ありません」
「別に。どちらかと言えば、その低姿勢が馬鹿にされているようで気に入らないですけど、苛立つほどではありませんね」
本当でしょうか。言葉の端々から刺々しいものを感じるのですが……。
「ここしばらく、学院でルルさんを見ていて納得しましたの。どうして私がミカドラ様に選ばれなかったのか……」
ジュリエッタ様は大きくため息を吐いてから、木々の緑をぼんやりと見上げて言いました。
「ミカドラ様は、ルルさんのような地味なお顔がお好きなのでしょう」
「…………え!?」
辿り着いた結論が予想外で思わず素っ頓狂な声を上げてしまいました。しかしジュリエッタ様は自己陶酔に陥ったように滔々と述べ続け、私のことなど眼中にないようでした。
「大変珍しい好みだと思いますが、そういう殿方も一定数おりますわ。咲き誇る薔薇よりも、野に咲く名もなき花を好む方が。であれば、ルルさんと正反対の私に興味を持っていただけなかったのも仕方のないこと……とても残念ですが、仕方のないことなのです!」
先ほどとは別の意味で言葉を失くしてしまいました。
しかし一方で、尊敬の念も覚えました。ジュリエッタ様のように自己に絶対の自信を持つことができれば、きっと今抱えている不安や緊張など取るに足らないものになるでしょう。
「ルルさんとは気が合うこともないでしょうし、公爵家の一員になるからと言って特に親しくするつもりはありませんけれど、私があなたを虐めているなどと変な噂を流されても困りますの。ヘレナさんみたいなことにはなりたくありませんし。だから、私の前で委縮しないでくださる?」
「…………」
自信を持て、とミカドラ様に言われました。
私は俯きそうになるのを堪え、背筋を伸ばしました。
地味でもいいです。ミカドラ様が好きだとおっしゃってくださったのですから、それに恥じぬ振舞いをしなければ。
「はい。ジュリエッタ様の率直なお言葉に、目が覚める想いがいたしました。お心遣い、ありがとうございます」
それ以来、ジュリエッタ様とは学院ですれ違うと挨拶を交わす程度の関係になりました。ほどよい距離感です。
徐々に周囲も落ち着いていき、平和な学院生活が続いています。
そして、パーティーからほどなくして、ミラディ様はヤクモ様とシロタエ皇国に渡られました。式の時には呼んでいただけるそうですが、しばらくお会いすることはできません。
別れの日、ミラディ様は私に言いました。
「ルル。わたくしの可愛い弟をよろしくね。どうかあの子を最後まで信じてあげて」
その潤んだ瞳に魅入られて、私は堪えていた涙をとめどなく流しました。




