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怠惰な銀狼と秘密の取引  作者: 緑名紺


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69/85

69 確信

 

「…………」

「…………」


 帰りの馬車、ミカドラ様は一言も言葉を発しませんでした。

 舞台が始まる前とは打って変わって、今は不機嫌極まりないオーラを纏っていらっしゃいます。視線を合わせても下さいません。

 何か気に障ることをしてしまったのでしょうか……分かりません。


 最初はミカドラ様に密着していたためにそわそわしていましたが、舞台が始まってからは、目の前で繰り広げられるお芝居に夢中になってしまい、いつから機嫌を損ねていたのか検討もつかないのです。


 ヒロインに感情移入して泣いてしまったのが良くなかったのでしょうか。いつもだったらからかうか呆れるか、何かしら声をかけて下さるのに「帰るぞ」の一言だけでした。

 終幕後には観客席のいたるところから泣き声が聞こえてきました。とても感動的なシナリオで、私の反応が特別おかしかったわけではないと思うのですが……。


 もしかして、物語自体がお気に召さなかったのでしょうか?


 王道でベタなラブストーリーでした。

 ヒロインは幼なじみの優しい青年に密かに恋をしており、青年もヒロインのことを大切に想っています。

 ある日、ヒロインは勇気を出して青年に告白しようと呼び出しましたが、いつも優しい青年がヒロインに酷い言葉を投げつけて絶縁しようとします。

 それはなぜか。

 実は青年は不治の病を患い、余命一年と宣告されてしまったのです。いずれ死ぬ自分のそばにいればヒロインが辛い想いをすると考え、嫌われて身を引こうとしたのでした。

 ヒロインはその事実と青年の葛藤を知り、誰よりもそばで支えたいと願うようになります。

 二人はぶつかり合い、すれ違いながらも、最終的には想いを通わせ、残された日々を幸せに暮らしたのでした――。


 幼い日の二人の約束が後の伏線となっていたり、心情を独白するセリフ回しが印象的だったり、さらにヒロインに片想いしている貴公子の役者さんが素敵で、見どころ満載でした。女性に人気の舞台というのも頷ける内容です。


 ただ、そうですね。男性にはあまり面白くなかったのかもしれません……。

 選択を誤ってしまったようです。


 不機嫌なミカドラ様と落ち込む私に構わず馬車は進み、公爵邸に到着しました。


「……ルル」

「は、はい!」

「手を」


 馬車から降りる時、ミカドラ様が手を差し出して下さって、泣いてしまいそうになりました。


「あ、あの、ごめんなさい。せっかくお時間を割いて下さったのに、不快な思いをさせてしまって……」

「それはルルが謝ることじゃない」


 ミカドラ様はバツの悪そうな顔をして、出迎えの使用人たちを下がらせました。


「少し付き合え。庭園に行く」


 手を繋いだまま、夜の庭に向かいました。


 青白い月光がミカドラ様の銀色の髪に反射して、とても神秘的です。

 昼間は色鮮やかで柔らかな花も、今は冷たい彫刻のようです。もう二年近く公爵邸に通っているのに、今この瞬間、見知らぬ場所に迷い込んでしまったかのように思えてなりません。


 庭園のベンチに腰掛けると、ミカドラ様は小さくため息を吐きました。


「俺は、あの物語は好きじゃない」

「はい……そのようですね」


 申し訳ありません、と頭を下げる前にミカドラ様は私に問いました。


「ルルはあの結末で満足なのか?」


 いつになく真剣な瞳に魅入られかけ、私は咄嗟に俯きました。

 そして考えます。


 ヒロインと青年はお互いの想いを素直に伝え合い、最後は幸せな時間を過ごしました。病気のことを何も知らないまま死に別れるよりははるかに後悔が少ないですし、青年と愛し合うというヒロインの目的は果たせましたが、確かに最良とは言い難いです。


 舞台では青年亡き後のことは触れられませんでした。

 遺されたヒロインは何を思うでしょう。

 寂しくて悲しくて、でも、一緒にいられた時間が尊くて……きっと彼のことが片時も頭から離れない。もう会えないのに思い出を振り返ってばかりで、明日のことを考えられなくなって、いつか心が絶望に染まってしまうのではないでしょうか。

 ああ、想像するだけで胸が張り裂けそうになります。


「やはり病気が治って、二人がいつまでも末永く幸せに暮らせる方が嬉しいです」

「ああ。ご都合主義だが、その結末が一番いい。別にハッピーエンドに固執するわけじゃないが、あの終わり方は嫌いだ」


 ミカドラ様はそれから舞台への不満を口にしました。


 ヒロインを本気で遠ざけたいのなら、もっと賢い方法があった。青年は女々しくて未練たらしい男だ。

 結局根本的な問題は解決していないのに、良い話風に締めくくるのはどうかと思う。

 終始、恋愛事ばかりに囚われていて、家族や仕事のことには一切言及がないのは現実感がない。


 ……手厳しい感想です。


「特に、あの横恋慕していた貴公子が気に入らなかった。二人の愛に感銘を受けて身を引いたような素振りを見せていたが、後で絶対に恋人を亡くしたヒロインをまた口説くだろう。胸糞悪い」


 それは確かに私も気になりました。

 遺されたヒロインを、最終的に貴公子が慰めるのだろうな、と。

 そこに一縷の救いを見出す者もいれば、無粋だと拒絶する者もいます。ミカドラ様は後者のようです。


「だが、早死にしておいて別の男と恋愛をするなとは言えないな」


 ぽつりと呟かれた言葉には、奇妙なほどに実感がこもっていました。まるで舞台の青年と自分を重ね合わせているかのよう……。

 その時、強烈な不安に襲われました。


「み、ミカドラ様は大丈夫ですよね」

「何がだ?」


 ずっと気になっていて、話して下さるのを待っているミカドラ様の秘密。

 ミカドラ様が怠惰な理由、ルヴィリス様がやたらとミカドラ様に甘い理由、そして、結婚相手に執務の代行を求める理由。

 その全てが噛み合った気がして、血の気がさっと引きました。

 もしかして――。


「病気を患ったりはしていないですよね!?」


 腕に縋りながら問いかけると、ミカドラ様は私の勢いに驚いた後、噴き出すように笑いました。


「俺は健康そのものだ」

「ほ、本当ですか?」

「ああ。こんなにすくすくと成長しているだろう」


 嘘を吐いているようには見えず、私はほっと胸を撫で下ろしました。


「良かったです……」

「ルルは俺が早死にしたら嫌なのか?」

「そんなの、当たり前じゃないですか。絶対嫌です」


 自分のハンカチで目の端に滲んだ涙を拭いていると、ミカドラ様は夜空を仰ぎました。


「分かった。元々そのつもりだったが、ルルのためにも長生きしてやる。ルルも働きすぎて倒れるなよ」

「は、はい。気を付けます」


 ミカドラ様はひときわ長いため息を吐きました。

 その横顔は何かを躊躇っているようであり、何かを覚悟したようでもありました。


「ルルの代わりは誰にも務まらない。取引のことだけじゃない。俺にとって、かけがえのない存在だ」


 私が驚いて小さく声を上げても、ミカドラ様は頑なに視線をこちらに向けませんでした。

 そして、一度しか言わないから聞き逃すな、と念を押してから、はっきりと告げました。


「他人の評価なんて気にするな。ルルはもっと自分に自信を持っていい。……この俺が本気で好きになった唯一の女なんだから」


 耳を疑うとはこのことでしょうか。

 聞き間違いでなければ、ミカドラ様が今、私のことを好きだとおっしゃったような……。


「……っ!」


 心臓が痛くて仕方がありませんでした。

 痛みに耐えかねて、涙がどんどん溢れてきます。


「泣くなよ。それよりも、ルルも俺に言うことがあるんじゃないか?」


 ハンカチで顔を押さえて、呼吸困難になりそうな状態で考えました。何を求められているのか半信半疑のまま、私はずっと隠してきた想いを口にしました。


「わ、私……ミカドラ様のことが大好きです。心から、お慕いしています」


 やっと言えたという満足感よりも、混乱の方が大きいです。

 みっともない嗚咽が止まりませんでした。

 ミカドラ様から視線を感じるのですが、今度は私がミカドラ様を見ることができません。涙と頬の熱で、きっと顔がぐちゃぐちゃになっています。


「いろいろと遠回りをした気がするが、ようやく肩の荷が下りた……結局俺から言う羽目になったのは不本意だが、まぁ、いい。俺は今ので一生分働いたから、あとは楽をさせてもらう」


 感慨深げなミカドラ様が、何やら勝手なことを言っています。

 しかし私はそれどころではなく、未だに信じられなくて実感が湧きませんでした。


「ど、どうして……私のことを」


 私が息も絶え絶えに問うと、ミカドラ様は淡々と述べました。


「別に、普通の理由だ。可愛いし、一緒にいて楽しい。人間ができているところも素直に尊敬している」


 ますます信じられません。

 しかし徐々に、心臓の痛みが柔らかくむず痒いものに変わっていきました。

 いつまで経ってもミカドラ様が「冗談だ」と言わないので、警戒心が解けて体がふわふわしてきました。


「と、とても嬉しいです。ありがとうございます……ああ、やっぱり信じられません!」

「忙しない奴だな。まぁ、俺も落ち着かないが」


 それからしばらく、二人でぼんやりと空を眺めていました。


「良い夜だな」


 その言葉にだいぶ遅れて同意を示すと、ミカドラ様が機嫌よく笑いました。

 そのときようやく幸福を実感しました。


 ミカドラ様のことを好きになって本当に良かった。これから先も絶対に後悔しないと、私は確信したのでした。




二年生編・完



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