51 認めた ※ミカドラ視点
近頃よく思う。
世の中は恋愛を賛美しすぎている。
恋は素晴らしいもので、愛は何よりも尊いなんて、そんなことはない。
俺からすれば、愛は面倒くさいものだ。できれば適切な距離を保ちたい。
もちろん、悪いことばかりではないのは認めよう。
婚約者のルルは可愛らしく、文句の付け所ない少女である。一緒にいる時間は楽しくて心が満ち足りていく。彼女が俺に好意を抱いていると感じる度に、最高に良い気分を味わえる。
しかし、ルルを意識するようになってから面白くない想いをするようにもなった。
たとえば、ルルがクラブ活動を始めた時。
人脈を広げようという彼女の前向きな努力を応援せざるを得なかったが、内心はクラブになんか入ってほしくなかった。
俺以外の誰かとボードゲームを楽しむのかと思うと、むかむかする。
その誰かはルルが俺の将来の妻だと知らない。馴れ馴れしく話しかけ、そのうち良からぬ感情を抱くのではないかと心配になる。
前にヒューゴが言っていた。
『ルル様は、クラスの地味な男子生徒たちに注目されていますよ。二年生になってから綺麗になりましたし、聡明で控えめで礼儀正しくて、良いお嫁さんになりそうですからね』
無理もない。
最近のルルは日増しに美しくなっている。成績も素行も申し分ない。下級貴族の子息なんかは、ルルのことを狙い目だと思っていそうだ。
腹立たしい。
しかし、その程度のことで気分を害していたら、これから先が思いやられる。
ルルは俺の代わりに執務を代行するのだ。俺の知らない場所で知らない人間と交流を深めていくこともたくさんあるだろう。
彼女の行動を制限するわけにはいかないし、そんな心の狭い男にはなりたくない。俺は珍しく自制した。
……結局ルルがクラブで最初に得たのはマギノアという新しい女友達と、アルトと密談する機会だけだったようだ。
マギノアのことは昔からよく知っている。
頭は良いのに、意固地で不器用で空回りしがちな少女だ。アルトのことが好きなのに全く素直になれず、あろうことか近くにいる俺に嫉妬して罵詈雑言を吐き捨ててくるのだから、当然印象は良くない。
まぁ、俺も、昔は幼稚な対応をしていたので、お互い様だと言える。
少し気の毒でもあった。アルトの想い人が姉上だったということも、マギノアの劣等感を刺激しただろうから。
ルルがマギノアと親しくなるのは複雑な気分だが、結果としては悪くなかった。
どうやら盤戯クラブでは、俺が心配していたことは起こりそうになかった。
クラブの会長のオリマー先輩とやらが、男女の隔たりなく居心地よく過ごせる空気感を作っているらしい。アルトがお忍びで顔を出せるのも、思慮深く落ち着いた生徒ばかりだからだろう。
人脈を作るというルルの当初の目的も、このクラブでなら達成できそうだ。
……こうやってルルの動向を気にしていちいち心を乱されるのが面倒だ。これ以上心を傾けたくない。
しかしそんな気持ちとは裏腹に、どんどんルルから目を離せなくなっていった。
マギノアとの約束で予定を埋めないよう先回りしてしまったくらいだ。何とも思ってもいない顔をしながら、俺はルルに執着している。それも認めざるを得ない。
長期休暇に入った。
今回からルルは実家に帰らず、公爵邸に滞在する。
同じ屋敷で毎日一緒に過ごすのは変な感じがしたが、違和感も煩わしさもない。もうすっかりルルがそばにいる生活に慣れていた。
楽しいことばかりだという予定表を手に、ルルは勉強と仕事の研修に励んでいる。
たまにマギノアと図書館で会ったり、姉上のアドバイスを聞いて継母の出産祝いを見繕ったり、充実した日々を送っているようだ。
そして時々、俺とも過ごした。
初回は乗馬をしたし、二回目は一緒にパズルをした。
それ以外にも朝食後に中庭を散歩したり、夕食後に戦線盤戯をしたり、俺が声をかければルルは目を細めてついてきた。
……可愛いじゃないか。知っていたが。
「幸せそうですねぇ、若様」
ヒューゴにからかわれても、勝ち誇って鼻で笑うだけだった。
実際、幸せと断言してもよい日々だった。
ところが、姉上がシロタエの商人と結婚すると言い出してから、浮かれた気分は一気に霧散した。
占いを生業にするヤクモというその男は、ぞっとするほど透き通った金色の目で俺を見つめた。
「うーん、これは、ワタシでもどうにもなりません。いと尊き神の御力は健在ですね」
それは、俺にとってこれ以上ないほど絶望的な宣言だった。
「ですが、神に科せられたモノが綻んでもいます。残滓といっても良いほど……ミカドラくんの未来は曖昧で定まっていません。ワタシでも見えない。ゆえに、断ち切ることも不可能ではないかと」
そしてその言葉は、希望に足るものだった。
「具体的に、どうすればよいのかしら?」
「そうですね。巫女姫様なら干渉できるかもしれません」
「シロタエの皇族のこと? その方の力を借りるにはどうすればいいの? お金に糸目はつけないし、どんなものでも献上するわ。ねぇ、お父様」
姉上の言葉に、父上は神妙な表情で頷いた。
「王家や領民の負担にならない限り、どのような要求でも呑もう」
ヤクモが笑みを深めた。まるで良いカモを見つけた悪徳商人のようだ。
「……分かりました。ワタシの叔父が姫様のおわすヤシロにお仕えしていますので、文を出してみましょう」
「絶対に取り成して」
「確約はできませんが……麗しい未来の妻のため、心の限りお力になると約束します」
俺は何も言えずにただヤクモを睨んでいた。
姉上がどうしてこの男と結婚すると言い出したのか、はっきりと分かった。
……俺のせいだ。
俺の運命を変えようとして、他国の特殊な血族に助けを求めたんだ。
この際、自分のことなんてどうでも良かった。
最初から分かっていたことだ。覚悟もしてきたし、一人で運命に抗うことを心に決めて生きてきた。
こんな展開は望んでいない。
俺のために姉上が胡散臭い男に嫁いで見知らぬ土地で暮らすのかと思うと、どうしようもない罪悪感が押し寄せてきて溺れそうになる。
止めてくれと言っても、姉上は笑って「わたくしの人生に指図しないで」と首を横に振る。
父上に訴えても「ミラディの意思を尊重するよ」と相手にしてもらえなかった。
誰にもこの結婚を止められない。
姉上たちが公爵領に向かってからも、俺は鬱々とした気分でいた。あの男に指摘された通り、何もかもが気に食わない状態だ。しかし反抗期なんてものではない。己の不甲斐なさに打ちひしがれ、思い通りにならない物事に苛立ちを募らせる。
今まで家族に甘やかされていた。家族は常に味方だった。だからこういう時にどうすれば良いのか、見当がつかない。無力な子どもだと思い知らされた。
「あの、もしご迷惑でなければ……何もしなくても良いので一緒にいてもいいでしょうか?」
ルルがそう言ってくれた時、唐突に限界が訪れた。
自室に連れて行って胸の蟠りを吐き出すと、彼女は一生懸命言葉を紡いだ。
ベネディード家が魔力を持つ家系だと知っても怯むことなく、悪い方向に結論を出した俺の考えを否定し、正しく希望を見せてくれた。
「万が一ミラディ様がヤクモ様と結婚された後、辛い目に遭っていると分かったら、その時は迎えに行きましょう」
それは現実的な提案ではない。
いくらベネディード家の権勢が凄まじくとも、それは王国内での話だ。シロタエ皇国の商家相手に強引な手を使えば外交上の問題になる可能性だってある。
それはルルも分かっているだろう。難しいのは承知の上で、あえて提案してくれた。
そうだ、いざとなれば連れ戻せばいい。
姉上が俺のためにいろいろ動いてくれたように、俺も姉上の危機にはどんな困難があっても絶対に力になる。俺も好きにやらせてもらう。
覚悟を決めたと同時に、途方もない感情が湧き上がってきた。
「ミラディ様がいつでも気兼ねなく帰って来られるように、仲直りしてください」
優しくて頼もしい婚約者の肩に縋りつき、俺は観念することにした。
自分のことは卑下して後ろ向きなくせに、他者に対しては過大評価して前向きに物事を捉える。
彼女の嘘偽りのない言葉は俺の捻くれた心によく効く。
「……認める。傾いた。傾き切った」
俺はルルが好きだ。
心の底からそう思った。
それから公爵領に赴き、余計な決めつけをせずに姉上の顔を見てみた。
ちゃんと幸せそうだ。ルルの言った通り、相手の男のことを存外気に入っており、シロタエでの生活に期待している様子だった。
姉上は活動的だし、新しいものが好きだ。商人の妻というのは肌に合っているのかもしれない。少なくとも、家を守るだけで満足する女ではないな。
ヤクモは腹の底で何を考えているか分からない危険な男だが、懐は広いようだ。散々無礼な態度を取った俺に怒りもせず、にこやかに謝罪を受け入れてくれた。
「いいんですよ、これから仲良くして下されば。ミカドラくんは目利きができるヒトなので、将来に期待しています」
……しかし、やはりどこか胡散臭かった。
正式に結婚するまで義兄上と呼ぶのは控えよう。喜ばせたくない。
なんにせよ、姉上たちを祝福できて良かった。
全てルルのおかげだ。一人では絶対に素直になれなかっただろう。
せっかく公爵領に来たので祖父母にもルルを改めて紹介した。
ばあ様も、ルルのこと自体は悪く思っていないようだ。俺の代わりにルルが執務を代行するのを心配しているのは相変わらずだ。
反対に、じい様はあまり気にしていない。自分の代から父上、そして俺の代まで盤石の地盤を引き継いで行けそうだからだろう。ベネディード家は優秀な人材を多く抱えている。トップが多少迷走したところで、揺るぎはしないという自信があるようだ。
俺も心配していない。
ルルは真っ当に仕事をしてくれるだろう。それでも周囲に侮られるようなら、俺が睨みを利かせればいい。
以前俺はルルに最高の居場所を与えると約束した。彼女を不当に傷つけるような人間をのさばらせはしない。
普段怠けさせてもらう分、いざという時には全力でルルを守る。
狼というよりも番犬のような心持ちだった。
……しかし、ままならないものだ。
母上の話を聞かせて、ルルを泣かせてしまった。
母上との関係は俺の中で割り切っていた。
俺の運命を知ってから、俺より先に母上の心にひびが入った。我が子の未来を想うあまりに、耐えられなかったのだろう。三人目の子どもを諦めた時、完全に心が壊れた。
皮肉なことに、精神を病んだ母上の姿に愛情を感じられるから、俺を忘れて幸せそうに振舞われても構わなかった。むしろ、母上に対しては申し訳なく思う。
俺は大丈夫だ。
祖父母と父と姉がいるし、公爵家で働く者たちも慕ってくれている。
十分に恵まれているじゃないか。
「そんなの、比べることではありません!」
しかし、ルルの言葉は幼少期に納得させたはずの心に響いた。
母上に会えなくなって、本当は寂しかったし悲しかった。理不尽さを嘆いたし、怒りすら感じていた。
それを思い出した。
……胸の痛みが蘇っても、俺は平気だった。
ルルが俺を想って泣いてくれていることの方が嬉しかったからだ。
「明日には王都に帰らないといけないのに、こんな気分では休暇が台無しになる。気晴らしに付き合え」
本当は俺には気晴らしなんて必要ない。ルルの沈んでしまった気持ちを引き上げたかっただけだ。
……いや、それすらも口実だ。
いろいろあった長期休暇の最後は、ルルと楽しい思い出を作りたかった。
姉上が外国に嫁いでしまっても、母上がこのままずっと俺のことを忘れてしまっていても、ルルがそばにいてくれるのなら、俺の心が壊れることはない。
……ああ、やっぱり恋愛が素晴らしいなんて思えない。
こんなにも依存してしまったら失うのが怖くなる。
だが、ルルを好きにならなかったら、ただ町を歩くだけでこんなに幸福を感じることもできないのだろう。本当に勘弁してほしい。
ルルが初めて白いリボンを身に着けた日は、俺にとっても特別な日になった。




