49 悲しみ
リーシャ・ベネディード様はお体を悪くして、こちらで長く静養していると聞いていました。しかし昨夜の様子を見るに、ただの体調不良ではなさそうです。
今思い返せば、無邪気に庭園を駆けまわっていたように見えました。まるで幼い少女のように。
私が以前手紙で挨拶をしようとして断られたのも、王都の屋敷で誰もリーシャ様の話題を口にしないのも、やはり特殊な事情があったということなのでしょう。
「待っていなくて良かったのに。……ルル?」
「はいっ」
ミカドラ様に顔を覗き込まれて、私は跳ねるように立ち上がりました。
寝坊したミカドラ様の朝食が終わるのを食堂の隅で待っていたのでした。
「どうした。顔色が悪いな。知らない屋敷で緊張して眠れなかったか?」
「いえ、そういうわけでは……」
ミカドラ様とリーシャ様のお話をしたことはありません。
やはり私には話しにくいことなのでしょうか。
繊細な問題に無神経に踏み込んではいけません。話してくださるまで待つべきです。そうすると決めたはず。
「何か気になることがあるのか? 遠慮せずに話してみろ」
しかし、私の異変にすぐ気づいてしまうミカドラ様を前に、疑問を押し殺す意味があるのでしょうか。まるで隠し事をしているような罪悪感に心を侵食され、黙っているのも心苦しくなるのです。
「じ、実は昨夜、庭園を眺めていたのですが……」
私が躊躇いがちに切り出すと、ミカドラ様は瞬時に察しました。
「ああ、見たのか。母上が少し目を離した隙に部屋を抜け出して、大変だったらしいな。たまにあることなんだ」
あっさりとそう言ってのけ、ミカドラ様は先に歩き出しました。
「詳しく話す。場所を変えるぞ」
「え、良いのですか? 話しづらいことでしたら」
「楽しい話ではないが、こういうきっかけがないと、いつまで経っても話せないからな。ルルなら口外しないだろうから、父上も許してくれる」
お言葉に甘え、私はミカドラ様と中庭のガゼボに移動しました。
ミカドラ様は庭園の木々を見ながら、口を開きました。
「母上は時々記憶の混濁と幼児退行に陥るんだ。特に、俺に会うとそういう状態になることが多いな。実は、俺を産んだ後に一度身籠っていたんだが、病気にかかってしまって……子どもを諦めるしかなかったらしい。その時のことをずっと悔やんでいるみたいで、俺を見ると思い出すみたいだ」
淡々とした口調に似合わぬ壮絶な内容に、私は激しく動揺しました。
「泣いたり騒いだり大騒ぎした後、ふっと記憶を失う。俺を自分の子どもだと分からなくなったり、幼い子どもみたいになって楽しそうに笑ったり……そうやって心を守っているんだろうな。だが、体がついていかなくて急激に衰弱する。だから、俺はあまりこちらの屋敷に来ないようにしている。来ても会わない。もう一年半くらい母上の顔を見ていないな」
「……そんな」
私はそれきり言葉を失いました。
どうしてそのようなことになってしまうのか、理解できません。
リーシャ様のことはお気の毒だとは思います。新しい命を諦めるという選択がどれだけ苦しいことなのか、私には想像できません。心が壊れてしまうくらいショックだったのでしょう。
ですが、それ以上に、ミカドラ様が可哀想です。
リーシャ様は我が子を見てどうして心を乱すのでしょう。生まれてくるはずだった赤ん坊のことを連想してしまうのだとしても、同じく自分が命懸けで産んだ子どもです。なぜ生きてそばにいるミカドラ様を遠ざけるようなことになってしまうのか。会うとパニックに陥るなんて、ミカドラ様が拒絶されていると感じてもおかしくありません。
「そんな顔をするな。俺は別に気にしてない」
「でも、あんまりです……」
「仕方がないことだ」
平然とした表情のミカドラ様を見て、私はもっと悲しくなりました。
「母上が俺のことを愛していないわけじゃない。いろいろ不幸が重なった。俺のことを忘れている間の母上はとても幸せそうだというし、なら会えなくてもいい。もう母親を恋しがる年齢じゃないんだ。俺の周りにはたくさんの人がいるから、寂しくも悲しくもない」
ミカドラ様の言葉にはきっと嘘はないのでしょう。
しかしそれは、頭で考えて出した答えだと思います。心はそのように物分かりが良いものでしょうか。理性で感情を抑え込んではいませんか?
百歩譲って今はもう平気になったのだとしても、幼い頃のミカドラ様が辛くなかったはずがないのです。
私は亡きお母様のことを思い返しました。そして、ミカドラ様の境遇を自分に置き換えて想像してしまい、勝手に悲しみの淵に落ちてしまいました。
だって、途方もない絶望が押し寄せてきて、目の前が真っ暗になってしまいます。とても耐えられません。
「俺の話を聞いていたか? 大丈夫だと言っているのに、なんでルルが泣くんだ」
「っ泣いていません」
その言葉はもうすぐ嘘になりそうです。涙が込み上げてきて、視界がゆらゆらと波打っています。
「俺よりも六歳で母親を亡くしたルルの方が可哀想だろ」
「そんなの、比べることではありません!」
咄嗟に強く言い返したら、反動で涙が溢れてしまいました。
ハンカチを取り出して、目に当てて隠します。
「も、申し訳ありません。でも、あの、やっぱり悲しいことだと思います……悲しくて寂しいはずです」
やっとの思いでそう言うと、ミカドラ様は遠くを見ました。雲一つない青空をじっと見て、首を傾げました。
「改めてそう言われると、確かに悲惨だな。俺のような恵まれた人間が言うのは気が引けるが、母親との関係だけを考えると、まぁ……そう言えば最初は傷ついたな」
ミカドラ様は顔を顰めた後、しばし目を閉じて、やがて大きなため息を吐きました。
「気が滅入ってきた」
「え、あ、あの、申し訳――」
私のせいです。自分の中で折り合いをつけていたでしょうに、私が余計なことを言ってしまったので、ミカドラ様に嫌な気持ちを思い出させてしまいました。
「明日には王都に帰らないといけないのに、こんな気分では休暇が台無しになる。気晴らしに付き合え」
「気晴らし?」
ミカドラ様は立ち上がって背伸びをしました。
「久しぶりに町で遊ぶ。俺も、嫌なことは全部忘れてやる」
自虐的な言葉選びでしたが、ミカドラ様は落ち込むどころか挑発的な笑みを浮かべていました。




