37 呼ばれた ※ミカドラ視点
俺は嫌なことから逃げるのを恥とは思わない。
一度しかない人生だ。時間には限りがある。ならば、できるだけストレスを溜めないように好きなことをして生きたい。寿命を縮めたくないからな。
だが、どうしても避けられないことはある。
『それを知って平然としていられるほど、私は大人にはなれない。なりたくもない!』
王国中が祝福のムード一色だったあの日、俺はアルトと仲違いした。
二つ年上ということもあって向こうは俺のことを弟のように思っていたんだろう。俺が生意気なことを言っても、いつも笑って許してくれた。あいつは優しくて寛大な男だ。今の平和な時代なら良い国王になるだろう。
口にしたことはなかったが、素直に尊敬していたし、臣下の家の者として誇らしかった。もちろん、友人であれたことも。
アルトに怒鳴られたのは初めてだった。
十五歳になって秘密を知ったアルトは、その理不尽を嘆いた。予想通りの反応が嬉しくて、悲しかった。
俺は秘密を隠してきたことを謝るつもりはなかったし、何一つ譲るつもりもなかった。お互いの立ち位置は平行線で、どんな言葉を重ねても傷つけあうだけだと分かった。
だから、今は距離を置くことにした。
誰にどう思われようがどうでもいいと思っていたが、さすがに親しい人間と決裂するのは堪えるものだな。
いつにも増して、何もする気にならなかった。
「こ、これを、ミカドラ様に差し上げたくて……!」
そんな時、ルルが馬鹿みたいにでかいパンを持ってきた。
最近様子がおかしい俺を励まそうとしたらしい。パン一つで機嫌が直ると思われているのだろうか。
ルルも失敗したという自覚があるのか、途中からしどろもどろだった。
不思議と不快ではなかった。それどころかルルの気持ちは嬉しかった。
俺の機嫌を取ろうとする奴らは自分を売り込もうと必死だが、ルルに勧められたのは購買の珍しいパンである。美貌や財力や家同士の繋がりではなく、パン。
……俺は案外、安くて簡単な男なのかもしれない。
一緒に甘ったるいパンを食べて、まだ何か力になりたいというルルに甘えて、膝枕をさせてもらった。
それだけで久しぶりに安らげた。
しかし、ルルは俺に対して信頼を寄せすぎじゃないか。
確かに何を知っても俺のことを信じてほしいと願っているが、ヒューゴのいない時間に隠し部屋に来たり、なんでも言うことを聞こうとしたり、いくら婚約者(仮)が相手でももっと警戒心を持つべきだ。
賢い奴だと思っていたのに、意外と抜けている。
だが、自分の心配をする間もないくらい、俺のことを考えてくれているのだとしたら。
……可愛いじゃないか。なんだかもう、全てを許せる。
アルトとしばらく疎遠になっても、ルルがそばにいてくれればなんとか気分を持ち直せそうだった。
それと同時に考えてしまう。
ルルにもいつか秘密を話すと約束した。その時が来ても怒らせて溝ができないよう、最大限に気をつけよう。
一年が終わり、学年末の長期休暇に入った。
ルルは実家に帰ってしまって、一か月近く離れ離れになる。
会えなくてもそれほど気にならないと思っていたが、昼寝に飽きるくらい退屈だった。
学院に通うのは面倒だったものの、親や使用人の目の届かない場所で伸び伸びできるのは悪くなかった。図書室の隠れ部屋で家にはない蔵書を読むのは格別の楽しさだった。
しかし、休暇中にわざわざ出かける気分にはなれない……。
一人で生産性のない時間を過ごすのは大好きだが、たまには誰かと話したくなる。
まだアルトには会えない。姉上は何か企んでいるらしく忙しそうにしている。ヒューゴは暇さえあれば学院の女友達と遊び歩いているらしい。
こういうとき、自分の交友関係の狭さを実感する。
自然とルルのことを考えてしまう。
今頃どうしているだろう。
厚かましい継母のせいでまた嫌な目に遭っていないだろうか。
ちゃんと婚約のことを父親に話せたのかも気になる。
……土産に渡した飴を食べて、少しは俺のことを思い出しているだろうか。
矛盾しているな。
実家で何事もなく過ごせているように願いながらも、公爵邸に来られないことで悲しんだり寂しがったりしてほしい。
自分の女々しい思考に嫌気が差してきた頃、しばしば悪寒がするようになった。
ちょうど休暇が折り返しに差しかかろうという頃で、もうすぐルルの母親の命日だった。
ルルに会いに行かなければならない。そんな焦りを感じる。
「アーベルの領地……」
地図を見て位置を確認する。気軽に行ける距離ではない。
大体、なぜ会いに行く。意味が分からない。
しかし頭では冷静に考えつつも、日に日に強迫観念が増していった。
もしかしてルルが危ない目に遭っているのではないか。これは虫の報せというやつかもしれない。
ルルが俺に助けを求めているような気がしてならなかった。
……いいじゃないか。どうせ暇を持て余していたんだ。休暇中、一度くらい遠出をするのは悪くない。
ルルの様子を確認しに行こう。何もないのならそれでいい。
しかしもし何かがあったなら、多少強引な手を使ってでも連れて帰る。
そうと決めたら、準備が必要だ。
「父上。ルルに会いに行くから、遠出用の馬車を使ってもいいか?」
「え、急にどうしたんだい? 何かあった?」
「まだ何もない。だが、嫌な予感がして……どうしても会いに行きたい」
父上は驚いたように目を瞬かせた後、にこりと笑って頷いた。
「分かった。ミカドラの好きなようにすればいい」
「やけにあっさりと……」
「うん、だってきっと僕でも同じことをするから。行っておいで」
親に自分の婚約者のことで何か頼みごとをするのは、とてつもなく恥ずかしかった。
微笑ましいものを見るかのような顔をするな、と父上に文句を言ってやりたかったが、力を借りないと出かけられない以上、甘んじて耐えるしかない。
「え!? ボク明日もデートなのに」
「うるさい。早く準備しろ。場合によっては女装してもらうからな」
「意味が分からないんですけど!」
苛立ちの八つ当たり先はヒューゴである。
俺の都合で連れまわすのは悪いと思ったが、女遊びはほどほどにしておいてもらわないと、将来裁判沙汰を起こしそうだ。万が一の時にルルを連れ出す口実作りのため、ヒューゴにもついてきてもらわねばならない。
父上はさらに執事長のドナードをつけてくれた。
俺とルルの関係を知っていて、信頼できる大人だからだろう。この急な遠出について詳しく聞いて来ない辺り、とても助かる。
ヒューゴはデートを潰された腹いせか、道中やたらとからかってきたが、ほとんど無視した。
それどころではなかった。
ルルの実家に近づくにつれ、悪寒が止まらなくなっていた。もはや何もないとは思えない。
……案の定だった。
見えない何かに導かれるように俺は馬車を降りて、丘の上の墓地に向かった。
一人の少女が墓石の前で蹲って震えていた。見間違うはずもない。ルルだ。
その頼りない姿を見るだけで心臓がひどく傷んだ。
「…………」
ルルに長い髪の女性が寄り添っていた。
輪郭がぼやけ、体が透けているが、悲しそうな表情で労わるようにルルの背を撫でている。
ルルは全く気付いていないようだ。
俺自身、驚いていた。
こんなにはっきり視えたのは生まれて初めてだ。
どうやら俺は彼女に呼ばれたらしい。
紫色の瞳と目が合って、ルルの母親だと確信した。顔立ちがとてもよく似ている。声は聞こえないが、早く助けてやってくれという想いが痛いくらい伝わってきた。
俺が小さく頷くと、悪寒がきれいさっぱりと消えた。
歩み寄るにつれ、ルルの嗚咽が聞こえてきた。
手が青白くなっている。どれだけ長い間、この冷たい風に晒されていたのだろう。
母親の命日に墓石の前で一人きりで泣いているなんて可哀想すぎる。
来て良かった。
とりあえず上着をかけてやる。
「もうその辺にしておけ。母親が心配している」
ルルがようやく俺に気づいて顔を上げた。
涙で濡れて、目の周りが真っ赤になっている。
その瞬間、自分の心の中が劇的に変わる気配を感じた。はっきりとは分からないが、ルルに対して何か強い感情が芽生えた。
その動揺を隠すように、ここに来た理由を口にした。嘘は吐いていなくても、本当のことを言っていない。
ルルがいなくて退屈だった。心配だった。会いたかったんだ。
今は胸がいっぱいで、いつもなら苦もなく平然と言えるような言葉が出てこなかった。
それから俺は、普段からはあり得ない優しさを発揮した。
いや、意識してやったわけじゃない。衝動的にルルの冷えた体を抱き寄せて、全力で慰めていた。そうしなければ気が済まなかった。
ルルの中から嫌な感情を根こそぎ消してやりたかった。悲しみも怒りも忘れて今はただ安心してほしい。
……ルルを連れて帰る。いいですか?
心の中で問いかければ、ルルの母親は安堵したように笑って頷いた。
母親の許可は取ったんだ。何の遠慮もなく実行させてもらおう。
「帰るぞ。ベネディード家に」
ルルの瞳は恐ろしいくらい透き通っていて、無垢だった。
手を差し出せば、何の迷いもなく自分のそれを重ねた。
最後に娘を見送る母親に、呼んでくれた感謝を込めて頭を下げた。
もう何の心配も要らない。ルルは俺が守るから大丈夫だ。
瞬きの間に彼女は消えた。




