31 険悪な教室
香水を分けていただいてから数日が経ちました。
ミカドラ様はあの日の私の赤面については、何も言ってきません。それは有難かったのですが、少しだけ態度が変わりました。
「ルルは今日も頑張っているな。俺には真似できない」
「え、えっと、ありがとうございます……?」
自意識過剰かもしれませんが、私と一緒にいる間、いつになく上機嫌なのです。
例のごとく、からかうような意地悪な笑みを浮かべながら私を眺めて一つ頷く、という謎の動作をよく見かけます。
楽しそうで何よりですが、クールで孤高の“銀狼の若君”はどこに行ってしまったのでしょう。
やはり私の気持ちに気づかれていて、泳がされているような気がしてなりません。
なんでしょう。無性に悔しいです。
以前に「好きになるなら俺にしておけ」などと平然とおっしゃったくらいです。思い通りになって勝ち誇っているのでしょうか。簡単な女だと思われたのかもしれません。
鬱陶しがられていなさそうなことに安堵しつつも、私は徐々に冷静になっていきました。
そして、なけなしの自尊心が「このままではいけない」と訴えてきました。私だけが恥ずかしい思いをし続けるなんて、耐えられません。
そう、耐性をつけないとそろそろ心臓が壊れてしまいます!
私は悔しさと命惜しさに勉強に打ち込み、いつものペースを取り戻していきました。
香水のリラックス効果もあったと思います。心地よい匂いに幸せな思い出補正がかかって、とても良い気分で眠れるのです。
さらに、ミカドラ様の前でも平静を保つイメージトレーニングを繰り返し、簡単に狼狽えないように気を配ることも怠りませんでした。
「それで、膝枕はいつしてくれるんだ?」
「っ。いつでも大丈夫ですよ。こんなことで恩返しになるのでしたら」
不意打ちでからかわれても、緩みそうになる頬を引き締めて答えれば、ミカドラ様は面白くなさそうに顔を背けました。
……それでも膝枕はきちんと要求され、その間の私は悶絶していました。なかなか思い通りにはいきません。
……最近気づきました。
私といる間のミカドラ様が上機嫌に見えるのは、教室での機嫌の悪さとの差が大きいことから生じる気のせいかもしれません。
今のクラスはミカドラ様を中心に、女子生徒たちが泥沼の勢力図を作っているのです。
たとえばある日の休み時間にこのようなことが起こりました。
「きゃっ」
まず、貴族令嬢のグループが平民のキサラさんにわざとぶつかって転ばせました。
このキサラさんという方は、潤んだ瞳とふわふわの髪、おっとりとした言動が大層可愛らしく、妖精だ天使だとよく男子生徒に口説かれています。
分かりやすいですね。ちやほやされる平民の美少女を、貴族の女子生徒が妬んで嫌がらせをしているのです。前にヒューゴさんも同じような目に遭っていましたね。
「ちょっとあなた、今、ミカドラ様に視線を送らなかった? わざと転んでアピールしたでしょう?」
「え? え? そんな、わたしは何も……」
謂れのない非難にキサラさんが戸惑っています。
さらに言えば、ミカドラ様がご自分の名前を出されて、顔を顰めました。
「まぁ、怖い。大丈夫?」
そこに子爵令嬢のジュリエッタ様率いる二つ目の貴族グループが参入しました。キサラさんに手を貸して、優しく助け起こしています。
「自分たちで意地悪しておいて、そういうのは良くないですよ」
「ジュリエッタさん、何をおっしゃっているの?」
「全部見ていましたから。大体、彼女がミカドラ様に媚びたところで、相手にされるわけないのに……ミカドラ様にアピールしたいのはあなたたちの方でしょう? みっともないですわ」
「なんですって? あなたにだけは言われたくないけど!」
そこからは女子同士の舌戦が始まります。
相手を陥れるような言葉の数々に、聞いている周囲の方がダメージを負います。キサラさんなどは二つのグループの間に挟まれてげっそりしていました。
「……ねぇ、静かにして下さる? 不毛だわ」
混乱を極める教室に、さらに鋭い一声が放たれます。
宰相閣下のご息女であるマギノア様です。
学年一の才女にして、このクラスの級長を務める方。今度は争っていた女子生徒たちとマギノア様の睨み合いが始まります。
「マギノアさんには関係ないでしょう。入って来ないで」
「関係したくはないけれど、放っておけないの。このクラスの評判が下がると、私まで侮られる。足を引っ張らないで」
「随分なおっしゃり様ですね。何様だと思っているのかしら。偉そうに」
「……私が偉いんじゃなくて、あなたたちが下等なんでしょう」
その言葉で火がついて、ジュリエッタ様を筆頭にしてマギノア様に文句が集中します。
私を含め、争いに関係していない女子生徒とほとんどの男子生徒は「はわわ」と狼狽えることしかできませんでした。
怖すぎます。とてもではありませんが、仲裁などできません。
ジュリエッタ様たちが悪いのは確かですが、マギノア様も事態を収拾したいなら火に油を注ぐようなことは言わないでほしいです。もうどうにもなりません。
やがてマギノア様は呆れたようにして、ちらりとミカドラ様を見ました。その視線は「いつまで傍観しているつもりだ」と言いたげでした。
ああ、今にもミカドラ様の舌打ちが聞こえてきそうです。
結局、ミカドラ様が教科書を机に叩きつける音で女子生徒を黙らせ、一睨みして教室を出て行くことで、騒動は静まりました。
せっかくミカドラ様が珍しく授業を受けようとしていたのに、台無しです。同情を禁じ得ません。
私が何もできない無力さに打ちひしがれていると、アーチェさんがぽつりと言いました。
「はぁ、ミカドラ様がお相手を決めれば、少しは静かになるのにね……」
思わず呼吸が止まりました。
このクラスになってから、婚約を公表することへの恐怖が増大しました。無事に卒業できなくなりそうです。
しかし、自分の身の安全だけを考えていてはいけません。
ミカドラ様や他の皆様が心穏やかに学院生活を送れるようになるのなら……いえ、逆効果な気もいたします。新たな波紋を呼ぶだけでは?
悩みは尽きません。
しかし、そんな悩みを吹き飛ばすような出来事が起きました。
またとある日、昼休みを挟んだ午後の最初の授業中、突然教室の扉がノックされたのです。
「失礼する」
入ってきたのは、警備隊の方々でした。王国の治安を守る国の役人です。
「我々は今、とある事件の捜査をしています。お時間をいただけますかな。もちろん、学院長の許可は取っています」
皆さん大柄で逞しい体つきをしています。男子生徒の中には警備隊の制服に憧れを抱いている方もいるのでしょう、ざわめきの中に歓声めいた声が混ざっています。
警備隊の方々は教室を見渡し、探していた人物を見つけたのか、顔を見合わせて頷き合いました。そして教室に踏み入ると、ある生徒の元へ真っ直ぐと進みました。
よりにもよって、と、このクラスの生徒の心が初めて一つになった気がしました。教室がしんと静まり返ります。
「きみ、名前は?」
「……ミカドラ・ベネディード」
ミカドラ様が面倒くさそうに答えました。
ベネディードの名前に驚いたのか、警備隊の方々が息をのむのが分かりました。焦っているようにも見えます。
しかしその中の一人がいつも担任の教師が手にしている出席簿を調べ、固い声で問いかけました。
「今日の朝は教室にいなかったようですが、どこで何を?」
「…………」
ミカドラ様は答えませんでした。
おそらくですが、今日も図書室の隠し部屋で朝から眠っていたのではないでしょうか。隠し部屋の存在をクラスメイトの前では言えません。かといって、どんな事件が起こったのか分からない以上、適当な嘘を口にするのは悪手。黙るしかありません。
「ふむ、ここでは話しづらいご様子ですな。緊急の案件であるからして、今から聴取にご協力いただけますか?」
年長の隊員の言葉に、ミカドラ様は黙って椅子から立ち上がり、一緒に教室を出て行きました。
なんだかその背中に既視感があります。
最近のミカドラ様は教室で授業を受けられない宿命なのでしょうか。私の方が悲しくなってきます。
「お騒がせしました。どうぞ、授業を再開してください」
警備隊の方々はそう言い残して去っていきました。
教室は騒然として、授業どころではありませんでした。
「何か事件が起きたのよね」
「え、ミカドラ様が犯人ってこと?」
「いや、まさかそんなはず――」
様々な憶測が飛び交い、教師が宥めようと必死になっています。
私も大きく動揺してしまい、その日はもう何も手につきませんでした。




