30 空回り
「最近、様子がおかしくないか?」
「え!?」
日曜日の午後、いつものようにミカドラ様と戦線盤戯に興じていると、不意にそう問いかけられました。
「ミスが多くてお前らしくない」
ぐうの音も出ません。これで本日三戦目ですが、全て凡ミスで負けています。
何もゲームのことだけではないでしょう。
学院でも忘れ物をしたり、公爵邸でもペイジさんの授業でもぼうっとして何度か聞き返してしまったり、そういう不手際がミカドラ様の耳に入っているようです。
「も、申し訳ありません。私の不注意です。以後気をつけます」
「疲れているんじゃないか? もしかして、家族が何か言ってきたか?」
「いえ……家からは手紙が来ていましたが、特に問題ありません」
二年生が始まってすぐの頃に、初めて新しいお母様から手紙が届きました。内容は意外にも謝罪文でした。
体調のせいでイライラしてひどいことを言ってしまった、という反省と、私が年々前妻に似てきていると聞いておかしな対抗心を持ってしまった、という懺悔が綴られていました。
私がアーベル家の家督相続を放棄すると知って、我に返ったのかもしれませんね。
無視して私が悪者にされるのも嫌ですし、ちゃんと返事を書きました。「こちらこそごめんなさい、もう気にしていないので今は体を大事にして出産に向けて頑張ってほしい」というような内容です。
でも、お母様と仲良くしたい気持ちが湧いてくることはなく、次の休暇に実家に帰るとは約束できませんでした。無事に弟か妹が生まれたら、顔を見に行きたいとは思うのですが……。
今年王立学院に入学したジリアンさんにも挨拶の際に話を聞きました。
お母様はグレンダ夫人にもお茶会での非礼を詫びる手紙を出したそうです。遅すぎる対応だと夫人は呆れていたようですが、ずっと心に引っかかったままの状態も気持ち悪く、これを機にまた少しずつ交流を始めるか検討中とのことです。
今度こそ貴族女性の社交場に仲間入りできることを祈るばかりです。
「実家のことは、時間が経てばほとぼりも冷めると思います。ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
私の答えにミカドラ様は気に食わないと言ったように眉根を寄せました。
あまり顔を見つめないでほしいです。恥ずかしくて逃げ出したくなります。
「実家のことじゃないなら、なんだ」
「……すみません。進級して、一層頑張らないといけないのに、なんだか空回ってしまって」
はっきり言って、私は浮ついているのです。
今も、ミカドラ様と二人で過ごしているのだと思うだけで、緊張と幸福で熱を出してしまいそうになっています。
ミカドラ様への恋心を自覚してから、なんて身の程知らずな感情を抱いてしまったのかと恐れ戦くと同時に、好きな人と結婚できるのだという事実に浮かれてしまって、落ち込んだり喜んだり、気持ちが暴走しています。
それだけではありません。
どうしたらミカドラ様に好きになってもらえるだろう、早く日曜日にならないかな、また抱きしめてほしい、などと不埒なことを考えて、勉強にも集中できなくなっています。妄想していた時間の遅れを取り戻そうと夜遅くまで勉強してしまい、寝つきも悪くなっていて睡眠不足が続いているという最悪の状況です。
これは由々しき事態です。
私が頑張るべきは、ミカドラ様の取引相手として立派に執務の代行ができるように勉強に励むことです。それさえしっかりしていれば、きっと長く一緒にいられるのですから。
それなのに、つい意識がミカドラ様の方に傾いてしまって、ミスが増えているのです。
思えば、このように何かに関心を持つのは生まれて初めてのことでした。夢中になって周りが見えなくなるというのは、こういう状態なのですね。自分の心と体が思うように働かないのは恐ろしいことです。
私、大丈夫でしょうか。このままダメになってしまうのではないか、不安です……。
「じゃあ、やはり疲れているせいか。ちゃんと睡眠はとっているか?」
「…………」
「悪循環に陥ってそうだな」
ミカドラ様はため息を吐きました。
「ついてこい」
「え、はい」
遊戯室を出て向かった先は、私もめったに足を踏み入れたことがない公爵家の方々のプライベートな部屋が並ぶ場所でした。
まさか……。
「扉を開けておけばいいだろ。入れ」
やはり、案内されたのはミカドラ様の部屋でした。
ミラディ様のお部屋は見せていただいたことがあるのですが、ミカドラ様のお部屋には初めて入ります。というか、同年代の異性の部屋に入ること自体初めてです。
早速心臓が高鳴っています。
広くて綺麗で、良い匂いがするお部屋でした。
聞いていた通り、私の誕生日プレゼントのハンカチが壁に飾られています。部屋が広いおかげであまり目立たず、雰囲気を壊してはいませんが、やはり恥ずかしいです。
椅子に座るように促され、その前のテーブルにミカドラ様はいくつか小さな硝子の瓶を置きました。
「好きなものを選べ」
「えっと……これは?」
「香水。俺も寝つきが悪い時に部屋で使ってる。好きな匂いに包まれているとリラックスできるだろ。分けてやるから寮で使え。つけ過ぎるなよ」
ミカドラ様は嗅覚が心身に与える影響が大きいことを説明しつつ、一つずつ何の香りか紹介してくださいました。
ハーブや柑橘系、花や樹木、どれも香り立ちが穏やかで朝には匂いが薄れているように調香されているそうです。
「…………」
やっぱりミカドラ様は優しい人です。
私のことを心配して下さっている。今のところ嫌われてはいないし、大切にしてもらえている。
それが分かって、心臓が痛くて泣いてしまいそうです。
「騙されたと思って試してみろ。どれにする?」
「えっと、あの」
「気に入るものがないか?」
「いえ、どれも良い香りで選べなくて……ミカドラ様が今一番お気に入りのものがいいです」
声が震えていました。咄嗟のことながら、とても厚かましいお願いをしてしまったような気がいたします。
「じゃあ、ハーブベースのものだな。今この部屋でも使ってる」
「ではそちらをお願いいたします」
ミカドラ様は特に気にした様子もなく、空の小瓶にお気に入りだという香水を分け入れてくださいました。
「ありがとうございます。ミカドラ様にはいただいてばかりで申し訳ないです」
「別にこれくらいのことで……ああでも、気になるなら今度お返しをしてもらおうか」
「はい。私にできる事なら」
からかうような意地悪な笑みを浮かべてから、ミカドラ様が耳元で囁きました。
「じゃあ、また膝枕を」
「!?」
手に持った瓶を落とさなかったのは奇跡です。
ただでさえ上がっていた体温がさらに急上昇しました。顔が真っ赤になっているのが、鏡を見なくても分かります。
さすがに異変が表に出過ぎました。私の不自然な態度にミカドラ様が目を見開いて驚いています。
「ルル、お前――」
「あ、あの、そろそろ失礼いたしますっ。ありがとうございました!」
それ以上は耐えられず、私は逃げるように退室しました。
なんとか寮の部屋に戻るまで泣くのは我慢しました。
本当に最近の私はダメダメです。
ミカドラ様に気持ちが伝わってしまったかもしれません。
どう思われたでしょう。次に顔を合わせるのが怖くてたまりません。
しばらくはまだ熱に浮かされてしまいそうです。




