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怠惰な銀狼と秘密の取引  作者: 緑名紺


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27 終わりと始まり


 実家にいるのに寛げず、お父様は当てにならず、お母様には気を遣い、弟には後ろめたさを感じます。

 鉛を飲み込んだような落ち着かない日々が続きました。使用人たちも息を潜めるように働いていて、家の中がどんどん暗くなっていきます。

 そして、お母様の命日が近づくにつれ、新しいお母様の機嫌はさらに悪くなっていきました。






 命日を明日に控えたある日、自室で勉強していると、お母様が訪ねてきました。こんなことは初めてです。

 私は扉を開ける前に慌ててクローゼットの中に亡きお母様の遺品を仕舞いました。


「な、何か御用でしょうか?」


 息を整えながら扉を開けると、お母様は私の部屋をぐるりと見渡しました。


「ねぇ、ルルさん。一つお願いがあるのだけど」

「はい、なんでしょう」

「部屋を移ってくれないかしら」

「……え? なぜですか」


 戸惑う私を視界に入れることなく、お母様はなんの遠慮もなく部屋の中に足を踏み入れると、窓を開けました。


「ほら、こんなに日当たりが良くて風通しもいい。ここがこの家で一番良い部屋よね。だから、ラルスとお腹の子に譲ってほしいの。こんな良い部屋、使われないのはもったいないわ。ルルさんはほとんど王都にいるもの。構わないでしょう?」


 いきなり何を言っているのでしょう。

 いえ、お母様の言いたいことは分かります。分かりますが、それは受け入れがたい提案でした。心が拒絶しています。


 ここは私の部屋です。

 たくさんの思い出があって、現状この家の中で唯一ほっと息をつける拠り所。お父様と亡きお母様が与えてくれた、私だけの大切な場所です。

 もちろん、いずれ出て行きます。その後は好きにしてくださって構いません。

 ですが、自分で明け渡すのならともかく、お父様に命じられるのならまだしも、このような形で奪われたくありません。


「あの、まだラルスに部屋を与えるのは早いと思いますし、もう少し後ではいけませんか? 急すぎて――」


 お母様は私の言葉を聞いておらず、机の上をじっと見つめていました。


「随分難しいことを勉強しているのね。わたしには全然分からないわ」

「え、あ、これは……」


 失敗しました。お母様の遺品を隠すのに必死で、勉強用具を片付けるところまで気が回りませんでした。まさか中に押し入ってくるとは思わなかったので……。

 机の上にあるのは経済学と経営学の本。公爵家の記録室の方々にお勧めされて、借りてきたものです。

 こんなものを読んでいるなんて、私が領主になることをまだ諦めていない、と取られかねません。いえ、確実にそう思ったでしょう。


 お母様の声が一層冷ややかになりました。


「今回の休暇が終わる頃でいいわ。部屋を移って」

「…………」

「いいでしょう? この前『私にできることがあったら』と言ってくださったもの。お願いね」


 私の返事を待たずに、お母様は出て行ってしまいました。

 最悪です。本当にもう、目の前が真っ暗になりそうです。


 大きなため息を吐いて、私はベッドサイドに置いておいた飴の瓶を手に取りました。

 きらきら光る飴がもう半分まで減っていました。なんだか悲しい。


「ミカドラ様……」


 会いたいです。

 私の身に起こった小さな不幸の数々を笑い飛ばしてほしい。


 飴玉を一つ食べて、口の中から甘さが完全に消えてから、私は頭を切り替えました。


 大丈夫!

 この部屋がなくなっても、私には公爵家に用意していただいたお部屋があります。

 私の最後の砦です。その場所を失わないためにも、もっと勉強を頑張らないと。


 いろいろあって、結局お父様にもまだお伝えできていません。

 結婚してこの家を出て行くと話してしまえば、この部屋に対する未練もなくなるでしょう。新しいお母様も安心なさるに違いありません。


 命日が終わったら心に一区切りをつけて、お父様とこれからのことをお話ししましょう。






 そうして迎えた日の朝。

 私は粛々と出かける準備をして、玄関に向かいました。


 ふと、玄関に百合の花束が置いてあるのが目に入りました。

 もしグレンダ夫人から送られたものだとしたら、どうしてここにあるのか分かりません。高貴な香りとは裏腹に、なんだか胸騒ぎがします。


「ルルさん」


 振り返れば、お母様が怖い顔をして立っていました。その後ろにはメイドが二人申し訳なさそうに控えています。


「勝手なことをしないでくれる?」

「? なんのことでしょうか?」


 お母様は罪を糾弾するように言いました。


 私が家に届くはずのものを別の場所で受け取ろうとしたこと。

 使用人に焼き菓子を渡したこと。

 ラルスに読み書きを教えようとしたこと。


 確かにそれらの情報は、お母様の目と耳には入らないようにしていたはずです。知っているということは、後ろのメイドがお母様に伝えたのか、ラルスから聞いたのでしょう。

 それとももしかして、私は見張られていたのでしょうか?

 しかし、非難されるほど悪いことだとは思えません。どうしてお母様が怒っているのか理解できませんでした。


 私の疑問に答えるようにお母様はぐちぐちと言い募りました。


「こそこそしないで。まるで自分がこの家の女主人のように動いて……今更使用人たちを懐柔するつもり? ラルスには立派な先生がついていて、計画的に学んでいるのだから、余計なことを教えないで。物語の魔法の呪文なんて、なんの役にも立たないでしょう。それどころか間違ったことを覚えてしまうかもしれないわ」


 なんだか私の行動の全てが悪意を持って解釈されています。

 小さなことの積み重ねが、お母様の怒りに触れてしまったようです。


 申し訳ありません、と言おうとしましたが、声が出ませんでした。


 私が謝る必要があるでしょうか。

 必死で取り繕ってきたものが、急速にどうでも良く思えてきました。


 私ももう限界でした。


「こちらの百合はグレンダ夫人が母に贈ってくださったものです。香りが強いですし、グレンダ夫人の贈り物だと知ったらあなた(・・・)が嫌がるだろうと思って、目につかない場所で受け取ろうとしました」


 淡々と説明すると、お母様が眉間に皺を寄せました。


「焼き菓子を使用人たちに渡したことに他意はありません。せっかくいただいたものなので、悪くなる前に誰かに食べてほしかったんです。お菓子一つで私に懐柔されるような使用人なんて、さすがにいないと思います」

「なっ」

「ラルスに読み書きを教えようとしたのも、嫌々勉強しているようだったので、少しでも楽しめればいいと思っただけです。あの魔法の呪文が書けるようになれば、この王国の文字記号は全て覚えられるので」

「言い訳を――!」

「信じていただけないのなら構いません。次からは気をつけます。もう何もしません」


 私がこの家のためにできることは、もう何もないのでしょう。

 お母様に睨まれても、怖くありませんでした。心がどこかに行ってしまったかのように何も感じません。


「お体に障ると大変なので、もうこの辺にしましょう。私は、母のお墓参りに行ってきます。こちらは持っていきますね」


 百合の花束を抱えて、私は家を後にしました。






 いつの間にか、お母様が埋葬された墓地へ着いていました。ここまで歩いてきた間の記憶がありません。

 丘の上にぽっかり空いた原っぱはひっそりとしていて、私の他には誰もいませんでした。


 一人で来るのは初めてです。

 この日だけは毎年お父様と二人でお参りしていたのです。


 墓前にグレンダ夫人の贈ってくださった百合の花と、私が用意した淡い紫色の花を供えました。今日は風が冷たくて、花たちも震えるように揺れています。


 墓標の前で目を閉じて冥福を祈りました。

 去年は、もうすぐ王立学院に入学すると語りかけました。立派な成績を収めて報告に来ると約束したことを覚えています。


「お母様……私」


 そう言えば、今回もお父様は私の学院での話は聞いてくださいませんでした。

 興味がないのでしょう。どう反応すればいいのか分からないのかもしれません。

 女子生徒の中ではかなり優秀な成績だったのに、褒めてもらえないのはやっぱり残念ですね。


 お父様はひどいです。

 たまにしか会えない私よりも、毎日顔を合わせるお母様のことを優先します。

 いつの間にかアーベル家の中心は新しいお母様になっていて、彼女の機嫌を損ねるものが排除されるようになってしまいました。使用人までも、完全にお母様の味方のようです。


 新しいお母様のことは、やっぱり好きになれません。

 生い立ちは気の毒ですし、根っからの悪い人ではないことは分かります。前妻のことを気にして態度がおかしくなるのも、理解できなくはないです。

 それでも、大人げないと思います。

 故人に勝とうとしないでほしい。そこには踏み入らないでほしい。私に冷たく当たっても、どうにもならないのだと分かってほしいです。


 たくさん我慢しました。でも、どうして私が我慢しなければならないのか、もう分からなくなってしまいました。


「ごめんなさい、お母様……」


 気づけば、私はその場に蹲って泣いていました。

 お母様が守っていたアーベル家から私は出て行きます。嫌々ではなく、心から望んで去るのです。

 でも、追い出されるわけではないのに、どこか屈してしまったような気分になる。それが悔しい。


「…………っ」


 墓前で情けない姿を見せるのが申し訳なくて、ますます涙が止まりませんでした。

 お母様が生きていたら、今の私になんと言ったでしょう。

 想像もつきません。


「もうその辺にしておけ。母親が心配している」


 そんな声と同時に肩に上着が被せられました。

 私が驚いて顔を上げると、美しい銀髪の少年が隣に立っていました。


「え、あ、ミカドラ様っ?」


 幻を見ているのかと思いました。涙で姿が霞んで見えるのでなおさらです。

 しかし肩にかかった上着の温かさが、ミカドラ様がここに実在することを証明しています。


「どうして……」

「退屈だったから」


 さらりと言ってのけ、ミカドラ様は困ったように笑いました。


「やることもないし、時間を持て余していたし、気分転換に出かけることにした。父親の方にはまだ挨拶できなくても、母親の方なら問題ないだろう? だからここにいる」


 王都からここまで、気分転換で来る距離ではありません。

 どこまで本当のことを言っているのか分からず、私は混乱するばかりでした。


「ルルがこんな風になっているなら、来て良かった」


 ただ、ぽつりと呟かれた言葉は本当のことのように思いました。

 涙を拭いて立ち上がり、ふらついた私をミカドラ様が支えてくださいました。というか、そのまま自然な動作で抱きしめられました。


「み、ミカドラ様……?」

「母親が恋しいのか? それとも、また実家で嫌な目に遭ったのか?」


 労わるように問いかけられ、また涙がこみ上げてきました。ああ、なんでもお見通しですね。


「っ両方です……」

「そうか。可哀想だから特別に慰めてやる」


 ミカドラ様がどんな顔をしているのか分かりませんが、聞いたことないくらい優しい声でした。

 もう何も言えなくて、代わりに嗚咽を漏らしました。


 ミカドラ様は私が縋りついても振り解かずに、冷えた体に熱を分け与えてくれました。

 私の震えが止まるまで、ずっと。


「帰るぞ。ベネディード家に」


 私が恐る恐る顔を上げると、ミカドラ様は不敵に微笑んでいました。不安も恐れも躊躇いもなく、私の返答なんて必要としていない様子でした。


 もう答えは決まっています。差し出された手を無言で取りました。


 最後、二人揃ってお母様の墓標に黙礼しました。


 心配をかけていたらごめんなさい、もう大丈夫です。

 

 小さく微笑んで、私達はその場を後にしました。

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[一言] すでに学費寮費ギリギリしか援助せず、娘に相談なく実母の形見を処分し、挙句全く娘に興味のない父親、貴族家夫人としての振る舞いができず一切ルルを尊重しない継母、そしてそれに追随し阿る使用、すでに…
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