25 憂鬱な帰省
グレンダ夫人に領地まで送り届けていただき、生まれ育った家に帰った私は、まずどんよりとした空気に驚きました。
時間通りの到着だったのに、玄関で迎えてくれたのは使用人だけで家族の姿はありません。使用人によるとお父様は急用で出かけてしまったそうです。
「ただいま戻りました。あの……」
お母様と弟のラルスは居間にいました。
また内装が変わっています。生まれ育った家なのに、知らない家にお邪魔している気分になりました。
お母様はソファにゆったりと腰掛けていて、首だけで振り返りました。
前の時はもっとにこやかに迎え入れてくれたのですが、今日のお母様は顔つきが険しいです。まるで別人のようです。
「あら、ルルさん。お帰りなさい」
「ご無沙汰しております」
「…………」
私の全身をじっと見て、お母様は真顔で黙り込みました。なんでしょう。怖いです。
明らかに歓迎されていない空気に怯みつつも、私は愛想笑いを浮かべました。
「あ、えっと、こちらお土産です。王都で人気のものを勤め先の御主人からいただきまして、今日のお茶の時間に召し上がりませんか?」
私がローテーブルの上で焼き菓子のお土産の包みを開くと、バターと甘いシロップの香りが広がりました。見た目からしてとても美味しそうです。ラルスも目を輝かせています。
しかし、お母様は口元を押さえてのけぞりました。
「なんの嫌がらせ!?」
「え?」
「気分が悪いわ! こんなっ、わたしが食べられない物を持ってきて!」
全力で怒鳴られ、私は硬直しました。
お母様は確か甘い物がお好きだったはず。滅多に食べられない高価な焼き菓子ともなれば絶対に喜んでくださると思っていたのに、どうしてここまで機嫌を損ねて……いえ、本当に気分が悪そうに見えます。
既視感を覚えてすぐ、記憶が蘇りました。
四、五年前のお母様も今のようにピリピリしていました。食べ物を受け付けず、いつも具合が悪そうで、青い顔でイライラしていて、それが治まったら今度はそれまでの分を取り戻すかのようにたくさん食べ、また体調を崩し、よく泣いていました。
ちょうどラルスを身籠っている頃です。
「あ! ……申し訳ありません。気が利かなくて」
お父様からは何も聞いていませんが、おそらくそういうことなのでしょう。
新しい家族ができる。その事実を知ってお祝いの気持ちが湧いてくることはなく、むしろ心が傷つきました。
ますますこの家に私の居場所がなくなる。家族の中でのけ者になる。
そんな嫌なことを考えてしまう自分にショックを受けました。
それ以上私からはもう何も言うことができず、立ち尽くしていると、お母様は鼻を鳴らして部屋から出て行ってしまいました。
半泣きのラルスがついて行こうとしましたが、廊下でまた甲高い怒鳴り声が聞こえました。恐る恐る様子を見るとラルスは置き去りにされていて、メイドに慰めながら連れて行かれるところでした。
遠くから弟の泣き声が聞こえます。本当に申し訳ないことをしてしまいました。
屋敷に戻られたお父様から改めて聞きました。
お母様の体には新しい命が宿っていること、まだ安定期に入っていなかったので私には伝えなかったこと、休暇の間はできるだけ刺激しないように気をつけてほしいこと、など。
お父様も相当参っているようです。
「すまないな。この半年ほど、ずっと彼女は不安定なんだ」
「もしかして、グレンダ夫人のお茶会でしょうか?」
「ああ。その、いろいろとな……」
お父様から事の経緯を聞いて、私はげんなりとしました。
実は、新しいお母様は東部地方の領主と愛人の女性の間に生まれた方なのです。
母親が平民、しかも正妻には内緒の愛人だったということもあって、幼い頃はひっそりと隠れて育てられたそうです。成人してようやく認知されて父親に引き取られるまでは教育を受ける機会もなく、外聞を気にして社交界に顔を出すことも禁じられていたとか……。
その後、お母様が亡くなって塞ぎ込んでいたお父様は、東部の領主様から縁談を持ち掛けられました。最初は気乗りしていなかったお父様も、お母様の生い立ちを哀れに思って話をするうちに、いつの間にか愛が芽生えていたのです。
年齢差はありましたが、お父様とお母様は愛し合って結婚しました。
……お二人がとても幸せそうだったのを、私もよく覚えています。少しだけ寂しい気持ちはありましたが、その頃は家の空気が明るくなったのを単純に喜んでいました。
しかし、新しいお母様はこの地方の貴族社会にも馴染めませんでした。
貴族の令嬢として人前に出た経験もないのに、領主の妻として立派に振舞う自信がなかったのでしょう。
それは私のお母様の影響もあります。前妻が礼儀正しくまめで、できた人だと評判だったと聞いて、比較されるのが恐ろしかったのだと思います。
そうこうしているうちにラルスを身籠り、出産と子育てに忙しくしているうちに、ますます領主の妻として表に立つ機会から遠ざかっていったのです。
そして半年前、グレンダ夫人からお茶会の招待状が届きました。
グレンダ夫人は亡くなった私のお母様の手前、すぐに親しくするのもどうかと思っていたそうですが、以前から孤立していた後妻のことを気にしていたようで、子育てが落ち着いてきた頃合いに声をかけてくださったらしいです。
新しいお母様はとても喜んで、お茶会に出席したそうです。苦手なテーブルマナーも熱心に学び直したくらい、張り切っていたとか。
お茶会当日、初めて顔を合わせる方が多かったこともあり、最初の話題の中心はお母様で、質問が集中しました。お父様が方々で新しい妻の自慢をしていたこともあって、密かに注目されていたようです。
……お母様はきっと、歓迎されて嬉しかったのでしょう。それに、女性同士で喋ることに飢えていたのだと思います。
舞い上がって、周りが見えていませんでした。頃合いを見て、他の女性たちに話の主導権を渡すべきところを、ずっと自分の話をしてしまったのです。
他の招待客が辟易としていることにも気づかなかったのでしょう。
やがて、一人の女性がお母様のことを見限り、強引に話題を変えました。
それはよりにもよってアーベル家の前妻の話でした。
『本当にネネさんは気配りが細やかで、洗練されていて、お話も面白くてね……アーベル卿はネネさんを思い出すのが辛くて、あなたを妻にしたのでしょうね』
それはかなり痛烈な皮肉でした。よくできた前妻とは正反対だとはっきり言われたようなものです。
お母様は恥をかかされたと怒って帰ってしまったそうです。
お父様はグレンダ夫人から事の経緯を聞き、代わりに謝罪やフォローをして回りつつ、怒ったり落ち込んだりするお母様を必死に慰めました。
私が王都で冬期休暇を過ごしている時期は特に大変だったようです。誕生日のお祝いがなかったのもそのせいなのでしょう。
大変でしたね。
……私も先ほど理不尽な目に遭ったのに、話を聞いて怒るどころではなくなりました。同情せざるを得ません。
誰も彼も少しずつ悪かったと思いますが、結局のところ巡り合わせが悪かったのだと思います。不幸な事故です。
お父様は申し訳なさそうに言いました。
「それでだな……彼女の目につかないようにネネの遺品をだいぶ処分した」
「え? そんな」
「一目でそうと分からなさそうなものだけは、お前の部屋に運んで隠した。宝飾品もある。あとはお前の好きにしていい。ただし、見つからないようにな」
「……はい」
私に相談もなく勝手に処分するなんてひどいと思いましたが、仕方がないことです。今は妊娠中のお母様の健康が第一ですから、心を乱すものを取り除くのは理解できます。
「それと、今年のネネの命日は……墓前には一人で行ってくれ。お前が行く分には、その、大丈夫だと思うから」
私は信じられない思いでお父様を見つめました。
これも、仕方がないことなのでしょうか。
……分かっています。比べる必要がなくても、人は物事に順位をつけてしまうものです。
お父様の基準では生きているお母様が優先なのでしょう。決して亡くなったお母様のことを蔑ろにしたいわけではない。
だけどやっぱり、私は悲しいです。命日くらいは、一緒にお母様のことを思い出してほしかったのに……これは私の我がままでしょうか。
急にお父様は慌て出しました。
「あー、いや、私は仕事の合間にこっそりと行く。二人で出かけると目立つからな。それならいいだろう?」
「え、はい。……本当によろしいのですか? 無理はなさらないでください」
「だ、大丈夫だ。ただ、くれぐれも気づかれないようにしないと……ルルも気をつけなさい」
結局別々のお墓参りにはなってしまいましたが、これがお父様の精一杯でしょう。これ以上は望めません。
前回以上にひっそりと休暇を過ごすことになりそうです。
まさか初日から飴に手を出すことになるとは、思いもよりませんでした。




