16 新しい生活 その六
私が公爵邸で勉強や研修をしている間、ミカドラ様が何をしているか言えば、高確率でお昼寝をしています。
屋敷のソファや庭のベンチなど、敷地内の至る所でのんびりと寝そべっている姿にしばしば遭遇するのです。メイドさんたちがこぞってブランケットをかけてあげて、はしゃいでいる場面も珍しくありません。
お昼寝以外だとお菓子を食べたり、本を読んだり、併設された公爵家の騎士団の訓練場で馬に乗って遊んでいるようです。
勉強や剣の稽古などをしている気配はありません。本当に気ままに楽しく日々を過ごしていらっしゃいます。
本当に、どうして公爵家の跡取りなのに、このような自由な振舞いが許されるのでしょう?
ルヴィリス様が子どもに甘いのはよく分かりましたが、由緒あるベネディード家を正しく受け継がせて守っていくのが当主の役目です。ルヴィリス様は王国を代表する貴族として立派に規律を守り、責務を果たしていらっしゃいます。
それが、ミカドラ様のことだけ甘くなるのはなぜでしょう?
きっと私だけではなく、周りの人間もおかしいと思っているはず。しかしルヴィリス様がミカドラ様の振舞いを認めてしまっているから、何も言えないのです。
たとえばペイジさんなどは、ミカドラ様の生活態度について良く思っていらっしゃらない様子でした。
「誰よりもできるのに、才能を発揮しようとしないのが歯がゆいんです」
以前、そう零してらっしゃいました。
ミカドラ様が怠惰なおかげで私が居場所を与えてもらえるので、決して口には出せませんが、内心ではペイジさんと同じ想いです……。
ミカドラ様はすごい方なのに、それが世に出ないのが惜しいと思うのです。
とある土曜日の午後、記録室に届いた郵便物の仕分けをしていたら、ミカドラ様宛のものが混じっていました。
「あの、私が届けに行ってまいります」
今日はまだミカドラ様にお会いしていません。ご挨拶も兼ねて、お仕事で忙しい皆さんに代わりにお届けしたいと思ったのです。
屋敷中のお昼寝スポットや遊戯室、庭を回りましたが、姿が見えません。
「若様なら、今――」
通りがかかった使用人にミカドラ様の所在を尋ねて、私は初めてその部屋に足を踏み入れました。
絵の具の匂いが満ちた空間――アトリエです。ミカドラ様はキャンパスの前で筆を動かしていました。
「失礼いたします。今日もお邪魔しています。あの、ミカドラ様宛のお手紙をお持ちしたのですが……」
「ああ、そこに置いておいてくれ。後で読む」
「はい。……あの、絵を描かれているんですか?」
「見ての通りだ」
特に隠す素振りがなかったので、私はキャンバスを見せていただきました。
森の中の、美しい湖の絵でした。
透明感のある青い水面がとても神秘的です。水を描くのは難しいと思うのですが、目に美しく表現されています。
「わぁ、素敵な風景ですね。これは実在する場所ですか?」
「公爵領の屋敷の裏手の森だ。記憶で描いているから、微妙に違うだろうがな」
ベネディード家の領地にも、この屋敷と同じ規模の屋敷があると聞いています。敷地面積自体はそちらの方が広いと聞いていましたが、森と湖があるのですね。私の想像をはるかに超えています。
「向こうに行ったときは、よくこの湖で泳いでる」
「お、泳いで……そうなのですね。確かに気持ち良さそうな場所です」
「いずれ連れて行ってやる。実物は、こんな絵よりもずっと綺麗な場所だ」
「こんな絵だなんて……とてもお上手だと思います。ミカドラ様は本当に多才ですね」
本心で言ったのですが、ミカドラ様は鼻で笑うだけでした。
「……そろそろ疲れてきたな。それに飽きた」
「え?」
筆を置いて背伸びをすると、ミカドラ様は立ち上がりました。
「それ、その辺にいる奴に処分するように言っておいてくれ」
「え!? 処分って、この絵を? 捨ててしまうんですか? あの、私が邪魔をしてしまったからでしょうか?」
「違う。もう十分楽しんだからだ。それに眠い」
「ま、また今度続きを書けばよろしいのでは?」
「面倒だ」
またですか。
私は描きかけの絵を見て、もどかしくなりました。完成したら、絶対に素晴らしい絵になるのに……あとは下塗りが済んでいる木々を仕上げるだけです。
私はキャンバスを手に取ってお願いしました。
「ミカドラ様、捨ててしまうのでしたら、私がいただいても良いでしょうか?」
アトリエから出て行こうとしたミカドラ様が硬直しました。
「…………は?」
「私がお借りしているお部屋に飾りたいです」
公爵邸に宿泊する際、毎週同じ客室をお借りしています。私物も少し置かせていただいて、最近では私専用のお部屋として扱われているのです。
本当は公爵家の方々のお部屋のそばに私のお部屋を用意する、という案もあったそうですが、
『さすがにアーベル家のご両親の許可なく、嫁入り前のお嬢さんをミカドラのそばで寝泊まりさせるのは良くないから……ごめんね』
……と、ルヴィリス様に言われていました。
新参者の分際で、ベネディード家のプライベートな空間に部屋を作ってもらうなんて、そちらの方が申し訳ないです。
今お借りしている客室については、好きに模様替えする権利を与えられていました。壁紙やカーテンの好みをよく聞かれます。私のセンスを試されているような気がしてなりません。
このまま今の状態から手を付けずにおくと、いつかルヴィリス様やミラディ様から高価な家具を贈られてしまうのではないか、と内心ドキドキなのです。
今のままでも十分すぎるほど快適なお部屋なので模様替えなんて必要ないと思っていましたが、確かに個性がなくて少し殺風景ではあります。
ミカドラ様の絵を飾れば、随分と印象が変わるでしょう。未完成の状態でも湖の輝きが美しいですし……。
私の提案に対し、ミカドラ様は顔を顰めました。
「この描きかけの絵をそのままか?」
「はい」
「ダメだ」
即答でした。
「そうですか。残念です……」
無意識にしょんぼりした声が出ました。このまま捨てられてしまうのは悲しいです。
しかし、描いたご本人の許可をいただけないのなら、諦めるしかありませんね。
「………………返せ」
私の手から絵を奪い、ミカドラ様が舌打ちをしました。
「こんな中途半端なものを渡せるか」
「え?」
「俺が満足する絵に仕上がったらやる。だから待ってろ」
「……あ、はい。ありがとうございます」
どうやらちゃんと描き上げてから私に譲ってくださるつもりのようです。自分からねだっておいてなんですが、それはそれで恐れ多いような気がしてきました。
「夏の絵のつもりで描いたんだが、部屋に飾るならあまり季節感がない方が……」
しかも真剣に考えてくださっているようです。
「すみません、あの、面倒ではないですか?」
「面倒に決まってるだろう」
「! 申し訳ありません。お手を煩わせるつもりはなくて」
ミカドラ様は少し悩むように絵を眺めてから、ため息を吐きました。
「別に。気が向いたから言ってるだけだ」
後日、ミカドラ様が完成した森の湖の絵を額縁に入れて渡してくださいました。
夜明け前の薄闇のように静謐な一枚でした。明度が低くなっていて落ち着いた色合いです。葉っぱもしっかり描き込まれて、丁寧に仕上がっています。
私は絵の出来栄えに感動してしまいました。
「ありがとうございます! こんな素敵なものをいただけるなんて嬉しいです。大切にします」
「そうか。だが、気に入らなくなったら、画商から適当な絵を買って変えろよ」
私が首を大きく横に振ると、ミカドラ様は少し困ったように笑いました。
「好きにしろ」
いつになく優しい表情で、あまりの美しさに心臓が壊れるかと思いました。
その日の夜、早速お部屋に絵を飾りました。
とても素敵です。お願いして本当に良かったと思います。
私のために、描き上げてくださったのですよね……。
それから絵画が目に入る度にミカドラ様の顔を思い出してしまい、胸がきゅうっと痛むようになりました。
後悔はありませんが、少し失敗したかもしれません。




