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90.ブルースター


 浮かんでは沈んで、また浮かぶ。そのまま窒息してしまえばと思う理性とは裏腹に、死にたくないと本能が藻掻いて。結局、自分ではこの感情を殺せない。

 きっと、昔から種はあったのだ。心の一番奥、誰の目にも、自分の手すら届かないほど、厳重に仕舞い込んで。だから気付きもしなかった。いつの間にかあらゆる壁をぶち壊して、体中に根を張っていた事に。ヴィオレットの心ではもう、この想いを隠していられない。

 だから誰か、無理矢理にでも手折って、根ごと引き抜いて。

 もう二度と、何も芽吹けなくなるくらい、焼き払って。


 嬉しいなんて、気の迷いだと思わせて。 


「マリン、私は──」


「ヴィオレット様」


 助けてくれと、この恐ろしい感情から、救ってくれと。再び縋り付こうとしたその手を、マリンが握り締めて離さない。力の籠もった掌の温もりに、自分を呼ぶ声色に、迷子はようやく夕日色の瞳を見つけた。


「大丈夫」


 言い聞かせる様に、ゆっくりと、染み込ませる様に。一つ一つの言の葉がやけに鮮明な色をして、ヴィオレットの耳から流れ込む。振動に乗って、体の隅々まで広がっていく。


「大丈夫です。何も、恐れる事はないのです。心配する事は、ないのです」


 淡々とした口調は、いつもとそれほど変わりない。特別な事は何もなく、さも当然の様に告げられる全てが、ヴィオレットにとってどれだけ受け入れ難くても。大丈夫なのだと、根拠もなく肯定されるそれが、どれだけ恐ろしくとも。

 マリンは、ただ口元を綻ばせるだけ。その声で、ヴィオレットを肯定するだけ。


「だ、って、私……、わたし、は」


 戦慄く唇では、散らばった言葉を上手く紡いではいけない。未だ恐怖のどん底にいるヴィオレットには、その肯定に頷く事すら罪深く感じる──いや、実際に罪なのだ。

 一度、間違えた。愛と恋と幸福と、その全てに払うべき対価を。一から十まで、いっそ清々しいほどに、ヴィオレットの『初恋』は間違いだけしかなくて。それで不幸になった人はどれだけいたのか。それで、泣いた人は、どれだけ。


「傷、付けちゃったら、……っ、どうしよう」


 それだけが、怖くて堪らないのだ。



× × × ×



 ヴィオレットが恋を語った日の事を、マリンは鮮明に覚えている。


 嬉しそうに、楽しそうに、いつもより高い声と大袈裟な笑顔で、好きな人が出来たのだと言った。ベルローズに押し付けられた中身を失い、輪郭だけになったヴィオレットが得た、心という大切な器官。それがただの渇望から来る錯覚だったとしても、幸せを夢見るヴィオレットを、誰が咎められるだろう。マリンも、ユランですら、何も言えなかったのに。

 クローディアの話をするヴィオレットは、安定したまま歪んでいった。元々真っ当とは言い難い感情なのだから当然だ。愛されたいと切望するヴィオレットに欠片も靡かないクローディアは、焦燥を駆り立てるだけでしかない。正直、いつ爆発しても可笑しくはない……はず、だったのに。

 火薬が湿り、時計が止まり、爆弾がただのガラクタになったのは、あまりにも唐突だった。


「……大丈夫です」


 何度も、何度も、その言葉を口にする。怖いのだと、恐ろしいのだと、何度も何度も口にする彼女に。


「ヴィオレット様は、マリンの事が好きですか?」


「……? もち、ろん。大好きよ」


「マリンも、ヴィオレット様が大好きです」


 不思議そうに首を傾げるヴィオレットに、マリンはただ優しく微笑んだ。きっと多くの人には判別出来ないだろう、微かな笑みで。


「私は、傷付いた事なんてありません。ヴィオレット様はちゃんと、私を愛してくださっている」


 恋と、主従ではまるで違う。関係性も、抱く感情の種類も、愛の意味すら変わって来る事くらい、恋を知らないマリンにだって想像は出来た。それでも、ヴィオレットが自分を大切にしてくれている事も、それが愛情である事も、マリンはずっとずっと昔から知っている。マリンが今までの人生で得た幸せの多くは、その愛が齎してくれた物なのだから。

 恐れる気持ちは、痛いほど理解出来る。自分たちが見て、聞いて、育った物はあまりに汚らわしい。現実に振り回され、美しい恋愛小説を信じる余裕なんてどこにもない。だからこそ夢を見て、羨んで、藻掻いて、そうして掴んだ『初恋』は、ヴィオレットにとっては痛みある過去なのだろうけれど。


 だからこそ、抱いた想いを、手放したりしないで。


「どうか、怖がらないで。その愛を、捨ててしまおうとしないで」


 立っていられなくなったヴィオレットが、ふらふらを床に座り込む。いつものマリンであればすぐにソファまでエスコートしただろうけれど、今は一緒に座り込んで、顔を寄せ合った。不安げに眉を下げて、幼子の様な表情で自分を見上げるヴィオレットに、もう一度、大丈夫だという意味を込めて。


「嬉しいと思った事を、否定なさらないで」


 まるで貼り付けた様な笑顔で語る初恋なんかよりも、泣きそうになりながら吐露される想いの方がずっと良い。ヴィオレットには笑っていて欲しいけれど、あんな笑顔と呼ぶには不格好過ぎる引き攣った表情よりマシだ。

 傷付けるかもしれない、嫌がられるかもしれない、迷惑かもしれない……そんなくだらない可能性の為に、ヴィオレットの幸福が阻害されるなんて、マリンが、そして何よりもユランが許しはしない。


「あなたに愛される事は、こんなにも幸せなのですから」


 命を救われてから今日まで、数多の幸いをくれた。失望と、煩わしさと、少しの情だけしかない教会での暮らしとは全く違う。多くの苦痛と、怒りと、形容し難い負の感情を抱いても、その想いが変わる事はない。

 ヴィオレットに愛されて、マリンは幸福だ。彼女を愛する事もまた、幸せだ。


「……うれし、かった」


 死に絶えなかった想いが零れ落ちる。小さな声はきっと、今にも鼻先がくっつきそな程に近い位置にいるマリンにくらいしか届いていない。でも、それで良い。他の誰にも聞かれたくはない。そのくらい大切で、尊くて、繊細な本音なのだから。


「気付けた、時、嬉しくて」

「はい」

「だって、だ、って、ユランは凄く、凄く素敵だから」

「はい」

「やさしく、て……いつも、笑って、くれて」

「はい」

「わたし、と……いつも、一緒にいてくれる、話を、聞いてくれる」

「はい」

「名前だって、呼んでくれる。ヴィオちゃんって。声がね、ふわふわしてるの」


 言葉にするだけで、その想いが肉を得て、血が通って、段々と形作られる。輪郭しか分からなかった人影に色が付き、靄が晴れ、いつの間にか背中が確認出来るまでになって。

 大きな背中、柔らかな髪がふわりと揺れて、恋心が振り返る。


「ひとりじゃ、ない、って……言って、くれる」  


 ゆっくりと閉じた、ヴィオレットの眼裏で──あの日のユランが、ありがとうと笑った気がした。



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