76.傷付けるのは私で、守りたいのは君で
ヴィオレットは元々、人を避ける能力が圧倒的に不足している。それはある意味で正しいけれど、その理由が避けられる事の方が多かったからだと思うと複雑。それなのに心を閉ざす術は身に付けているなんて、あまり省みたくない人生だ。
それでも、最低限の交流で切り抜ける技術は持っている。心を無にして聞き流すか、適当な理由でその場から逃げるか、時と場合と相手で使い分けてきた。
でもそれは、どうだってよかったからだ。
相手の話している内容も、伝えたい事も、抱く印象も、なんだってよかった。好き勝手にヴィオレットを語り、ヴィオレットの為だと宣う人の言葉は、いつだって空っぽで。同じように、空っぽの対応が出来た。対話なんてしなかったし、必要だとも思わなかったから。
真っ正面から向き合った時、相手を傷付けたくない時、真摯に向き合いたい時。どうすれば良いかなんて……一度も、考えた事なんて無かったから。
「ヴィオちゃん、見つけたー」
「……ユ、ラン」
この柔らかな笑顔を、どう守れば良いのかが分からない。
× × × ×
少しだけ、安心していた。放課後になるまでユランはヴィオレットを訪ねては来なかったから、今日は会わずに済むんじゃないかって。明日には、もう少し落ち着いて向き合える様になってるんじゃないかって。
そんな、馬鹿らしいくらいに楽観的な事を、考えていた。
「……どうしたの?」
「え……、ぁ、ううん、何でもないわ」
ほんの僅かな戸惑いが、一瞬の表情に出たらしい。
きっと、ユラン以外には気付かれない程度の変化で、だからこそ彼の前でしか見せない物で。だからこそ、会いたくないと思ってしまった訳で。
そんな風に思う自分に、反吐が出そうだ。
「ユランこそ、何か用があったのではないの?」
「うーん、用っていうか」
唇を噛み締めてしまいそうな不快感を飲み込んで、表情だけでなく言葉選びにも気を付けた。
強制に近い形で自覚した気持ちは、駆除も除去も出来ていない。ただそこにある事を知って、監視をしながら対策を考えては怯えているだけの状況だ。いっそ取り出して綺麗さっぱり拭いされたら楽なのに、脳の皺一つ一つにこびりついたそれは、奥の奥まで入り込んでしまっているらしい。
その目に写る事がこんなにも怖いと思う日が来るなんて、昨日までは想像もしなかった。
「……やっぱり」
「っ……!」
近付いてきた指先に反応が遅れた。
涙袋の下をなぞる様に滑る柔らかな接触が、ユランがどれだけヴィオレットを気遣っているのか窺わせる。ほんのりと冷たく感じるのはユランの体温が低いのか、それとも、ヴィオレットの目元が熱を持っているからなのか。
「昨日、あんまり眠れなかった?」
心配だと、見ているこちらの方が痛みを覚えてしまいそうな表情で、何度も何度も慈しむその指が、心地いいと思ってしまう。
見上げるくらいに高くなった顔は、もう子供にほど遠い。青年として完成されたユランはもう、可愛いだけの少年から卒業している。ただ可愛がられるだけではなく、こうして、誰かを優しく慮れる人になった。
それはきっと素晴らしい事で、美しい事で、可愛い男の子が素敵な男の人になった証明の様で。
──それが、嬉しかったはずなのに。
「ヴィオ、ちゃん……?」
「ッ……!」
「何が、あったの」
言葉に込められた意思が重みを増して、強く響いた質問にはもう疑問符なんてついていなかった。
何かあった、何かが、ヴィオレットの身に起こったのだと。
気付かれた事に、驚きは無かった。それどころではなかった。それを気に出来る余裕なんて、ヴィオレットの心には欠片も存在しなかった。
「なん……でも、ないわ。大丈夫よ」
一歩後ずされば、触れていた温もりも遠ざかる。
無理矢理作った笑顔はきっと不格好で、大丈夫になんてきっと見えない。実際、なに一つ大丈夫なんかじゃない。でも何が大丈夫じゃないのか、それも分からない。
「迎えを待たせてしまうから、もう行くわね」
「え、でも」
「またね、ユラン」
無理矢理打ち切った会話がいかに不自然か、それを気にしている時間すら惜しかった。何か言いたげな視線を向けられている事にも気付いていたけれど、それすら無かった事にして、強引に別れを押し付ける。それがユランに対してどれ程不誠実か理解していても、それでも、一秒でも早くユランの前から消えたかった。
避けたくなんてない、本当は、今すぐに振り返って来た道を巻き戻ってしまいたい。
でも、他に、どうすればいいのかが分からない。
ユランの成長が嬉しくて、いつか、幸せになる彼を遠くから見守る事が夢で。それはつまり、いつかユランにも大切な人が出来るって事なのに。
そんなの、ずっと昔から分かっていたはずなのに。
あの笑顔が、声が、指先が、心が、ヴィオレット以外にも与えられるなんて、想像もしたくない。
こんな自分に、気付きたくなかった。こんな身勝手な欲を抱いている自分を、ユランにだけは、見られたくなかった。




