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56.太陽みたいと誰かが言った

 花笑み。花が咲いた様に華やかな笑顔。

 でもそれは、いつもの薔薇を連想する物はなく、小さな花が敷き詰められた花畑の様だった。

 その笑顔が、頬を撫でる指の感触が、大切な記憶を思い出させる。いつもは大切に、厳重に、誰にも壊されない様汚されない様しまい込んでいる物。


 彼女と初めて会った時の、その一言。

 綺麗だ──そう、あの日の彼女も言ってくれた。


 それまでは、大嫌いだった。

 自分の生い立ちを嫌でも自覚させられる、周囲にも知らしめるこの目が、この色が。勝手に作って勝手に捨てて、振り回すだけでその責任を欠片も支払わない、この国の王家が。

 彼らの象徴である金色が、大嫌いだった。



× × × ×



『偽物だ』

『汚れた色だ』

『濁った色だ』


 親が口を噤む代わりとばかりに、幼い子供達はオブラートなんて破り捨てて向かってくる。人前で罵られるなんて当たり前、大勢に囲まれて手を上げられて事だって日常茶飯事。

 ただの妾、それが産んだ子供なら問題なかった事が、この目を持って生まれただけで真逆になるのだから、人の常識とは脆く拙い物だ。

 父親の目の色を受け継いだ、そんな当たり前の遺伝が王族が関わると異常、異端と見なされるなんて。


 父を嫌い、人を嫌い、いつの間にかこの国を嫌いになっていたのは、当然の流れだったのかも知れない。


 唯一の救いは、自分を引き取った分家の夫婦は異端も異常も個性と捉えるおおらかな人だった事だろう。家でも蔑まれていたら、ユランの幼い心はあっという間に死んでいた。

 それでもその愛情を素直に受け取る真っ直ぐな性根が曲がる位には傷付いたし、今さら直りはしないのだが。


 ボロボロになりながらも何とか立っていた。


 大人の不満を大義名分に掲げた怪物達は、あの手この手で這いつくばらせようとする。

 奴等の思い通りに泣きながら蹲ってしまったら、自分はありもしない罪で断罪されてしまう。民衆の期待を背負い魔王を退治する勇者にでもなったと錯覚している阿呆どもに、悪のレッテルを貼られ討伐されてしまう。彼らにとっての普通ではない、ただそれだけの理由で。

 倒れたら、終わりだ。一度倒れたら、もう二度と立ち上がれない様に袋叩きにされる。

 足に力を入れて、踏み締めて。

 必死に抗ってはみるけれど、受け身すら取れずに耐えるだけ。それが精一杯だから、反撃なんて出来る訳がない。

 負けるな、何て無茶なのだ。だってこれは勝負ではなく、一方的な蹂躙なのだから。

 ただ耐えるしか出来ない。削られていく心を知っていても、回復方法なんてない。

 いつか、ストレスが満ちた時か、正気を失った時、この意地も終わるのだろう。ただ耐える事に一生懸命ではあったけれど、片隅では心が潰えて思考が止まるのを待っていた。


 諦めていた。変わる事も、終わる事も、救われる事も無いのだと。


 ──全部攫ってくれる人がいるなんて、想像もしなかった。


「私は綺麗だと思うけどね」


 その言葉を聞いたのは、いつだったのか。ヴィオレットとの思い出は全て鮮明に覚えていたいし、その多くを実際に覚えているけれど、出会いの瞬間だけは朧気だ。諦めて、麻痺して、色々な事を俯瞰でしか見られなくなっていた時期とはいえ、自分で自分に失望する。

 ただ、その声が耳に届いた時の事、その瞬間の事だけは、写真の様に記録されて詳細まで覚えている。


 短い髪に、一見すると男性の様な正装。木々と建物の影で薄暗い場所にありながら、光を背負って立つ姿は神聖な雰囲気すら感じた。

 柔らかな笑みとは裏腹に見下す様に高圧的な視線で場の全てを見渡していて、ユランを苛めていた勢いはどこに行ったのか、誰もが蛇に睨まれた蛙だった。


「あぁ、突然話に割り込んですまない。声が聞こえたものだからつい、ね」


「ヴィオレット、様……どう、どうして……っ」


「声が聞こえた、と言っただろう?」


 ヴィオレット様──ヴィオレット・レム・ヴァーハン様。

 誰もがその名を知っている、ヴァーハン家のご令嬢。良くも悪くも、有名で目立つ人。


 ユランが苦手意識を抱く要素のオンパレードの様な人。


 しかし彼女の登場に衝撃を受けたのはユランだけではなかったらしい。

 ユランを囲んでいた時はあんなにも自信満々だった癖に、瞠目しながら口をパクパクさせている様は金魚に似ていて間抜けだと思えるくらいには、当事者であるはずのユランも何処か思考が飛んでいた。この時の記憶が朧気なのはそのせいなのだろう。

 目の前で起こっている事が、どこまでも他人事で。救われている真っ最中だったと気が付いたのは随分後になってからだ。

 でもその時は、ただただ時間が早く過ぎて欲しくて。身動ぎもせず、視線を下げて心を閉ざしていた。


「大丈夫か?」


 ユランが聴覚を閉ざしたからではなく、実際に静まり返ったその場所で、ただ一人残った人は気遣う風でもなくそういった。

 手を差し出す訳でもない。優しく労る訳でもない。ただ本当に、疑問があったから問う、それだけ。


「…………」


「怪我をしているなら医務室に行った方がいい。生憎私も場所は分からないのだが」


 黙り込んだユランに、返答を求める事を早々に諦めたらしい。一人で話続けるその人は、ただただ異質な人だった。

 今までの人なら、ユランが返答しなかっただけで鬼の首でも取ったかの様に騒いだだろう。いやそれ以前に、ユランに話しかけようとする人間がいない。腫れ物扱いならまだマシで、身に覚えのない侮辱をぶつけられる事だって多かったのに。


「……、嫌じゃない、の」


「ん?」


「僕の目、変だって、偽物だって……だから、見るのも嫌だって」


 皆、そう言う。育ててくれた人がいくら肯定してくれても、見ず知らずの人から投げられる石の方がずっと強力で。姿を見せずに遠くから攻撃だけする、狙撃される方にとっては恐怖以外の何物でもない。

 そうやって、確実積み重なっていたコンプレックス以上の嫌悪感。自分の体でなければ今すぐ抉り取ってしまいたい。その天秤も、いつ視力から嫌悪の方に傾く事か。


 ユランという子供を捨てるなら、一緒にこの色も奪ってほしかった。

 剥奪するなら、根刮ぎむしりとって欲しかった。

 奪われるくらいなら、いっそ殺して欲しかった。

 死にたくなるくらいなら、産まれてきたくなんてなかった。


 こんな色、欲しくなかった。


「偽物なんかじゃない」


「っ……」


 力強い声に、肩が跳ねる。自己防衛、声色に思わず反応してしまったけれど、怒られるのとは少し違う。

 顔を上げると、睨み付けているかのような強い眼光とかち合って。でもそれを怖いと思えなかったのは、その表情が泣きそうに見えたから。

 睨んでいるからではなく、泣くのを耐えているから鋭いのだと、分かったから。


「人は自分以外にはなれない。誰かの偽物には、なれない」


 ゆっくりと、言い聞かせる様に、言葉を紡いでいく。辛そうに、悲しそうに、喉を潰して血を吐くように、ずっと欲しかった言葉が降ってくる。


「君は、君という本物だ」


「っ、ぁ……」


 気が付いたら、座り込んでいた。ヴィオレットが屈んで漸く目線があって、それで初めて自分の足に力が入っていないのだと知った。


「私は、ヴィオレット。君の名前は?」


「ぼ、く……ぼくは、」


 言葉が途切れる。声が千切れる。

 なまえ。名前。自分の名前。忘れた訳でもないのに、上手く紡ぐ事が出来ない。

 偽物に名前なんてなかったから。ユランの名は、嘘の名前だったから。自分以外にとって、ユランは偽物の名称だったから。

 弱い心の、一番大切で柔らかい所。これ以上傷付きたくなくて、汚されたくなくて、否定されたくなくて。音になる事を拒むように、喉の奥に引っ付いて離れない。

 恐怖と警戒心が、小さなユランの小さな心を守ろうとする。勇気を持てるだけの余裕は過去の記憶に枯れてしまった。

 どうしよう。どうすればいい。

 焦れば焦るほど、口は上手く回らなくて。いつまでも待たせては、また偽物に戻ってしまうのではないか。本物と言ってくれた目の前の人──ヴィオレットも、やっぱり偽物だったと、思ってしまうのではないか。

 泣きたくないのに、眼球が熱を持つ。どんな悪意にだって負けないと食い縛ってきたのに、その決意が今この瞬間潰えてしまいそうだ。


 悔しくて、辛くて、悲しくて。

 溜まった涙が溢れ落ちる、時。


「偽物なんかじゃない、君の名前を教えてくれ」


 花が咲いた様に、彼女は笑った。

 男の子の様に見える姿をしながら、男の子の様に聞こえる言葉を使いながら、彼女の笑顔は甘く優しく美しかった。


 女の子は、砂糖とスパイスと、素敵な何かでできている。


 どこかで聞いたマザーグース。歌っていたのが誰なのか、もしかしたら産みの母だったかも知れないし、今の母かも知れない。

 もうその声すら覚えてはいないけれど、記憶の片隅に残ったそのフレーズを、この時初めて認識した。


 認識した瞬間から、ユランにとってヴィオレットは、この世でただ一人の“女の子”になった。


「ゆら、ん……、ゆらん、くぐる、す」


「それじゃあ、ユラン。私はこれから食事をするつもりだが、一緒にどうかな?」


「っ、行っても、いい?」


「もちろん。誘っているのは私の方だからね……ユランが嫌でなければ」


「嫌じゃない……っ、行くっ」


 立ち上がり、先を行くヴィオレットを追いかける。同年代と比べても体の小さかったユランは歩くスピードも歩幅も違って、何度も距離が出来てしまったけど。

 その度に、振り返って待っていてくれた。


 恋を自覚したのは少し経ってからで、当時はまるで姉を慕う弟の様に後ろを付いて回っていた。シスコンの度が過ぎていたとは思うが、無意識に恋心が溢れていたのだろう。


 姉で、恩人で、女の子で、無意識下での初恋の人。

 ただ傍にいたくて、とにかく一緒にいたくて、会う度に突撃しては引っ付き虫になっていた。笑って受け入れてくれるから、もっともっと傍にいたくなって、実際にべったりくっついて離れなかった。

 好きで、大好きで、ユランの愛の形はヴィオレットだった。自分の愛を少しでも知って欲しくて、受け取って欲しくて、それしか見えていなかった。


『誰かの偽物には、なれない』


 自分を救ったその言葉が、その時正に彼女を苦しめているなんて、気が付きもしなかった。

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