私の主
優しい声が苦手だった。拒絶するのが、とっても酷い事の様に感じて。清い心が苦手だ。自分の醜さを突き付けられるから。曇りなき敬虔さが苦手だ。何一つ信じられない自分が、ひどく歪んでいる様に思えて。
そのどれもを持っている、親代わりのシスターが、どうしても好きになれなかった。
「マリンちゃんでしょう? その綺麗な水色の髪……大きくなっても見間違えたりしないわ」
振り返った先に居る人は、記憶よりもずっと小さい。それだけ長い間ここに来ていなかったのかと時の流れの早さを実感する。子供から大人になって、それでも拭えない苦手意識は、成長していない証なのだろうか。更新されていない記憶がどうしたって嫌な思い出を伴って襲いかかる。
駆け寄ってくる人に、笑顔を返せているのだろうか。昔から表情の変化に乏しい自覚はあったが、大人になっても大して改善はされなかった。口角が不自然に痙攣しているのが自分でも分かる。きっと、対面にいるシスターにも。不恰好な微笑みはさぞ哀れで痛々しく映った事だろう。
「今日はどうしたの? そのお洋服……お仕事はお休みかしら」
もう何年も会っていなかったというのに、マリンにとっては捨てた場所ですらあるのに、シスターは帰省した娘のように出迎えてくれる。かつては煩わしさしかなかったそれがどれほどの優しさと幸せで出来ているのか、大人になったマリンはよく知っていた。それでも、その幸せに順応出来る気はしなかったし、ぬるま湯に浸かる幸せよりも、灼熱の大地を進んで行きたかった。そうして見つけた居場所は何よりも尊い。知らずにいた方が平穏ではあっただろうけれど、あの人を知らずに生きる幸福と比べれば、そんな平穏は必要ない。
(──そうだ、私は)
あの人より大切なものはない。
優しい両親に可愛い子供、暖かな家庭。多くの人が当たり前に持っている愛を、夢を見る様に憧れた。美しさを増した笑顔でマリンを呼ぶ主の様に、自分も得られんじゃないかって。
憧れた。欲しいと思った。でも、無理だ。
「……シスター」
喉の奥で閊えていたはずの声は、思いの外伸びやかに響いた。誰にも、何にも、邪魔される事無く、シスターの耳に届いている。優しい笑顔が、ほんの少しだけ驚いたみたいに震えた。
「私を引き取って下さり、ありがとうございました」
手を前で組んで、ゆっくりと頭を下げる。
神様への挨拶すら覚えようとしなかった孤児は、女神と出会い、息をするのと同じ様にカーテシーを披露できる様になった。ヴァーハンの家で鍛え上げた作法は、誰にも文句を言わせない為の鎧だ。最愛の主にとって、自分の存在が決して弱点にならない為に。
あの人の為ならなんだって出来る。学ぶ事も尽くす事も厭わないし、何を捨てたって構わない。それが、漸く手に入れた家族であっても。己を置き去りにした両親と同じ選択肢を、きっと自分も選ぶ。
「あなた達のおかげで、私は、私の主を見付ける事が出来た」
衣食住の整った家、居心地の悪い優しさ、曇りの無い清廉さ。そのどれが欠けていても、マリンはヴィオレットに出会えなかった。そしてヴィオレットに出会わなければ、マリンはシスター達の抱く信仰を、今も理解出来ないままだった。
今なら、少しだけ、分かる気がする。傅き敬い、ただその為だけに生きようと思う気持ち。マリンにとって世界で最も尊いものがヴィオレットである様に、彼女達にとっての神様も、きっとそうなんだろう。
マリンがここでの生活で唯一得た愛の種は、神の為に咲かなかった。道端で薄汚く倒れていたそれを拾い上げ、柔らかな土と美味しい水をくれたのは、不貞を働いた母でも、血の繋がらない父でも、聖なる修道女でも大いなる神でもない、大きな屋敷で一人痛みに耐える女の子。
「私の幸せを見付けました。私に必要なものが何なのか、知りました。お迎えも、慈愛の手も、家族の団欒も、私にはいらなかった」
マリンの幸せに必要不可欠なもの、それはヴィオレットの人生だ。両親の迎えを期待していた、神様の救いの手を求めた、素敵な家族にも憧れた。でもそれは、天秤に掛かる事すらない。
マリンの唯一は既に決まっている。




