望む手放す
何故気になったのか、自分でもよく分からない。ただ漠然とした不安があって、それを解消する一助になるのではないかと思ったのだ。
久しぶりの中心街は、故郷と呼べる懐かしさを残していなかった。それは街並みが変化したからではなく、マリンの心情の変化かからくる印象だ。自分の基盤を作った場所ではあるけれど、大した思い出はない。生まれたから四つまで暮らした実の両親の事も、それから過ごした教会の事も、車窓から流れる景色を見ているかの様に、どれもが遠い。
(そっか、今日は休日……)
国民の信仰心は休日に教会へ赴くくらいには強くて、視界に入る人影は多い。記憶の片隅で色褪せた光景が重なる。あの頃も、増える気配と満ちる神聖さに背中を向けて、手伝いを願うシスターの声から逃げていた。不貞を働き、子を捨てる者にも救いを与えるという、どんな者にも幸せは訪れるという天啓が嫌いだったから。
修道服に身を包んだ乙女たちはさも美しい事の様に微笑む。では両親に傷付いて欲しいと願ったマリンは、どうやって生きれば良かったのだ。幼い自分を置いていった彼らに泣いて、迎えに来てもらえない事に傷付いて、私だってお前らなんか嫌いだと怒った。そのどれが間違っていたというのか。
「シスター!」
「こんにちは。今日もお祈りに来てくれたの?」
「うん! もうすぐお姉ちゃんになるから、赤ちゃんの分もたくさんお願いするの!」
「まぁ素敵。じゃあ次は二人でお祈りに来てね」
可愛らしい女の子が、箒で外掃除をしていたシスターに話しかけている。見守っている二人は、女の子の両親だろう。母親の方は大きなお腹に手を添えている。よりそう男性はその腰を支えるように抱いて、仲睦まじい夫婦であるのが見てとれた。
話しかけられているシスターに見覚えはなかった。マリンとそれほど歳は離れていなそうだから、当時からの人ではないのだろう。もしかしたら一緒に生活していた一人であるかも知れないけれど、人との距離を取りたがるのは昔から変わらず、当時の子供達なんて一人も覚えていない。
門の影から眺める光景は、ありふれた幸福の結晶だった。優しい両親に愛された娘、新たに生まれる命。教会を背景にした一幕は、絵画の題材になりそうなほど完成されている。美術館に行った事はないけれど、名画の前で人が思わず立ち止まるのは、こういう気持ちだからかも知れない。
なんて、遠い。
(……かえろ)
少しの寂寥感と、喪失感。憧れた全てはやっぱり手に届かない。だってきっと、手にした途端に怖くなる。お前のものだと差し出されたとて、きっと喜びよりも不安と焦りで愕然とするだろう。
何を望んでいたのか、何を望んでいなかったのか、分かった。分かって、しまった。
「……ぁ」
「あ、……どうも」
教会に背を向けた所で、少し先に見覚えのある赤髪を見付けた。話し掛けるつもりは無かったけれど、視線が合ってしまっては仕方がない。会釈を返して近付いて来るリツを迎える。
白いTシャツにデニム姿の彼は、やっぱり幼く見える。大人びたマリンと並べば、歳の離れた姉弟の様だ。赤い髪が昼の日差しを受けて鮮やかに輝いている。似ていると思った。今朝、鏡で見た自分の瞳と。
「以前教えて頂いたので、早速来てみたんです。聞いていた通り、随分と雰囲気が違いますね」
「休日で人も多いですから、余計にそう感じるかもしれませんね。でもこの辺りは住宅や教会が多いので、商店街の方はもっと印象が変わるかと思います」
「へぇ……本当に広いんですね。地図は一通り頭に入っているはずなのですが、それでも道が多くて」
伏せられた瞳に、赤い睫毛が影を落とす。長いというよりも濃い、赤。同じ色をしたマリンの眼球を、シスターたちは宝石や花に例えて褒め称えた。上等なものに例えれば、マリンがこの目を好きになるとでも思っていたのだろうか。母の恨みと父の憎しみを見て来た四歳児は、彼女達にとってそんなにも単純で清潔に映ったのか。子供の傷は、簡単に治ると思ったのか。
「──マリンちゃん?」




