未来と家族と
マリンには姓がない。生まれた時にあったそれは覚えていない。教会に住んでいた頃は、その教会の名を姓として名乗っていたが、随分前に捨ててしまった。
家出に近い自立を試み、ヴィオレットに拾われた日から、マリンはただのマリンになった。何度か使用人の誰かの養子になるか打診をされたけれど、どれも断って来た。働くに際して後見人は居たそうだけれど、いつの間にか消えていたので多分辞めたんだろう。契約についてあまりにも気にしていなかったせいで、居た時も居なくなった後も記憶には残っていない。
何故急にそんな事を思ったのか──きっかけは、ヴィオレットがクグルスの姓を名乗るようになった事だろう。それはヴィオレットがヴァーハンから解き放たれた証明であり、彼女を愛し抜いてくれる家族を得た瞬間でもあった。
最愛の人と結ばれた最愛の人は、世界で一番美しかった。月日が流れて家族が増え、母となった姿は、女神の様だと思った。愛する人の背に守られ、その腕に守るべき存在を抱えた彼女はもう、大丈夫だと。
その時、ふと考えたのだ。自分の未来と、家族について。
「縁談、ですか?」
「坊ちゃんが置いてった。マリにも来てるだろ」
「私のはヴィオレット様がお断りしてくれます」
「俺にもその気遣いが欲しいところだな」
「旦那様には無理な相談かと」
ユランが用意した白亜の要塞は、初めて足を踏み入れた瞬間から今も変わらずヴィオレットを守るための場所。マリンやシスイを受け入れたのは、ヴィオレットに必要な人材だからであり、それ以上も以下もない。故に、最近増えた縁談話に辟易していようとも、助け舟が出される事はない。
「シスイさんは、結婚しないのですか?」
「俺に出来ると思うのか?」
「出来るかどうかは兎も角、来る話を一つも受けていない事は知っています」
シスイへの縁談は昔からちらほら来ていたそうだが、どれにも首を縦に振らず、四十を超えた現在に至るまで一度も結婚していない。恋人の有無については聞いた事が無いけれど、シスイに恋心を抱いている同僚は何人か知っている。そして散った恋に耐え切れず、屋敷を去った元同僚がいた事も。
「結婚ねぇ……」
抱えたボウルの中身を混ぜていた手が止まる。一体何を作っているのかは分からないが、カウンターに並んだ材料を見るに、ヴァニラへのデザートを用意しているのだろう。三年前に誕生した天使を、シスイは変わらない表情と分かり易い態度で甘やかしている。その姿を見ていると、良い父親になるんじゃないかなんて、思うのに。
「いらねぇな」
簡潔で、心底どうでも良いという気持ちが、その一言に詰まっている。拒絶の色がある訳でもなく、不快感を覚えた様子もなさそうだ。いつもと変わらない態度で、積み上げられた縁談話を切り捨てる。興味が無い、それが全てなのだと。
「俺の人生に必要な物はもう揃ってるし、欲しくなったら自分で採りに行く」
「食材じゃないんですよ」
「同じだろ。したいしたくないで考えるからややこしいだけで、要は相手の人生が自分にとって必要かどうか。俺は要らん」
きっぱりと言い切ったシスイは、今回の縁談も同じ様に断るのだろう。彼の芯はいつでも自分自身で、どんな相手や条件であろうとそれが他に変わる事はない。
出来ないでもなく、したくないでもなく、いらない。シスイの人生に結婚や伴侶、子供は必要ない。
「そう、ですか」
何故だろうか、彼らしいと思うのに。
要らないというその声が、胸にチクリと刺さって抜けなかった。




