まだ恋に育たない感情の話
初めて『結婚』という言葉を口にしたのは、まだ当たり前に庭を走り回っていた少女時代。結婚とは、大切な人と一生一緒にいられる約束なのだと思い、両親や兄に結婚してとねだった。随分と可愛らしい思い出だ。自分を溺愛する兄は大喜びで、今でもよくその話をしては懐かしんでいる。
次に『結婚』を意識したのは、自分が姫であると自覚した時。優しい両親や甘い兄は決して言葉にしなかったけれど、自分はいつかどこかの国のやんごとなき血筋に嫁ぐのだろうと。幸い巷の女の子達の様に恋愛小説や運命の恋に憧れる性格ではなかったから、それで家族の、国の役に立てるなら構わないと割り切っていた。そんな事よりも、図鑑の中の珍しい色のトカゲに夢中だった。
まさかその時は、その珍しいトカゲの生息する国に嫁ぐ事になるとは思っていなかったけれど。
「ふぅ……」
「今何か用意させているから、少し休むといい」
「すみません、ありがとうございます……」
柔らかなソファに腰を掛けた瞬間、思わず息をついてしまった。身体の力が抜けて、少し深く座り過ぎたかもしれない。教育係にでも見られたら長めのお小言が始まりそうだが、今は未来の夫と二人だけ。相手が王子様である事を考えると、気を抜いて良い相手ではないかもしれないが。
「これで漸く半分と言った所だが……大丈夫か?」
「私よりも、クローディア様の方がずっとお疲れではないですか?」
「俺は見知った相手が多いから。それに君の紹介な訳だし、ずっと気を張っていただろう? やはり少し予定を変更した方が」
「いえ、大丈夫です。今が一番の頑張り時ですから」
クローディアとの婚約を発表し、あらゆる人へ紹介された。覚悟はしていたけれど、正直ロゼットの想像以上にであった。国の大きさが違うなら、あらゆる物事の規模が違うのは当然。平和で小さなリトスとは比べ物にならない重圧に晒される日々だ。
いずれこの国の王妃になるのだから、このくらいで音を上げる訳にはいかない。というか、このくらいで音を上げていてはこの先やっていけない。今が一番忙しい時期ではあるが、この先にあるのは失敗の許されない虚勢の座。値踏みされ、嘘を投げ付けられ、血を流しながらも無欠の笑みで手を振らねばならないのだから。
「無理をし過ぎても後に響く。理由はどうとでもなるのだから、少し自分の時間を取るといい」
そういってこちらを気遣う婚約者は、顔色一つ乱していない。この国が求める完璧な王子様のまま。おとぎ話から出て来た様な美しさのまま。自分以上に背負う物の重い彼は、それを感じさせない姿勢で凛と立っている。それは覚悟の差なんて大袈裟なものではなく、単純にこの重みを日常として生きてきた故の力。この期待の中で、育まれた人。
(……意外と、欠点が見つからないわね)
未来の妻としては喜ぶべき所かもしれないが、未来の王妃としては少々厄介だ。ロゼットに求められるのは彼を支える事であり、その意味はクローディアに足りない『何か』によって大きく異なる。
愛想が無いなら、彼の分まで微笑めば良い。言葉が足りないなら、それを補足する言葉を使えば良い。逆に喋り過ぎるなら、無邪気なふりで遮れば良い。
クローディアを支える──欠けている部分に添う形の王妃になるには、あまりにも揃い過ぎている。少なくとも、今の所は。
「思っていたよりも手強いのですね」
「……何の事だ?」
「いえ、こちらの話です」
どうであれ、成さねばならぬ事だ。
この国で生きる、この国の王妃になる。それはもう、変わらぬ未来なのだから。




