victim
日々が過ぎるのは早い、歳を重ねるごとにそう思っていたが、子を産んでからは更にそれを実感するようになった。
「かーたま」
「ヴァニラ、どうしたの?」
「マリたんどぉこ」
「マリンはお洗濯に……行きたいの?」
「マリたんふわふわちてくれるって」
「ふわふわ……?」
今年三歳を迎える息子・ヴァニラは、小さな手をひらひら上から下へ。舞い落ちる葉の様にも見えるが、ふわふわと言われると首を傾げる所だ。意味を訪ねたいけれど、ヴィオレットと同じ様に首を傾げてきゃっきゃと笑っている様子を見ると、ふわふわ以上のヒントは得られそうにない。
最近マリたんと呼べる様なり、ヴァニラ本人はご満悦でマリンの後ろをついて回っているのは知っている。その時に何かしたのか貰ったのか、どちらにしても、マリンであればヴァニラを危険に晒す真似はしないだろう。以前ヴァニラが顔から転んだ時は、半分泣きながら飛んできたのは良い思い出だ。当の本人はマリンの腕の中で目をぱちぱちさせて何が起こったかもよく分かっていない様子だったが。
「そうねぇ……行ってみましょうか」
「あーい」
「でもお仕事の邪魔はしない事」
「あい」
分かってるのかいないのか……恐らくいないのだろうが、返事だけは綺麗に手を空へと伸ばしている。小さな体を抱っこして運ぼうかとも思ったが、最近は抱っこよりふらふらと興味の赴くまま進むのがお気に入りな様で、小さな歩幅の導くままに後ろをついて回る事が多い。と言っても、室内でしか出来ない事である。庭で放り出そうもんなら、小さな体と旺盛な体力を駆使されて、あっという間に捜索隊の出動だ。
足元でちょこまか動く、薄い灰色を眺める。天使の輪が煌めきく絹のような髪。目に入らぬ様にと短く切り揃えた毛先が動きに合わせて揺れている。ヴィオレットの後頭部で揺れる馬の尻尾も、同じ色で、同じ様に揺れている事だろう。
子猫の様なまあるい目、縁取る睫毛、頬の曲線から唇の厚さまで。息子は本当に自分とよく似ている。彼の歳、ヴィオレットは既に少年だったから、余計にそう思えるのだろう。
可愛い息子。ちゃんと愛せている事に安堵したのは、彼が初めて母と呼んだ日だ。無邪気に笑い手を伸ばすヴァニラに、溢れる涙が止まらなかった。産むまでの不安なんて赤子の育児ですっ飛んでいたから、心の堰堤が思い出した不安と解消された安堵の二撃を防げなかったせいともいえる。
「ばにあ、ふわふわふーってつうの」
「まぁ楽しそう。母様にも教えてね」
「んっ! ばにあがちてあげうね」
「ふふ、ありがとう」
にぱーと機嫌よく笑うその瞳は、一瞬黄色にも見える。しかし瞬くと暗い様な気もする。灰色がかった黄色い瞳、ヴァニラが遊んでいる砂場と同じ色の目。金色だと唱える者と、混ざり物だと貶める者がいるそうだが、屋敷を出ないヴァニラの耳には届いていないし、ユランもクローディアも考えがあるそうなので、ヴァニラが外の世界へ出てからも聞かずに済みそうだ。
「マリたーん、ふわふわぁ」
「ヴァニラ様? どうしてここに……」
「仕事の邪魔してごめんなさい。ヴァニラがマリンと約束か何かしたって……」
「ふわふわつうの」
「ふわふわ……あぁ、これの事ですね。丁度洗う物もなくなったので、使っても大丈夫ですよ」
さっきまで使っていたらしい手洗には白い泡がふわふわと震えている。漸くふわふわの意味を理解した。ふわふわの、泡の事であったらしい。興味深そうに指先で突いては、こぼれ出るシャボン玉を眺めて、また指で突いてを繰り返している。
「前にシスイさんが食器用洗剤を使っている時に見たそうで。でも流石に食器用の洗剤は触らせられないので、こっちだったら手洗いにも使っている固形石鹸ですから」
「あの子、またシスイの所に行ったのね」
「試作品のおやつが貰えるって覚えちゃったみたいですね。シスイさんは糖分とか夕飯がちゃんと食べられるサイズとか、色々練って楽しそうですよ」
「まぁ、元々家の食事は全部彼に任せてるしそれは良いんだけど、他の仕事の邪魔にならないかしら」
「ヴィオレット様も似た様な事してたから慣れてるそうです」
「流石にもう少し大きかったわよ」
生家にいた頃はシスイが工夫してくれるまで食事らしい食事をしていなかった。出された物を文句を言わずに口に詰め込む作業で、母が居なくなってから吐き出してしまう事も多々。気持ち悪くなるくらい食べたのにお腹が空いてどうしようもないという二重苦。
その度にシスイがお菓子を作ってくれて、食べたい分だけ食べさせてくれた。幼いヴィオレットにとってはそれが生きる糧と言っても過言ではないくらい、毎日母に隠れて彼の足元をうろついたものである。
「そういうも似るんでしょうか?」
「どうかしら……シスイが居れば皆そうなるって事かもよ?」
「それもありえますね。後輩がシスイさんのまかないに胃袋を掴まれたと」
「あらあら」
「かーたま、ふーってみててぇ」
「はぁい、ちゃんと見てるわ」
手の平に付いた泡を吹くと、子供の吐息ではポロンと地面に落ちるのが精一杯。それでも得意げな息子に拍手を送ると、照れ臭そうに両手で口を押えていた。手に残った泡でふわふわのひげを作っている。
「こっちにおいで、お顔を拭きましょう」
「いいやよ」
「それはどちらかしら? そのお口じゃあお夕飯が食べられなくなってしまうわ」
「やぁよ!」
「はいはい、ふわふわはこの辺にしましょう。父様ももうすぐ帰って来ますよ」
「とぉたまくる?」
「えぇ。ヴァニラのおひげを見たらびっくりしてしまうわ」
少し強引にハンカチで口元を拭ったが、ヴァニラの興味はもう父の帰宅時間にすり替わったらしい。いつ来るの、今来るのと、かがむヴィオレットの首にしがみ付いて駄々を捏ねている。
「もうすぐですよ。でもヴァニラ、父様とのお約束はいいの? お出迎えはお片付けが終わったら」
「おかたちけちたの。ばにあちゃんとちぃた!」
「まぁ凄い。とっても偉いわね。じゃあ手を洗って、お着替えしたら行きましょうか」
「あいっ」
ぷんぷん怒ったかと思えばすぐに元気よく敬礼して見せる。幼子の機嫌は秋の空なんて可愛らしいものではない。一つ一つに丁寧なリアクションを取っていては、一日が三倍の長さであっても足りなくなってしまう。
手洗いと着替えが済む前にユランが帰って来るかは正直賭けだが、その対応はその時に考えよう。息子の好奇心がどこで発動するか分からない以上、先々の予定は詰めるだけ無駄だと、この三年で身に染みた。
「とぉたまにみてみてちるの」
「そうねぇ、今日はどれにしようかしら」
「みてみてはきあきあなの!」
「キラキラのは昨日着てなかったかしら」
「あるのぉ!」
「じゃあそれにしましょっか。楽しみねぇ」
「ねー」
「……ヴィオレット様、さっきの洗濯で全滅した気が」
「……一緒に来て、お願い」
結論として、道中で予想の三倍、着替えに七倍の時間を要した。キラキラ大戦争を演じた部屋は泥棒でも入ったかの様な有り様で、当然ユランのお出迎えには間に合わず。わざわざもう一度玄関前で待機してもらい、なんとか収める事が出来た。
「とぉたま、ふわふわちたの」
「ふわふわ……?」
「ばにあ、ふーてできるのよ!」
「そっかぁ、凄いねぇ」
「しろさんなるの。とぉたまびっくりつう?」
「そうだねぇ、びっくりだねぇ」
「ちあう! びっくりちないの!」
「あれぇ……?」
「ふふ、頑張って」
息子は今日の事を必死に話しているが、ただでさえ滑舌の怪しい幼子のお喋りに、時系列もめちゃくちゃなので、正直一緒にいた身でも割と分からない。必死に頷いているユランには申し訳ないけれど、多分ヴァニラはもう聞いた単語を繋げているだけで、伝えたい事はない。しいて言えば、新しく覚えた単語を使いたい、以上。
「ほらヴァニラ、食べ終わったなら歯磨きをしましょう」
「まあだよ」
「シスイのおやつは有りませんよ」
「やあ!」
「あら、今日はもう食べたって聞きましたよ。おやつは一回だけ、シスイとお約束しましたね」
「やあの!」
「やでもないものはないのよ」
ぴしゃりと言い切ると、一瞬の静寂。しかしヴァニラの目にはふつふつと水分が溜まり、ポロンと一粒溢れると同時に、肺にあった空気が悲鳴となって弾けた。
「やあなのぉ!!!!」
びーびーと泣き喚く声が、警報も真っ青の音量で部屋に響き渡る。日に日に音量が上がって聞こえるのは、気のせいではないのだろう。赤ん坊の時はどれもただの泣き声だったのに、今では涙にも種類を持たせられる様になった。因みに今のは怒っている時の奴だ。
「あれまぁ。俺が食べ終わったらお風呂に連行するねー」
「ありがとう。着替えは後で持っていくわ」
「うん。今日は長いかなー?」
「そうねぇ、途中で寝ちゃうんじゃないかしら」
「あーそうかも。既に泣き疲れ始めてるし」
「ペース配分が下手な所は助かるわ」
「長くて二分くらいしか持たないもんね」
× × × ×
泣きじゃくった時の予想通り、ヴァニラはお風呂の中でこっくりこっくり船を漕ぎ始めたらしく、出てくる時にはほとんど寝ているのと同じで。話し掛けると何となく頷くが、着替えの為に手を上げて言ってもゆらゆらするだけ。部屋に戻る頃にはすっかり夢の中へ旅立っていた。
「寝付きがいいねぇ」
「夜泣きは大変だったけど一人寝はスムーズだったわね」
「寝起きも良いしねー。俺と正反対だ」
「そこは私とも似てないわね」
隣の部屋で眠る我が子を思い、つい声を潜めてしまうのは何故だろう。扉を半分開けているとはいえ、彼を起こしてしまう程の音量は届かないだろうに。
「ヴァニラはヴィオちゃんにほんとよく似てるから、似てない所の方が少ない気がする」
「シスイも言っていたわ。幼い頃の私と同じ行動をしてるって」
「そう言えばあの人ずっと昔からあの家にいたんだっけ。俺もあのくらいのヴィオちゃん見たかったなぁ」
「ふふ、性格は兎も角、見た目はヴァニラとそっくりよ。髪型とかは拘ってみたいだけど、それくらい、で……」
昔自分を、何故こんなにもはっきりと思い出せるのだろう。ヴァニラと同じくらいの時なんて、物心ついたかどうかの境目だ。事実、シスイに纏わりついていたのだってもう少し大きい時の記憶だし、それより前の事は、電源が入っていなかったかの様に真っ暗。
一番、古い記憶は。
「……ヴィオちゃん?」
「ッ……あ、ぁ……ごめんなさい、ぼーっとして」
「ううん、大丈夫だよ。何か考え事?」
「いいえそういうんじゃ…………少し、思い出してたの。私の一番古い記憶」
「一番?」
「そう。ユランは分かる?」
「うーん……多分、クグルスに来た時とかかなぁ。王への謁見もそのくらいの歳だった気もするけど、順番曖昧なんだよね」
「最年少での謁見だったんじゃない?」
「極秘だったし記録に残してないでしょー」
「まぁ残念。……私は、ヴァニラと同じくらいの歳」
三歳かそこらの、まだ母に甘えていた少女が、少年へと作り替えられた日の記憶だ。
「母に、髪を切られた時の事よ」
鋏を持って笑う母の顔を鮮明に覚えている。あまりの恐怖に漏らしてしまったんじゃなかったか。水溜りに座り込んで泣く娘と、その髪を切りながらご機嫌に鼻歌を歌う母。そして全てを終えると、鏡の前に無理矢理立たされた。
記憶を頼りに父の髪型を模倣しようとしたのだろうが、ずぶの素人にそんな真似が出来る筈もない。綺麗な断面が不揃いに重なるざんばらになった髪は、畑で項垂れる案山子の方がずっと綺麗だった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が見える。
息子と同じ顔だった。父と瓜二つと言われた、私が立っていた。
「独り言よ。明日には忘れるわ」
「…………」
「ヴァニラを見てると、時々ゾッとするのよ」
最愛の息子。私によく似た子。
父に似た、私に似た、男の子。
「──もし今、母が生きてたらって、想像したら」
あの人は必ずヴァニラを奪いに来ていただろう。文字通り、どんな手段を使っても。
背筋が凍る、指先からどんどん体温が失われていく。ヴィオレットが解放されたのは、女だったからだ。女として成長したから捨てられた。母の望みを、女のヴィオレットは絶対に叶えられないから。
では、男であったなら。男のヴァニラなら、あの人は。
「分かるのよ。あの人は絶対に父を……望んだだけ愛をくれる『オールド』を作り上げる」
ゾッとするなんてもんじゃない。仮にも血の繋がった孫をだなんて倫理、娘を夫にしようとした時点で破綻している。そして父本人が、それを幸いとでも思って三人家族幸せ暮らしましたで閉幕。あまりにも現実味のある想像に、ある種の実体験に、震えすら覚える指先を大きな手が包み込む。
「でも……同時に安心するのよ」
全身に纏わり付く、筆舌尽くしがたい嫌悪感。吐き気がした。己に降り掛かった時よりも、何倍何十倍もの不快感に襲われた。
脳裏に過る『もしも』が恐ろしく堪らない。けれど、絶対に実現もしない。
「…………良かった」
重い吐息と共に吐かれた言葉、安堵と同じだけ懺悔の色を秘めている。
「あの人が、死んでて良かった……ッ」
何度も思った事のある、でも言ってはいけない、絶対に、口にしてはいけないと、思っていた。それが道徳であり、倫理である。命が尊ばれるのと同じ、死もまた悼まれなければならないもの。分かっている。知っているからこそ、父にも祖父にも非難の念を抱いたのだから。
でも、ヴァニラを見ていると、どうしても思ってしまう。この子を見せられなくて良かった、会わせられなくて良かった。あの人がこの世にいなくて、良かった。
もう誤魔化しようがない、紛れもない本音だ。何て非道な人間だと己を責める声は当然ある、でもそれ以上に、ヴァニアが守られた事実の方がずっと大切で。あの子に魔の手が迫るくらいなら、非道の謗りくらい甘んじて受け入れよう。
「独り言よ、明日には、忘れてる」
「……俺も」
「独り言?」
「そ、独り言。俺も同じ事、思ってたよ。ずっと」
ヴィオレットがヴァニラを通して思った事を、ユランはヴィオレットを通して思った事がある。これ以上彼女が傷付けるなという怒りの分、もっとはっきりした殺意を抱いた事が、幾度となく。
「私達、こういう所似てるわよね」
「だねぇ。でもまぁ、良いんじゃない?」
繋がった手から、触れる腕から、もたれる肩から、体温が移る。分け合う様に、補い合う様に。とくんとくん、二つの心臓から聞こえる一つの心音。微かに感じる鼓動が、ゆっくりと重なっていく。
「夫婦は似ていくって、よく言うじゃない?」




