表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
235/253

mary journal


 私の人生には幸福しかない。困難に直面したら、優しい誰かが助けてくれる。私も誰かを助けたいし、そういう優しさで、世界は溢れているはず。

 それは確かに正しかった。あまりにも、痛みを知らぬ正しさだった。

 誰かの涙を拭いたくて振るった優しさが、刃になる可能性すら知らぬ、愛が優しさだけで出来ていると信じた赤子の愚かさで、私は大切な人の一番柔く脆い場所を叩き潰した。


 美しく整えられた私の世界。愛だけで構成された箱庭の中で、私は、私の背後の出来事を何一つ知らずに愛を騙っていた。



× × × ×



 姉がいると知ったのはいつだったか。きっと存在は昔から知っていた。ただ一度も姿を見た事がないから、私にとってお姉様は、初めましてをしたあの日突然生まれた人だった。

 美しい女性。視界に入っただけで全ての感覚を持っていかれる様な、そういう雰囲気を纏っている。温かさより冷たさを、柔さより硬さを感じさせる、氷の彫刻の様な美貌を携えた人だと思った。父によく似ている。鋭い目つき何か、私とは正反対で。丸くて子供っぽい私とは、似ても似つかない。半分は同じ血が流れているはずなのに、きっと並んだって、誰も姉妹だとは思わない。

 あまりにも違うから、急速に憧れた。遠くに手を伸ばす様に、ただその背を求めた。見れば見る程に美しい姿が、あまりに印象的だった。人が宝石に目を奪われる気持ちが理解出来た気がした。

 お姉様と呼べる事が幸せだった。理由なく隣に並ぶ権利を貰えたのだと、勘違いした。何も知らないくせに、何も教えていないくせに、お互い知らない事はないのだと思い上がった。姉妹という言葉に甘え切っていた。


 私は何も知らない。突き付けられた現実は、あまり鋭く私を抉る。


 笑う人が楽しんでいるとは限らない。言葉通りの事を考えているとも限らない。愛を尊ぶ口で人を詰れるし、笑顔で刃を向ける事だって出来る。優しい人が、優しいままでいる事は、当然でも簡単でもない。


 大好きで、かっこよくて、美しいお姉様。私の振り翳すものの危うさを教えてくれた。向かうべき方向を示してくれた。その背を追い掛けて行けばいいのだと、私は、甘えた。示されたなら考えなければならなかった、意味を知らねばならなかった。いつだって、導かれる方には答えがあったから。いつだって目の前にぶら下がっている答えに従えば優しい世界に浸っていられた。

 優しい父が用意してくれた、私の為の優しい世界。なんて幸せなんだろう。なんて、素晴らしい世界だろう。見渡す限り美しい箱庭。当然だ。父が、美しい物だけを選別してくれていたんだから。尖った物も鋭いものも、重い物や硬い物すら入っていない、そういう小さな箱の中で、大事に大事に愛された。


 お姉様もそうだって、思ってたの。あの日まで、本当に、何一つ疑問を持たなかった。


 鮮烈な殺意を持って笑うユラン君が示した道は、進む度に棘が食い込む茨の道だった。痛みで身じろぎするとそれでまた傷が増える様な、痛みの為に存在する場所。進みたくなかったのは、棘が痛かったからだけじゃない。一歩進む度、この先にある答えを知るのが怖い。引き返して、知らぬままにしてしまいたい。そうすれば私はまだ、父をお父様と呼んでいられる。お父様を愛し愛される娘でいられる。

 私は家族を愛している。祝福の下に生まれ落ち、愛を注がれ育つ。それが家族の形、在るべき、当然の姿。家族こそが私の幸せの象徴で、いつか両親の様な恋をして、愛する人との子を抱き眠るのだと、疑いもせず信じてきた。

 大好きなお姉様の手で粉々に砕かれるまで、私は無神経な希望を振り撒いていた。


 お姉様、私は、あなたを愛し愛されたかった。そんな家族になりたかった。

 私達なら、お父様と、お母様と、お姉様と私なら、世界一素敵な家族になれるって、信じていたんです。可笑しいですよね、どうして、私達が受け入れる側なんだろう。

 お姉様のお母様の事も忘れて、お姉様一人捨て置いた事も忘れて、都合よく家族にしてあげる、なんて。なんて、傲慢なんだろう。私達がすべき事は、お姉様を待つ事だった。お姉様が良いよって言うまで、ただジッと、受け入れて貰える日を待つ事だったのに。

 私達は間違えた。私も、父も、母も。全部、初めから間違っていた。ごめんなさいと謝る時期すら越えて、私達はもう、交われない所まで誤った。

 

「メアリー……迎えが来たよ」

「ありがとうございます」


 少しやつれた様に見える父の顔に、鼻の奥がツンと痛くなった。用意していたトランクを手にして大きく息を吸う。泣く訳にはいかない。泣く理由は、一つもないはずだ。


 お姉様、私、お嫁に行くんです。ヴァーハンの遠い血筋だと聞いているから、お姉様の親戚の方の所に。私よりも、お姉様よりも、クローディア様達よりもずっと年上の方で、私よりも母との方が近いかもしれません。一度だけお会いした時は柔和な方の様に思いましたけど、人は顔と口と心で別々の事を考えられるって、今はもう知っています。未来のヴァーハンを担う為に、つまり、政略結婚ですね。少し不安ですけれど、覚悟は決まっています。選択肢はないのだから、後は私の心次第。

 ねぇ、お姉様。私、色んな事を知りました。

幸せにだって裏表があって、一面だけで判断出来る程簡単ではない事。

優しさだけでは人は成長しないし、厳しさだけでは潰れてしまう事。

愛はクッションにも毛布にも、時には鞭にも刃にもなり得る事。

 心は柔く、儚く、決して強くなんてない事。だからこそ大切にしなければいけない事。そして、強くなくとも弱くもない事。

 

 箱庭で手入れをされていたメアリーちゃんでいられなくなった私は、真っ直ぐ歩くだけでもあちこち傷だらけになるんだろう。それが成長であると、今なら分かる。傷だらけでも進まねばならない道があると、もう、知っている。抜けなくなった棘を抱えて、私は歩ける。

 

 美しく整えられていた私の世界。愛だけで構成された箱庭を出て、私は、沢山の血と涙を背負って、生きて行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ