old junk
どこで間違ったのだろうか。俺の人生は、一体どこから。
全てが順調であった訳ではない。何もかも思い通りにはいかなかったし、才能があった訳でもないからいつだって必死に努力してきた。選ばれる人間になる為に、選ばれた先できちんと力を発揮できる様に。
期待に応えて来た。期待以上の結果だって出した。選ばれた立場にいる人間として、望まれるものをきちんと、与えて来たはずだった。
俺の、何がいけなかったのだろうか。
× × × ×
人生には様々な転機がある。運命と言ってもいい。それはいつも、無意識に選んだ後で気が付く。そして大抵が、手遅れになった後なのだ。
俺の人生の転機。一つ目が正にそれだった。そもそも、俺に選択肢すらない。濁流へ飲み込まれる様にして、俺の運命は決定付けられていた。
「これからよろしくね、オールド」
真っ赤な目に射抜かれる。それは死神の鎌を思わせる曲線を描き、胸を圧迫する甘ったるい猫撫で声も合わさると、死刑宣告でもされている気分になる。
派手でわざとらしい女。それがベルローズへの第一印象。美しい顔立ちをしているとは思ったが、それだけだ。初対面を済ませる間もなく婚約なんてスピード感は、若輩者を置き去りにして進む。政略結婚、それも俺にとって一生に一度と言えるチャンス。公爵家の一人娘に見初められた俺は、きっとそこで人生の運を全て使い切ったのだ。
恋はなくとも愛は生まれる。少しずつ家族になれればなんて、悠長に構えていた俺が悪いのだろうか。初めましてと同時に婚約した相手を、好きになれないのは可笑しい事だろうか。あぁでも、少なくともベルローズの方は俺を強く強く、本当に強く愛していたらしい。その想いに応えられなかった事は、少しの間申し訳なく思っていた。ほんの僅か、瞬きする間に、罪悪感は嫌悪感に変わっていたけれど。
ベルローズは、俺に近付く女性全員に牙を剥いた。それはそれは獰猛で、一度噛み付かれたら根こそぎ食い千切られる様な力で。使用人も、同僚の妻も、果てにはただ挨拶しただけの人にまで。公爵家の一人娘が振るう武器の威力は、大抵の人間にとって瀕死の重傷だ。やめてくれと何度頼んでも治まる所か増すばかりで。全ては俺の為、俺への愛なのだと謳う。
少しずつひび割れて行く。家族という枠組み、育むはずだった愛が。ぼろぼろと破片が落ちる、亀裂が走る。最後の一撃は一体何だったのか、それすら思い出せないくらいに、俺の常識や道徳はサンドバックとなり役目を終えた。
もう無理だ、どうしたって、俺は彼女を愛せない。
エレファとの出会いは、ベルローズに疲れ切った俺にとってオアシスを見付けた様に思えた。いつだって優しく、穏やかに、ただ受け止めてくれる聖母の様な女性。天使の様な笑顔で、女神の様な心根で。
この出会いは運命だ。俺は彼女を愛する為にいるんだと、本気で思っていた。ずっとずっと、俺にとってエレファは地上の楽園で。彼女への愛が増せば増す程、ベルローズの嫌悪は憎悪へと姿を変えて。
顔も見たくない、声も聞きたくない、指一本触れたくない。俺が愛しているのはエレファだ。触れるのも触れられるのも、彼女だけであるべきだ。この腕に抱く温もりは、エレファの体温だけで良かったのだ。
義父の言葉さえなければ、俺はベルローズに触れたりしなかった。
後継ぎを作れと。ベルローズとの間に子を成せと。性別は問わない、どちらでも使い道はあるからと。耳にした時は唇を噛み切り、吐き出したくなる呪詛を飲み込むのに必死だった。エレファという妾を許しているのだから、最低限の義務を果たせと、そう言われている気がした。国に対して真摯に向き合う男は、個人に対しての人権など眼中にないらしい。王にすら進言出来る義父に、婿に入っただけの俺が何を言えるというのか。ただでさえエレファを囲う事を見逃して貰っているのに。
断腸の思いだった。日数を計算して、子を成す為だけに会い、眠る事なく愛する者の待つ別邸帰る。こんな現実を抱え切れず、エレファに謝るしか出来ない己の惨めさといったらない。ベルローズの妊娠を聞いた時は、漸く解放される事への安堵しかなかった。
生まれて来る子を憐れには思う。しかし、あれの血が流れる赤子を、この腕に抱きたいとは思えなかった。無事に生まれてくれればそれでいい、それで俺の義務は終わり。それだけを願っていた。
生まれてきた女児は、腹立たしい程俺に似ていた。
髪も目も、肌の色も唇の形も。幼い頃の自分を見ている様で、その体内に、ベルローズの遺伝子が組み込まれているかと思うと、僅かながらにあったはずの子への愛は圧倒的な嫌悪で押し流される。
顔も見たくない、声も聞きたくない、指一本触れたくない。その対象は子が生まれた事で二人に増えた。ベルローズが赤子を溺愛していると伝え聞けば、その気持ちは更に強く、硬く。揺るがぬ怨恨となり俺を巡る。ただ嫌うだけでは、この思いを表す事は出来ない。
どうか傷付いてくれ、どうか悲しみ苦しみ、泣いて許しを乞うような人生を。俺にとって初めての娘──ヴィオレットは、もう『子供』ですらなかった。
そして俺の元に天使が舞い降りる。
エレファによく似た、愛らしい純白の天使が。
最愛の娘にはメアリージュンと名付けた。そういえば、ヴィオレットはいつ名が付いたのか、それすら俺にとってはどうでも良かった。
愛しい天使、愛する女神。二人がいれば俺の人生は幸福に満ちていたし、ヴィオレットが居ればベルローズだって満足だろう。別邸という住処と、エレファが愛人に追いやられている現実は唾棄すべきものがあったが、それでも俺は幸せだった。
ベルローズが死んだと聞いた時、俺はもっと幸せになれると思った。
ベルローズがいなくなれば、エレファを妻に出来る。義父がどう出るか分からないが、ヴァーハン家に未婚の女性はいないはずだ。既に当主の座は俺に渡って久しい。今でも多大な権力を有する義父ではあるが、俺に寡夫を強制する権利はない。
ベルローズの葬儀は義父が滞りなく進めたらしい。全てが事後報告であった事は少々不服だったが、再婚の許可はなんの問題もなく貰えたので良しとしよう。
これでようやく、エレファ達と家族になれる。メアリーの父になれる。彼女達に最上級の生活と教育を与えてやれる。
ベルローズの訃報を告げた時、エレファは涙を流した。子供の様に泣きじゃくり、嘆き、俺達を引き裂いて来た女の死を悼んでいた。何と清い女であろう。身も心も美しい。俺の目に狂いはなかった、彼女こそ、俺が生涯かけて幸せにするべき人だ。
美しく優しい妻。愛らしく聡明な娘。仕事も家庭も何一つ問題ない、最高に理想的な生活。誰もが羨む、完璧な家族。この幸せが一生続くのだと、欠片も疑っていなかった。
俺は、どこで、何を間違ったのだろう。
坂道を転がる雪玉の様に、小さな問題がいつの間にか手に負えない災害となって襲い掛かって来る。いつから転がっていたのか、防げなかった一つ目以降、俺の人生の転機は何処だったのか。
雪玉の過ぎ去った道には踏み潰されたオアシスがある。愛しの聖母、最愛の天使、思い描いていた明るい未来。そのどれもが見る影もない。聖母の顔をした魔女が笑い、羽根を捥がれた天使が横たわる。
エレファの笑顔がベルローズに重なったその日から、俺は幸福の全てを失った。エレファの望む娘はいない。メアリーは、ヴァーハンに連なる血筋の誰かに嫁ぐ事になるだろう。愛が芽生えてくれればと願うけれど、彼女はもう、選択する事すら許されない。
エレファとの幸せな夫婦生活。メアリーの順風満帆な学園生活。いつか彼女が誰かと恋に落ち、バージンロードを共に歩く日。思い描いていた未来は、どれもこれも錠が掛かって開かない。
鍵はもう、どこにもいない。




