elena fiction
初めて見た時から好きだった。この人と結ばれる為に生まれたんだと直感した。
氷柱の様に伸びた背筋と、鋭い眼差し。遠目に見ても美しい男。私だけでなく、会場中の女が欲の孕んだ視線を向けている。存在感が違った。周囲の全てが彼を際立たせる為にいる様に、一人だけが鮮明だった。
私はこの人の為に生まれてきた。だからきっと彼もそう。
私達、幸せになる為に生まれて来たのね。
× × × ×
両親がなくなったのは、私が働き始めてすぐの事だ。私は一人で家業を続ける事になった。貴族御用達なんて仰々しい看板を引っ提げてはいたが、結局の所は街の花屋。時折来るパーティー会場への搬入以外はのんびりとしたものだ。残された家と伝手を使えば女一人食うに困る事もない。毎日花を眺めぼんやり生きる。平和だけれど退屈な毎日だった。
平凡な人生だった。運命の人と出会うまでは。
搬入作業の途中、見掛けた人。薄い灰色の髪と目がとっても素敵で、おとぎ話の王子様よりも強く冷たく、そして何より美しい男。一目で恋に落ちた。私の人生は彼と出会う為にあったのだと確信した。これまでの選択肢は彼に出会う為の道筋であったのだと。彼と出会う為に花屋を継いだ。彼と添い遂げる為に独身だった。彼の子を産む為に女に生まれた。
あぁ、私は、なんて幸せなんだろう。赤い糸に導かれ、運命の相手に出会った。今日ほど神に感謝した事は無い。神は私を祝福している。
「待っていてね、運命の人」
私が貴方に辿り着くまで。
× × × ×
彼の名はオールドというらしい。名前まで美しいなんて、私の運命の人は本当に完璧だ。仕事も出来て、今度公爵家の一人娘と結婚するそうだ。そんな凄い家柄の人にまで見初められるとは、私も何だか鼻が高い。しかも跡を継いで次期当主となるんだとか。欠点なんてどこにもないんじゃないか。どこまでも素晴らしい私の運命の相手。あぁ、私も早く貴方に愛されたい。
彼を見つけたその日から、私は彼に近付く為にあらゆる手を尽くした。いくら運命とはいえ、ただの花屋の女では釣り合わない。素敵な彼には素敵な女性を。その為にはお金がいくらあっても足りないし、彼に接触する為の身分だって。彼のそばに行く為の足が必要だった。彼はまだ私の存在に気が付いていないから、先に気が付いた私の方から視界に入ってあげないと。
両親の残してくれた伝手がこんな所でも役に立つとは。やっぱり私達は世界に祝福されている。神が、私達を結び付けようとしている。
「エレファ、何を見ているだい?」
「ふふ、秘密です」
皺の多い顔で私を見る人は、政の中枢にいる男だという。
ただの花屋の娘では届かない、ならば、彼に届く人を伝って行けばいい。貴族御用達の看板は仰々しいけれど嘘ではない、実際沢山の尊い方々がうちの店を利用してくれている。丁寧で誠実な仕事をしていれば、昔からの信頼が勝手に私の評価を上げてくれた。
後は少しずつ、彼らの心の隙間を突けばいい。笑顔で話を聞き、望んでいる答えを与えるだけの簡単な作業。時には励まし時には寄り添い、時には厳しい意見をする。相手によって態度は変えず、反応を変えるだけ。そうして信頼されたら、今度はこちらが小さな不安を零す。
まだ若く、美しい女が、両親の残した家業を継いで一人頑張っている。いつも寄り添い、励まし、時には助言もくれる優しい娘が、抱え切れない不安を漏らした。自分なら簡単に拭ってやれる程度の翳りを見せた。いつも支えて貰っているから、今度は自分が。そう思わせれば相手はさらに私への信頼と親密度を深める。そんな循環。
男を狙った訳ではなかったが、私の顔は女性相手よりも男性相手に一層の効果を発揮した。愛人なんて呼ばれる事もあったが、彼らにとって私は神聖な、一種の聖域であったらしい。身体を求められる事はなく、話をして、装飾品を貢がれる。向こうから手が伸びないのなら、私が焚き付ける事もない。
どこかの貴族の使用人から始まった道だが、彼に届くまでの最短ルートを進んでいる自信があった。今私で人形遊びに興じている男は、彼の一つ下の身分だという。
もうすぐ、会いに行けるわ。
× × × ×
「初めまして、エレファと申します」
美しく嫋やかに、背筋を伸ばして凛と立つ。顔は優しく柔く穏やかに。彼が望むのは決して己を傷付けない聖母の様な包容力だ。何を言っても怒らない、何をしても拒否しない。自分の言葉を肯定し、同調してくれる人を求めている。否定されたくない、叱られたくない、優しくされたい、労わられたい。
初めて私を視界に入れたオールドは、怯える小動物の様な人だった。傷付き疲れ果てた様子で、ずっと力が入っている。こちらを警戒しているけれど、本当はすぐにでも甘やかされたいという欲求が透けている。
抱き締めてあげたい。願うままに甘やかしてあげたい。でもまだ、駄目。求めるものを求められるだけ与えたら、彼は満足してしまう。今までは満足して去って行って貰わねば困ったけれど、今回は去られては困る。私を求め続け、離したくないと希われなければ。
警戒を解いて心に触れる。優しく甘く、でもどこか物足りない。もう少し、後少し、どうしてどうしてと、焦れて彼から望まれるまで。私はここよ、ほら、手を伸ばして。
さぁ、捕まえて。
× × × ×
彼の愛人になった。彼には奥様がいるのだから、私が愛人になるのは当然だろう。出来れば奥様にご挨拶したかったけれど、普通の妻は夫の愛人に会いたくはないらしい。オールドも奥様と私を会わせたくないみたいで、住まいも別で用意してくれた。オールドはほとんど私と一緒に生活しているから、奥様は寂しがっている事だろう。時折義理のお父様に言われて戻っているけれど、それも夜だけで一泊もしない。真夜中に石鹸の香りを纏い帰って来る。
奥様と会った後の彼は、何だか辛そうだ。私を抱き締め、何度も謝る時だってある。本妻に出来ない事を悔いているみたいだけれど、私は全然気にしていないのに。私は貴方を構成する全てを愛しているのだから、当然、貴方の奥様だって愛しているのよ。でも彼は奥様がお好きじゃないみたいだから、寄り添って共に悲しんであげないと。
少しして、奥様が懐妊された。どこか解放された様に感じたのは、気のせいではないだろう。義父の望みは跡継ぎだった。彼はその願いを叶えた。オールドが本邸に戻る事はほぼ皆無になった。屋敷の管理の為に月に数分顔を出すだけで、後は私と共に別邸で生活している。
妊娠中は心細いだろう、生まれて来る子も心配だと帰宅を進めてみたが、助産師に全て任せているらしかった。折角の彼の子が流れては勿体ないと思ったけれど、プロがサポートしてくれるなら大丈夫だろう。生まれた子は、彼によく似た女の子だったそうだ。
いいな、私も欲しい。
× × × ×
私が彼の子を産んだのは、その翌年の事だ。遂に彼はひと時も本邸に帰らなくなり、私をずっと傍で支えてくれた。つわりの時もお腹が大きくなって動くのが困難になった時も。一緒に子供の物を選んでいる時間は、この上なく幸せだった。
生まれて来た子は、白髪に鮮やかな青い目をした女の子だった。私にそっくりで、オールドにはあまり似ていない。少し残念だった。奥様に子供を交換してもらおうかとも思ったけれど、オールドがとっても嬉しそうだったから、この子でも良いかと思った。どちらも彼の子である事は変わりない、ならばどちらも愛しい子だ。私に似ているけれどオールドの遺伝子が宿っているというのも、感慨深くはあるのだから。
娘はメアリージュンと名付けられた。私は愛人だから私生児となってしまったし、貴族社会に入れる訳にもいかない。メアリーは平民としての人生を歩む事になった。
社交界へ出向く事は出来ないけれど、それだけだ。そちらは奥様と長女が請け負ってくれている。オールドは私とメアリーをそちら側に迎えたいらしかったけれど、正妻と正式な長女がいるのに愛人家族に出る幕はない。オールドは不満そうだったが、私もメアリーも幸せで、理想通りの生活と言っていい。愛する人と可愛い我が子、三人なに不自由なく暮らせている。このまま一生、この幸せが続くのだと思っていた。
彼の奥様が、亡くなった。
× × × ×
私がそれを聞いたのは、奥様が亡くなってから幾日も経った頃だった。既に葬儀も終わり、あの大きな本邸には長女が一人で住んでいるという。
「そんな……あぁ、なんて事」
「エレファ……」
これほど悲しかったのは、生まれて初めてだった。両親をいっぺんに失った時よりもずっと重く苦しく、涙が留まることなく流れて行く。私を抱き締めるオールドの腕に縋り、子供の様にえんえんと泣きじゃくった。
なんて悲しい、なんて苦しい、なんて辛い。オールドの一部が、なくなってしまった。彼と共に過ごした、彼の子を産んだ、彼を構成していたものが、死んでしまった。失われてしまった。あぁこんな事なら、死ぬ前に聞いておけばよかった。貴女といた彼が、一体どんなだったかを。
「……エレファ、俺は、君を妻に迎え入れたいと思っている」
涙に溺れそうになる私に、オールドが囁いた。それは彼にとって、一等の愛の証であった。彼が私とメアリーを本当の家族にと望んでくれていたのは知っている。それが叶わず歯痒い思いをしていた事も。
失われた部分を惜しむ気持ちは、まだ当然残っている。でも嘆いた所で、それはもう戻って来ない。ならば切り替えて、前を向いた方が健全だ。何より、彼女は素晴らしい宝を残してくれたじゃないか。
「オールド……勿論よ。妻として、母として、私が貴方を支えて行くわ」
これで漸く、ヴィオレットの母になれる。
× × × ×
初めて対面するヴィオレットは、オールドによく似ていた。薄い灰色の髪と目、鋭い目つき、思わず引き寄せられる美貌と色香。私が思い描いていた『オールドとの娘』そのもの。私は歓喜した。
警戒と諦念、少しの恐怖。ヴィオレットに宿る感情は複雑で、それは当然の結果だと思う。私達はずっと一人の男を父親として共有してきたが、顔を合わせるのは今日が初めてなのだから。オールドは私達を接近させたがらなかったし、彼の決定に異を唱えようとは思わない。けれどやっぱり、メアリーと交換しておけばよかったと、少しだけ惜しむ気持ちになった。
でもまぁ、焦る必要はない。私達はもう家族であるし、私は彼女の母になったのだから。心置きなく理想の娘を愛でる事が出来ると、ワクワクしていたのに。
まさかオールドに、ヴィオレットへの接近を渋られるとは。
どうやら彼は前妻に加えその娘であるヴィオレットの事も好んでいないらしかった。こんなにもオールドに似ているのに、似ているからこそ嫌なのだと。それならば仕方がないけれど。見れば見る程似ていて、幼い頃なんか更にそっくりで、出来る事なら一日中その顔を眺めていたいくらい、素晴らしい出来だというのに。
あぁ、なんて勿体ない。
× × × ×
オールドが久しぶりに義父に呼ばれたらしい。元義父というべきかもしれないが、オールドはもうヴァーハン家当主として彼の跡を継いでいる。未だ発言権の強い義父とオールドの関係がどういう風になっているのか、政に疎い身では把握し切れていない。けれど、そもそも私が知るべき事でもないだろう。オールドの血を引くメアリーは兎も角、私はどうしたって貴族の世界に入れはしないのだから。
オールドのいない家は寂しかったけれど、ヴィオレットがいる。当然彼本人には及ばないが、彼女を見ているだけでも私の心は尽きぬ愛で満ちて行く。オールドいぬ間にと開いたお茶会は、本当に有意義なものだった。見れば見る程理想的な姿。オールドによく似た、彼の娘。
やっぱり、彼女の方が欲しい。
× × × ×
彼が予定よりも早く帰宅した日、我が家は大きく変化した。メアリーはオールドを避ける様になったし、彼も疲れた様子で食欲がないらしい。何より、ヴィオレットが家を出て行ったまま戻らない。
何故、どうして。探しに行こうという私を遮ったのはオールドだ。見た事のない怒りを爆発させ、ヴィオレットの部屋を壊そうとした所で、我が家のコックに抑え込まれてしまった。そう言えばヴィオレットの侍女もいない。なにがあったのか問うても誰も答えないし、メアリーもオールドも沈んだまま。
私の楽園は、一夜にしてその色を変えた。花が咲き誇る太陽の下だったはずが、今では嵐が過ぎ去った後。薙ぎ払われた花弁が舞い散る真夜中の月下、見るも無残に荒れ果てている。
どうすれば良いのだろうか。オールドに寄り添い支えてあげたいけれど、何があったのかもわからないまま不用意に声はかけられない。貴方は悪くないわと言ってあげたいが、彼の憂いがメアリーであったなら逆効果だ。オールドは本当に、メアリーを愛しているんだから。勿論私だって、メアリーは最愛の娘であるけれど。
選ぶなら、ヴィオレットが良いわよね。
× × × ×
ヴィオレットが婚約し、家を出る事になった。メアリーでは駄目らしい。
理想の娘を手放さなければならないのはとっても残念だったけれど、駄目ならば仕方がない。メアリーは残っているし、最愛のオールドが傍に居る。どうやらオールドはメアリーの方が良いらしいので、結果的にはこれで良かったのかもしれない。ヴィオレットは惜しいが、オールドの気持ちが一番大切だ。
「オールド、どうかしたの?」
「いや……」
三人家族になり、別邸の時と同じ生活はなんだか懐かしかった。彼を見付けてもうすぐ二十年。私の気持ちは欠片も変わっていない。むしろ毎日彼への愛が増すばかりで、きっと彼も同じ気持ちだ。
メアリーも直にお嫁に出る。そしたらまた二人切り。そう言えば割と早い段階でメアリーを身籠ったから、二人切りというのは実はあまりない。何より夫婦として過ごす二人の時間は初めてだ。
どれだけ長く共に居ようと、全てを見て来た訳ではない。前妻との間の事もそうだし、ヴィオレットの事で怒りを露わにした時もそう。メアリーと喧嘩したのも初めて見たし、焦った姿も見た事がなかった。きっとまだまだ沢山、見た事のないオールドを知ってゆくんだろう。もう既に一つ。
貴方って、青い顔も素敵なのね。




