第十六話 ブルースターの花束
ロゼットを見送り、室内へと戻った二人は、夕飯の時間を待つ為に談話室に向かった。向かったというか、ユランがヴィオレットの後ろをついて来ただけなのだが。
妊娠が発覚してから、ユランは前にも増して過保護になった。本当はおはようからお休みまでベッドにいて欲しいし、着替えも食事も全部俺がしてあげたい。そう告げた目は冗談に見えなかった、現実的に無理だと諦めただけで、本心ではあるのだろう。
とはいえ十割を諦めただけで、六割程は叶えるつもりであるらしい。帰宅時間を早め、家にいる時は隣にくっ付き、幼い頃から鍛え抜いたヴィオレットへの観察眼を遺憾なく発揮して。気が付けばヴィオレットは、ユランがいる間ほとんど動く必要がない生活を送っていた。
「ユランも疲れているんだから、部屋で休んで来たらどう?」
「ん? ヴィオちゃん疲れたの? 部屋まで運ぶ?」
「私じゃなくて貴方の話よ」
「俺は大丈夫だよー」
「嘘。昨日も私が眠った後仕事してたでしょう」
「あ、ごめん、起こしちゃた……?」
「お手洗いの時に気付いたの。ユランは無理をしていても顔に出ないんだもの」
むすんとふくれた頬は怒っているのだと示しているのに、肝心のユランは微笑ましいとばかりに表情を緩めている。言って聞く人でない事は長い付き合い中で把握済みだ。ユランが自身を大切にしない事も、する必要がないと思っている事も。
それが辛かった事もあったし、告げた事もあるけれど、どう訴えてもユランは『ヴィオレットが嫌がるから』としか改善しようとしない。そしてそういう理由で改善出来るものでもない。
だからもう、考えるのはやめた。ユランに大切に出来ないなら、ヴィオレットが大事にすれば良い。幸いヴィオレットはユランを甘やかすのに長けているから、幼馴染としても、恋人としても、妻としても。感情が重いのはお互い様なのだから、いっそ全力で互いを労われば補い合える。
「もう……ほら、こっちに来て」
「え? わっ……」
くん、と袖を引っ張れば簡単に傾いた体に従えば、慌てたユランがヴィオレットの背中に腕を回す。沈んでしまえば、大きなソファに二人、すっぽりと収まった。押し倒させる誘導をしても彼は絶対にヴィオレットを潰さない。その信頼に応えたユランは、背もたれとは逆の位置に横たわる。向き合った目線は同じ高さで、何だか新鮮だ。共に眠っても、腕の中にしまい込まれて、見上げる事の方が多かった。
「どうしたの……?」
「一人で眠れない寂しがり屋さん、一緒にお休みしましょう」
「むぅ……」
背中に伸ばした手で、ぽんぽんとリズムを刻めば、むくれた様な、でもちょっと眠たそうな声を漏らした。分け合う体温は高いから、やっぱり寝不足だったんだろう。とろりとろりと重くなった瞼によって太陽が徐々に沈んでゆく。
「ふふ……おやすみ、ユラン」
「ん……」
長い睫毛が影を作り、小さな寝息が聞こえ出した。すぅすぅと微かな呼吸音で上下する胸に体を寄せて、触れた部分で鼓動を感じた。この体にあるのと同じ物が今、自分の体内で作られている。人を生かす心臓、血液、骨、皮膚。その全てにユランの遺伝子が混じっていて、この腹の中でヴィオレットとユランの欠片達が長い時間を掛けて一つの命になろうとしている。生命は神秘というけれど、全くその通りだ。己の体の中で何が起こっているのか、きっと切り開いて見た所で理解出来ない。
ユランの背に回していた手を、まだ柔らかさの残っている腹に当ててみる。子の存在を知ってから何度も行った。これといった感慨もなく、丸さの増した体の変化を実感するだけの行為。
妊娠が分かっても、母の顔は空白のままだった。想像の中の家族はずっとのっぺらぼうのままで、欲しいとかいらないとかの感情すら分からないまま。
ただ──見てみたいとは、思った。
愛と呼ぶには無責任で、他人事みたいな興味。見てみたいから、産もうと思った。芽生えるか分からない愛情よりも、今確かに抱いている好奇心に従おうと決めた。
どんな顔なんだろう、どんな声なんだろう。目の色は金色かな、髪の色は灰色かな。どっちに似るんだろう、性別は。
「早く、君に会いたいわ」
ゆるりと撫でた手の平に、小さな鼓動を感じた気がした。




