表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
230/253

第十五話 雪解けを見た

 ラディアと名付けられた王子様は周囲の愛情と思惑を受けながらすくすくと育ち、寝返りからはいはい、つかまり立ちとその成長で国中を楽しませている。クローディアやミラが心配していた古い貴族の考えは未だ払拭出来ていないが、最近はユランも手を貸していると聞く。金色信者が一掃される日も夢ではない。

 あまり強引な手を使うのはクローディアが難色を示すので時間は掛かるだろうけれどど、金の目を持たずに生まれた王子様が、自らの立場と未来を理解するまでには、きっと。


「まさかユラン様が手を貸してくれるなんて思ってもいませんでしたけれど……ヴィオ様が理由でしたら納得です」

「私も知らなかったわ。彼、仕事の話はしないから」

「聞いて楽しいものではありませんからね。私も仕事の一環だから知っているだけで、クローディア様から話される事はないですし」

「ロゼットは公務があるものね……ちゃんとお休み出来てるの?」

「ラディアがいるので、ある程度は。あの子の世話と言ってもぐずったらあやすくらいで、食事や着替えはして貰ってますし」

「なら、良いけれど。無理をしては駄目よ?」

「ふふ、ありがとうございます。こうしてヴィオ様のお家に遊びに来られるくらいには自由な時間も頂けてますし、沢山の方の手も借りれていますから、大丈夫ですよ」


 透明なグラスの中で、鮮やかな黄色が輝く。シュワシュワと立ち上る泡が果肉の表面を撫でて、外気に触れるとぱちんと弾けた。硝子にぶつかる氷の音と、甘酸っぱい爽やかな香り。いつかの夜、ユランともこうして飲んだレモンシロップ。


「これ、とっても美味しいですね。水やお湯で割っても美味しそうです」

「でしょう ? こればかり飲んでしまうんだけど、糖分は少し控える様に言われてしまったのよね」

「まぁ……私はむしろ低血糖症状があったので、色んな所にブドウ糖を忍ばせてました」

「そう言えば手紙で言っていたわね。読み返してみると色々参考になって助かってるわ」

「お役に立てたなら何よりです。報告を頂いた時は驚きましたけど、本当に喜ばしい限りです」


 嫋やかに微笑むロゼットは、すっかり母の顔になった。女性は妊娠出産で顔付きに変化があるというけれど、自分も既にどこか変わっているのだろうか。今までの服装が少しだけきつく感じる様になったお腹に手を置いても、肉付きが良くなった様にしか感じられないけれど。

 この柔い皮膚の下で、ヴィオレットではない命が脈打っている。


「ご懐妊、おめでとうございます。ヴィオレット様」

「……ありがとう。まだ全然現実味がないのだけれど」

「そんなものです。私も未だに親になった実感が薄いですし」


 ラディア生誕祭から一ヶ月程経った頃、ヴィオレットの妊娠が分かった。つまりあの夜には既に命は宿っていたという事だ。むしろあの頃感じていた漠然とした不安や恐怖は、ホルモンバランスの乱れによって増幅された所もあったのだろう。


「でもまさか料理長が真っ先に気付いていたなんて」

「シスイさん、でしたっけ。妊娠による食の変化は確かにありますけれど、それだけで気付いたんですか?」

「そうみたい。私は食が変わってる自覚なかったんだけれど」

「ヴィオ様の事、よく見ていらっしゃるんですね」

「そうねぇ……小さい時からずっとお世話になってる人だけど、そういう変化に敏いとは思ってなかったのよ」


 料理に対してはとても繊細で丁寧だが、他は大雑把が服を着て歩いている様な男だ。主人であるユランに対しても、ヴァーハンにいた時の『ヴィオレットの年下の幼馴染』と変わらない態度で接し、未だ坊ちゃんと呼んでは食育に励んでいる。ユランが気にする素振りを見せないのでヴィオレットから苦言を呈するつもりはないけれど、豪快なのか無頓着なのか。そんな男がヴィオレットの妊娠に誰よりも早く気付くなんて、ユランが驚きと悔しさで何とも言えない表情になっていた。


「食に対してはストイック過ぎる程ストイックだし、味覚の変化で気が付いたのはらしいと言えばらしいけれど」

「凄いですねぇ……」

「お医者様に診断してもらってから振り返ったら、確かに多少の変化はあったけど、どれも微々たるものだったの。目に見えて変わったのはその後ね」

「つわりですか」

「えぇ。私は吐くより食べる方が強かったから、腕の振るいがいはあったんじゃないかしら」

「体重は大丈夫そうですか?」

「何とか……ギリギリね」

「うふふ、最後の方は食べても食べなくても増えますよー」


 久しぶりのお茶会に会話の花は満開で、いつの間にかグラスの中の氷は全部溶けて、染み出した様な結露で透明だった硝子は曇り空を描いていた。キャラキャラと侍女の腕の中で笑っていたラディアのぐずる直前の様な声で、二人は初めて時計に目を向ける。針よりも先に窓の先で橙に染まる空が物語っていた。


「もうこんな時間だったんですね……そろそろ失礼します」

「遅くまでごめんなさい。とっても楽しかったわ」

「こちらこそ、久しぶりにお会い出来て嬉しかったです」


 名残惜しさと、ヴィオレットの体への思いやりで、ゆっくりとした足取りとなった玄関への道。ロゼットを見送る為に開いた扉の先で、一台の車がエントランスで停車する。運転手が開いた扉から下りた長い脚、すらりと伸びた背筋。氷塊の様な美しさを纏う貌が、ゆっくりとロゼットを、その奥にいるヴィオレットを捉えた。


「ヴィオちゃん、ただいま。ロゼット妃は今お帰りですか?」


 氷解は一瞬。トロリと形を変えた眼差しは、当然の様に一人だけに注がれる。


「ユラン、おかえりなさい」

「お邪魔していました。丁度今お暇しようと」

「そうですか。お気を付けて、また是非いらして下さいね」


 台本でも読んでいるかの様な抑揚の薄さで別れを告げて、さっさとヴィオレットの隣を陣取ったユランの視界に、ロゼットは収まっているのだろうか。流石にいない者として扱われはしないが、ユランの意識がヴィオレットだけに注がれているのは見なくとも分かる。

 相も変わらず、ロゼットに声を掛けたあの日から、その目も耳も、人生丸ごとヴィオレット一人の為にある男だ。何一つ譲らずに貫き通した末、遂に望みの人を手中に握り込む事が出来た。あの日ロゼットが垣間見た執着と強欲は、今も変わらずユランを形作っている。芯の部分は変わらないし変われない。


「体は平気? 寒くない?」

「大丈夫。むしろちょっと暑いくらいなの」

「そっかぁ……でも体冷やすのは駄目だもんね」

「少し火照ってるくらいだから平気よ」


 飼い主の足元に纏わり付く子犬の様に、ヴィオレットの傍で視線をうろつかせる。張り詰めて、強張って、誰も彼も、己すらも嫌っていた少年が。死の気配すら纏っていた男が。何処にでもいる、最愛の妻が心配でならない夫の姿で微笑む。

 その空間が、何よりも二人の幸せを物語っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ